1567年10月 安西の姫君
康徳元年(1567年)十月 美濃国稲葉山城
康徳元年十月十四日、徳川家康の子である徳川高康と娘の御徳姫との婚礼を見届けた高秀高は翌日に三河を出立し、この日十四日には安西高景の居城である稲葉山城に到着。そこに宿泊する事となった。
「殿、徳川家とのご縁談、祝着至極に存じ奉りまする。」
「ありがとう高景。これで東の事は万全となった。」
稲葉山城山麓にある旧斎藤義龍の居館。そこを改修した山麓御殿の広間にて城主・高景の歓待と言葉を受けた秀高はお礼を高景に返した。すると高景は秀高の眼の前に置かれてあった御膳を手で指しながら促した。
「ささ、今宵は心づくしの膳を用意いたしました。何卒心ゆくまでお楽しみくだされ。」
「そうか。じゃあありがたく頂くとしよう。」
その言葉を受けた秀高は御膳の上の箸を取り、皿の上に盛られていた里芋の煮つけを口に運んだ。その美味しさにうっとりしながら御膳を進めるとやがて玲たちや高景配下の家臣たちも御膳に箸をつけ始めた。その中で秀高は側にいた静姫から盃に酒を注いでもらった後、下座に控えていた高景に語り掛けた。
「高景、美濃国内の政情はどうだ?」
「万事つつがなく進んでおりまする。美濃国内の農民たちは灌漑などの治水作事に積極的に従事し、その成果は日を覆うごとに目に見え始めておりまする。例えば…」
そう言うと高景は側に置いてあった一冊の検地帳を手に取ると、上座に座る秀高の側に近づいて手渡しで渡した後に、その中に書かれている内容を秀高に告げた。
「これは美濃国内の石高の推移にございまするが、平定した三年前は五十五万石程の石高にございましたが今年の秋ごろには五十九万石ほどにまで成長しておりまする。」
「確か、今の尾張の石高は六十四万石、伊勢が六十万石ほどにございましたか。僅か三年でそれほどまで成長するとは驚きにございまするな。」
「うん。領民の皆には感謝してもしきれないな。」
下座に控えていた三浦継意が発した石高の推移を聞いた後に、秀高が領民の働きを感謝するように言葉を発すると高景は秀高に向けてこう発言した。
「濃尾勢の他にも近江や伊賀など諸国の石高を合わせれば、石高は三百万石ほどになると貞勝は申しておりまする。のみならず諸国では美濃同様に農民たちが積極的に新田開発や治水に従事しており、石高は更に右肩上がりになるでしょうなぁ。」
「そうか。これで他家との国力の差が大きくなれば、より派手な一手が打てるようになる。高景、農民たちへの扱いを無碍にはするなよ?」
「ははっ。」
秀高の言葉を受けた高景は会釈をして秀高へ返事を返した。するとそこに高景正室の瑞が三味線などを持つ芸人衆と共に一人の若き姫君を伴って現れた。その姿を見た高景が脇に逸れた後に、瑞が姫君と共に上座に座る秀高や玲の目前にて膝を付くと頭を下げて挨拶を述べた。
「殿、この度は我が居城への御来訪、ありがたく存じます。ささやかにはございますが踊りを一つお見せ致したく思いまする。」
「そうか。是非とも見せてくれ。」
その言葉を受けた瑞は後ろに控えていた姫君に目配せをすると、自らは芸人衆の側に下がって様子を見守る様に座した。すると芸人衆は三味線などの楽器を鳴らして演奏を始め、その演奏に合わせて姫君が扇を手に持ちながら見事な舞を披露した。
「あれは…?」
「はっ、あれは我が娘にございまする。」
秀高の尋ねを受けて高景がそう言った。目の前にて踊っているこの姫君こそ他でもない高景の娘であった。その美貌は周りを魅了するほど美しい物であり、姫君が舞う見事な舞も相まって周りの視線を一身に集めていた。
「うわぁ…凄く綺麗だね。」
「あぁ。それに見事な舞だ。動きの一つ一つに無駄がない。」
玲の言葉を受けて秀高は言葉を返すと、そのままじっと見つめるように姫君の舞を見ていた。しばらくして演奏が終わって舞が終わると、姫君は扇を閉じて再び秀高の目の前に赴くと、その場に正座すると頭を下げて秀高に言葉を述べた。
「…殿、お目汚し失礼いたしました。」
「見事だ。姫、名前は何と言う?」
秀高からの問いかけを受けた姫君は、ゆっくりと頭を上げると秀高に対して自身の名を名乗った。
「安西高景が息女、澄にございます。」
「澄姫…か。年はいくつだ?」
「十九にございます。」
秀高は十九歳の澄姫の風貌を見て感嘆するように見つめていた。その大人びた雰囲気は年齢に似合わぬほど落ち着きがあり、同時にその美貌が大人の雰囲気を醸し出していた。すると澄姫の父・高景が澄姫の事を秀高に説明した。
「我が娘は舞踊の他に漢籍にも通じ、和歌や漢詩の腕前は一人前にございまする。されど肝心な嫁ぎ先が見つかっておらず、今はこうして手元に留めておる次第にございまする。」
「嫁ぎ先…」
秀高が高景の言葉を受けながら澄姫の事を見つめた。澄姫は高景の言葉を聞くとやや視線を下に向けて黙って聞いていた。その様子を上座にてみていた秀高に母の瑞が澄姫の側にやってきて秀高に頼み込んだ。
「殿、差し出がましい願いとは存じまするが、何卒この澄を殿のご養女として相応な家へ嫁がせて頂けないでしょうか?」
「瑞!でしゃばるでない!」
「高景、そう怒ってやるな。」
瑞に対して一喝するように怒った高景に、秀高は怒りを鎮めるように優しく言葉をかけた。その後に秀高は澄姫へ視線を向けると高景や母からの提案を踏まえた上で尋ねた。
「澄姫、母上はそう申し出て来ているが、お前の本心はどうだ?」
「大殿のご養女として他家とのつながりを持てるのならばうれしい事はありません。この澄、覚悟は出来ておりまする。」
「そうか…」
その澄姫の覚悟を受け取った秀高は両脇に座していた玲と静姫の二人と視線を交わした。そして玲や静姫と目配せをした後に澄姫の方を振り向くと、こくりと頷いて言葉を澄姫へかけた。
「分かった。澄、お前は今日から俺の養女として扱う事にする。肝心な嫁ぎ先は追って言い渡すので、それまでは嫁ぐ準備をしておくようにな。」
「はい。ありがとうございます。」
「でも秀高、澄の嫁ぎ先とは言ったって、どこに嫁がせるって言うのよ?」
「…一つだけある。澄を嫁がせるのにうってつけの家がな。」
静姫のその問いかけに秀高は心の中に対象の存在を思い浮かべて言葉を返した。秀高にはこの時、澄姫の風貌を見た後に嫁がせる先をある程度固めていたのであった。その澄姫の嫁ぎ先を家臣一同や玲たちが知るのは、それから数日後の事であった。