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1567年10月 三河の祝言の席上にて



康徳元年(1567年)十月 三河国(みかわのくに)岡崎城(おかざきじょう)




 康徳(こうとく)元年十月十二日、幕府内にて侍所所司(さむらいどころしょじ)の要職に就き、幕政の中枢に参画していた高秀高(こうのひでたか)はこの日、京を離れて徳川家康(とくがわいえやす)の居城である岡崎城を正室・(れい)静姫(しずひめ)、それに筆頭家老の三浦継意(みうらつぐおき)らと共に訪れていた。尾三同盟(びさんどうめい)締結時の条項の一つである家康の嫡子・竹千代(たけちよ)と秀高の娘・御徳(ごとく)との婚礼の祝言に参列する為であった。この時、元服(げんぷく)を済ませた竹千代は秀高の一字である「高」の字を拝領し名を「徳川高康(とくがわたかやす)」と名乗っていた。


「…三河(みかわ)殿、ここにこうして二人の婚礼をつつがなく済ますことが出来て何よりだと思う。」


「はっ。この家康も同じくそう思いまする。」


 岡崎城の本丸館の広間にて行われていた祝言の席上、秀高は家康の座る席に赴いて上座に座る新郎・高康と新婦・御徳姫の姿を見つめながら、家康の盃に酒を注ぎつつ会話を交わした。するとその視線に気が付いた高康が御徳姫と共に秀高の目の前に座ると、秀高に向けて頭を下げて律儀な挨拶を送った。


(しゅうと)殿、御徳との縁談。ありがたく思いまする。婚礼を挙げた上は二人で手を取り合い、両家との仲を深めて参りまする。」


「そうか。高康殿、御徳の事を頼むぞ。」


「ははっ。」


 秀高が挨拶を述べた高康に向けて言葉を返し、それを受け取った高康は返事を秀高へ返した。すると秀高の側に座っていた御徳姫の母でもある静姫が、御徳姫の手を握りながら諭すように語りかけた。


「御徳、貴女は今日からここの家の一人になるのよ。私とはなれるのは悲しいでしょうけど、これも使命だと思って誠心誠意尽くしなさい。良いわね?」


 この言葉を母である静姫から受け取った御徳姫は、言葉を発さずにこくりと首を縦に頷いた。するとそれを見ていた家康が感心しながら秀高に言葉をかけた。


「ほう、これは随分と落ち着きのある姫君ですなぁ。」


「えぇ。じゃじゃ馬の母に似てなくて驚いているよ。」


「へぇ…それは悪かったわね。」


 母親である静姫が秀高に向けてキッと睨みながら言葉を返すと、その言葉を受けた秀高は引きつった笑いをその場で見せた。その光景を見ていた家康はおかしく思って高らかに笑いながら御徳姫に向けて言葉をかけた。


「はっはっはっ…ご案じあるな姫君。そなたは今日からここに住まう事にはなるが、高康の母である瀬名(せな)や瀬名の父・関口親永(せきぐちちかなが)が心を尽くして面倒を見てくれるであろう。」


「秀高様、関口親永にございまする。」


「あなたが…」


 家康の言葉を聞いた後に家康の近くにて座していた親永と瀬名姫が秀高に向けて頭を下げ、同時に親永が秀高に言葉を発して挨拶を述べた後にそのまま言葉を続けた。


「秀高殿、わしは亡き太守(今川義元(いまがわよしもと))の一門なれど、氏真(うじざね)殿のやり方について行けずに離反いたし申した。故に我が心に一片の曇りはございませぬ。御徳姫の事、誠意を尽くし養育に当たりまする。」


「そうですか…何卒お願い申し上げます。」


 親永の言葉を受けて秀高が返事を返すと、親永の側に座していた娘の瀬名姫が代わって秀高へ言葉を発し挨拶を述べた。


「瀬名にございます。御徳姫との縁談が成就した今、我ら徳川の者達は両家との仲の証である御徳姫の事を丁重に取り扱いいたします。」


「瀬名さま、宜しくお願い致します。」


 秀高は挨拶を述べてきた瀬名姫に頭を下げると、近くにいた静姫もまた瀬名姫に向けて頼み込むように頭を下げた。その後、祝言の席にて酒食が振る舞われて両家の家臣が口を付ける中で、秀高は真向かいに座る家康からある事を告げられた。


「…駿河(するが)の情勢が不穏?」


「はっ。服部(はっとり)父子からの報告によりますれば、輝虎(てるとら)東北(とうほく)平定に氏真(うじざね)は兵糧や武器弾薬などを供出しておるのですが、その国許では在地の豪族や領民がそれに伴う重い負担に耐え切れずに暴発寸前であるとの事。」


「暴発…」


 家康からもたらされた情報を聞いた秀高は盃を御膳の上に置いて考え込んだ。かつて東海(とうかい)にその名を轟かせた今川家(いまがわけ)は先代今川義元(いまがわよしもと)の死後、急速にその勢いを衰えさせていった。その今川家の衰えを更に実感させられる情報が、家康家臣である石川数正(いしかわかずまさ)本多重次(ほんだしげつぐ)両名の発言によってもたらされた。


「そもそも駿河の今川家臣団は、先の桶狭間(おけはざま)知立(ちりゅう)の戦いで大身(おおみ)の重臣・国衆が多く討死しておりまする。氏真はその穴を埋めるべく近臣に知行を与え申したが、その統治が(まず)いようで領民にも見放され始めておるとか。」


「特に富士信忠(ふじのぶただ)の子である富士信通(ふじのぶみち)信重(のぶしげ)兄弟や岡部長秋(おかべながあき)は氏真への不満を隠そうともせず、近臣の中でも大禄を得た吉田氏好(よしだうじよし)に至っては所領を与えられてから一度も駿府(すんぷ)へ参勤しておらぬ様子。」


「それは…ただ事ではござらんな。」


 数正と重次の発言を聞いて祝言の席に同伴していた継意が言葉を発すると、その言葉の後に家康が目の前の秀高に向けて頭を下げて言葉を発した。


「そこで中将(ちゅうじょう)殿、実は内密に申し出たき事がありまする。」


「申し出たき事?」


 秀高が家康からの申し出を聞いて反応すると、家康は秀高に向けて頭を下げながらその内容を語った。


「どうかこの家康に、氏真を駿河から追い出す策を実行させて貰えぬでしょうか?」


「駿河から追い出す?」


 家康から告げられた事。それはつまり今川氏真を駿河から追い払い、徳川家の所領とする物であった。家康は頭を上げると秀高の顔をじっと見つめながら動機を語った。


「上杉輝虎は鎌倉公方(かまくらくぼう)を通じて駿河への手出しを禁じて参りましたが、それは表立っての事にて、駿河の領民や豪族などから請われたとあってはこちらも受けぬわけにはいきますまい。」


「しかし駿河への手出しは鎌倉府(かまくらふ)への宣戦布告であると、先方は申して来ておるのでは?」


 この数年前、家康の元には鎌倉公方(かまくらくぼう)足利藤氏(あしかがふじうじ)の名で駿河への不可侵を命じる書状が届けられていた。その書状を受けておきながら駿河への野心を表明した家康は、その場で秀高にもう一つある事を頼み込んだ。


「そこで中将殿、何卒幕府に働きかけて駿河侵攻のお墨付きを幕府から頂戴出来ませぬか?」


「お墨付き?」


 家康の提案を受けて秀高の側にいた玲がオウム返しをするように言葉を発すると、家康は玲の方を見ながらこくりを首を縦に振った後に言葉を続けた。


「駿河の政情や情勢を知れば幕府とて看過出来ぬはず。氏真の駿河追放が幕府の命であるともなれば、いかに鎌倉府もおいそれと反発は出来ぬでしょう。」


「なるほど。つまるところ家康殿は我が主の立場を利用し、駿河奪取を目論(もくろ)んでおるという訳ですな?」


「利用とは人聞きの悪い。されど駿河の情勢に嘘偽りはありませぬ。それにもし、今後鎌倉府と対立するような事があった際、今の我らの所領である三河や遠江(とおとうみ)信濃(しなの)・駿河の二方向から敵が雪崩れ込んで参りまする。領国防衛の観点から見ても関東(かんとう)諸侯の軍勢や甲斐(かい)の敵を阻むために駿河は何としても手に入れておきたいのです。」


 家康の申し分は正しかった。確かに今現状の三河・遠江に細長く伸びる徳川の勢力圏では、東の鎌倉公方や北の上杉軍の侵攻を受けやすく防衛には不向きであった。そこで天険として名高い箱根(はこね)の山を利用する為にも駿河を得たいという家康の考えを聞いた秀高はこくりと頷いた。


「…三河殿の言い分は分かった。こっちも内密に働きかけてはみるが、くれぐれも三河殿も慎重に事を進めるように。」


「良いの?秀高くん。」


 秀高の言葉を聞いた後に玲が秀高の顔を見つめながら尋ねると、秀高は玲の方を振り向いて頷いた後に言葉を返した。


「三河殿の言い分に間違いなはい。今後の事を考えておけば駿河を得ておくに限る。果たしてそれが上手くいくかどうかは分からないがやってみる価値はあるだろう。」


「という事は…鎌倉府と事を構える覚悟が出来ているという訳ね?」


 玲の隣に座っていた静姫が秀高に向けてそう言うと、秀高はこくりと頷いて言葉を返した。


「あぁ。これ以上輝虎を増長させるわけにはいかない。表向きは刃を見せずに、裏でじっくりと力を削いでいく。三河殿、駿河の事はお任せします。」


「ははっ。お任せくださいませ。」


 秀高からその言葉を受けた家康は、数正や重次と共に秀高へ頭を下げた後に返事を返した。こうして徳川家康は水面下で駿河への調略を行い始め、駿河今川家への攻略準備に取り掛かったのである。





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