1567年3月 和泉灘海戦
永禄十年(1567年)三月 淡路国近海
永禄十年三月十四日。淡路島の近海・和泉灘に紀伊水道の方角から進入する一つの船団があった。帆に大きく「丸に違い鷹の羽」の家紋が施された九鬼嘉隆指揮する三百艘余りの高水軍である。指揮官である嘉隆は座乗する安宅船の甲板から、淡路島の方角に向けて望遠鏡を覗き込んでいた。
「見えたぞ。あれが三好の水軍だ。」
周囲を小早や関船に固められている中で嘉隆が双眼鏡から目を離して言葉を発すると、水軍の水先案内を買って出ていた紀伊の豪族・堀内氏善が遥か先に見える光景を見つめながら嘉隆の言葉に反応した。
「淡路島を背に数百艘…こちらを待ち構えていたとばかりですなぁ。」
「堀内殿、ここら辺の波の様子は?」
嘉隆よりその言葉を受けた氏善は、辺りを見回しながら風向きや波の様子を見つめた。そしてそれらを一通り確認した後に尋ねてきた嘉隆に対して言葉を返した。
「今はまだ昼にもなっていないとなれば、潮の風はこちらに向かって吹いて来まする。ですがあと数刻立てば、風向きは一気に追い風となりましょう。」
「なるほどな…よし!各船に合図を送れ!敵の来襲に備えよとな!」
「おう!」
嘉隆は近くにいた水夫に対して下知を飛ばした。これを受けた水夫は法螺貝を鳴らして味方の船団に合図を送った。それを聞いた味方の船では座乗している味方の将兵が鉄砲や弓を手に持ちながら、はるか向こうに見える敵水軍の来襲に備えた。
「来たか…高家の水軍め。」
一方、この高水軍の接近は淡路島を背にして陣取っている安宅冬康指揮する三好水軍の大将船から見えていた。冬康の言葉の後に冬康の息子の安宅信康が父と同じ方向を見つめながら言葉を冬康に向けて発した。
「父上、今は追い風なればこの機に攻め掛かるべきかと。」
「分かっている。高家の水軍にどちらが水戦に長じているか。それを思い知らせてやろうぞ。」
信康の言葉を受けて意気込むように答えた冬康は、その場で軍配を高く掲げると大きな声で下知を下した。
「法螺貝を吹け!全船帆を上げよ!前に押し出せ!」
この冬康の下知を聞くや水夫たちがその場で一斉に法螺貝を鳴らし、その法螺貝の音の後に三好水軍の船は帆を高く上げると船足を進め、迫ってくる高水軍に攻め掛かるように素早い速さで進み始めた。この様子は、向こうの高水軍でもしっかりと視界に入り、それを見ていた嘉隆の船に乗る水夫がその場で指を指しながら反応していた。
「お頭!敵線が近づいて来やすぜ!」
「よし!鉄砲を構えよ!近づいてくる船に鉛玉を浴びせてやれ!」
狼狽える水夫とは対照的に、嘉隆は務めて冷静に乗り込んでいる将兵に下知を下した。この下知を受けた足軽たちは鉄砲を迫ってくる三好水軍の方角に向けると、やがて迫ってきた三好水軍の前衛の小早に標準を合わせた。
「放て!!」
そしてこの嘉隆の言葉と同時に鉄砲を持つ足軽たちは引き金を引き、鉛玉を三好水軍の小早に乗る者達へと浴びせた。それを受けた者は船の中に倒れ込む者もいれば、中には水中へともんどり返って沈んでいく者などもいた。
「敵船、撃ってきました!」
この鉄砲による射撃を見た冬康の次男・安宅清康が敵である高水軍の方角を指差しながら父・冬康に対して言葉を発すると、冬康はそんな清康に対してしかりつけるように反応した。
「構うな!こちらが追い風だ。敵に火矢を射掛けよ!!」
その下知を受けた水夫たちは法螺貝を鳴らし、その音を聞いた三好水軍の各船は火矢をその場で番えて高水軍の前衛に火矢を射掛けた。その火矢は追い風もあって高水軍の前衛の船に命中すると、中には船を焼き払わんとばかりに勢い良く燃え上がっていた船もあった。その中を掻い潜るように三好水軍の小早が、追い風を生かして高水軍の中に斬り込むように進んでいった。
「敵の小早が斬り込んで参りますな。おそらくはこちらの船に飛び移って参るつもりかと。」
この小早の行動を見て北条氏規の家臣・梶原景宗の船にて声を上げたのは、同じ氏規の家臣でありながら北条家が伊勢を得た後に参集してきた清水康英である。この康英の言葉を聞いた景宗はその場で頷きながら康英に言葉を返した。
「そうか。味方の船に合図を出せ!乗り込んできた敵に十文字槍を突き出せとな!」
「はっ!」
するとこの景宗の下知が伝達されると、三好水軍の小早が高水軍の船に取り付いたと同時に高水軍の船より十文字槍が突き出され、乗り込もうとした三好水軍の足軽たちを海へと突き落とした。しかしこのような個々の奮戦はあれど戦況は未だ追い風を生かす三好水軍に分があり、その勢いに高水軍の船は一艘、また一艘と討ち減らされていった。
「父上!順調に敵の船を減らしておりまする!」
「よし!このまま押し切れ!勢いを逃すでないぞ!」
その勢いを見た冬康は勝利を確信する様に声を上げ、一気に高水軍を撃破せんとばかりに大きく指揮を振るった。一方、大将船から戦況を冷静に見ていた嘉隆は務めて冷静に下知を下した。
「怯むな!間もなく風向きが変わる!それまでは持ちこたえよ!!」
嘉隆の下知を受けると高水軍は踏み止まるようにして各船とも奮戦を繰り広げた。この奮戦が功を奏したのか、やがて数刻が立つと風向きが変わり、風上に立っていた三好水軍に今度は向かい風ともいうべき逆風が吹き始めた。
「父上、風向きが…」
「ええい変わったか。怯むな!この勢いのまま押し切るのだ!」
風向きが変わったことを感じ取った清康が空を見上げながら声を発した傍らで、指揮官の冬康は采配を振るって督戦した。一方、追い風が吹き始めた嘉隆の大将船では、同じように氏善が空を見上げながら嘉隆に話しかけた。
「嘉隆殿、風向きが追い風になりましたぞ。」
「よし。この時を待っていた。火矢を番えよ!敵船を焼き払え!」
氏善の言葉の後に嘉隆は軍配を大きく振るい、味方の船に敵へ火矢を射掛けるように促した。すると今度は三好水軍の船に火矢が注がれることとなり、追い風も相まって三好水軍の船が大きな火柱を上げるように燃え始めたのである。
「父上!!敵が火矢を放って参りました!」
この味方の劣勢を直ぐに感じ取った信康が父の冬康に言葉をかけると、冬康は言葉を発してきた信康に対して言葉を直ぐに返して叱りつけた。
「狼狽えるでない!ここで負けては敵に阿波への渡海を許すことになるぞ!奮戦せよ!」
冬康は信康に対してこう言ったが、この時点で戦の劣勢は事実となっていた。果敢に攻め掛かっていた三好水軍の小早は次々と撃退され、また味方の関船も鉄砲や火矢の射撃によって損害を被って沈没する中で、今度は冬康の大将船に高水軍の小早が数隻ほど取り付き、その小早から武士が飛び移って名を上げた。
「北条氏規が家臣!間宮康俊、大将船に一番乗り!!」
「ええい、敵に取り付かれたか!!」
北条水軍の将・康俊の名乗りを受けて狼狽えたのは他でもない冬康であった。冬康の大将船である安宅船に乗り移った康俊らは三好水軍の足軽たちを次々と打ち倒すと、階段を駆け上がって冬康父子のいる甲板へと駆け上がった。そして冬康と思しき姿を見た康俊は、手にしていた刀の切っ先を冬康へ向けると声を発した。
「そこに見えるは大将と見たり!そっ首頂戴致す!!」
「父上には近づけさせん!!」
そう言って冬康に斬りかかってきた康俊を阻止するべく、息子の信康が前に躍り出たが康俊はその信康をたった一太刀で切り捨てた。
「ぐはっ!父上…」
「信康!」
即座に斬り捨てられた息子の信康の最期を見て冬康が声を上げると、その傍らでもう一人の息子である清康が声も上げずに討ち取られ、やがて甲板上の味方は誰一人としていなくなり冬康の周囲を康俊ら高水軍の足軽たちが取り囲んだ。
「安宅冬康殿…お覚悟召されよ!」
「ええい近寄るな!貴様らに首など渡してやるものか!」
康俊の言葉を受けて冬康は刀を抜き、それを振り回して康俊らを遠ざけると船の縁を背にして立ち、そこで刀を手放すと腰に差していた短刀を抜き、それを首筋に当てた後に康俊らを睨みつけながらその場で呟くように言葉を発した。
「…兄者、すまぬ。」
そう言った後に冬康は自らの首筋を掻き切り、そしてそのまま縁から海の方角へと倒れ込んで身を海中に投じていった。その最期を見た康俊が冬康が立っていた場所まで来て冬康が身を投じた海中の方を覗き込むと、自身の背後にいた将兵に対してすぐさま言葉を発した。
「冬康の亡骸を回収せよ!急げ!」
その言葉を受けた味方の将兵たちはすぐさま熊手を片手に海中へと消えた冬康の亡骸を引き上げるべく即座に行動を起こすが、その行動の前に冬康の亡骸は海中の奥深くへと消えていき、二度とその亡骸が上がってくることはなかったという…
「そうか…信康と清康の首だけか。」
戦後、嘉隆の座乗する安宅船にて届けられた冬康の息子・信康と清康の首を見ながら嘉隆が冬康が首を上げられなかったことを悔しがると、報告に上がった康俊が嘉隆に対して片膝を付きながら言葉を発した。
「面目次第もありませぬ。冬康の亡骸は深き海中へと消えていき申した…。」
「されど嘉隆殿。これで三好水軍は壊滅して残党の船を拿捕し申した。この勢いのまま淡路島を制圧しましょうぞ。」
「…そうじゃな。よし、このまま淡路国を掌握する。帆を上げよ!」
氏善の言葉を聞いた嘉隆は気を取り直して下知を下し、帆を上げて淡路島の掌握に動き始めた。その後、嘉隆率いる高水軍は三好水軍の残党の船を拿捕して戦力に加えると共に、安宅冬康なき淡路島を制圧して淡路国を平定。来る四国攻めへの露払いをものの見事に成し遂げたのである…