1557年5月 佐治氏調略
弘治三年(1557年)五月 尾張国大野城
知多半島。尾張国の南部、伊勢湾に突き出るこの半島は戦略の要衝であった。東は三河から境川を経て知多湾へと注ぎ、西から伊勢湾と合流して太平洋へと通じる地で、古くから海上交易が盛んな地域であった。
この地には現在、常滑付近の大野城を拠点に据える佐治氏と、境川付近の緒川城に拠点を構える豪族・水野氏の勢力が、織田信長支持を打ち出して割拠していたのであった。
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「あれが大野城か…」
そんな大野城に、佐治氏説得の命を受けてやってきた高秀高は、峠の頂上から大野城外の風景を一望できる場所で、大野城の風景を見た。
「はっ、佐治氏は海上交易でその収入を得ており、またそれを元に強力な水軍を擁しております…ご覧くだされ。」
秀高は、馬を引く家臣の滝川一益に言われ、その指をさした方を見た。そこは大野城から海へと通ずる入り江で、その入り江に作られた港で木造の帆船が出入りを頻繁にし、またその帆船から多くの積み荷が降ろされるのが見て取れた。
「…なるほど、これが織田方についていても、今川の圧力を跳ね返せる原動力という訳か。」
「…殿、殿!」
と、秀高に近くの茂みから、呼びかける声が聞こえた。秀高が馬上からその方向を見ると、そこには伊助が茂みの中に潜んでいたのだ。
「おぉ、伊助か。首尾はどうだった?」
「はっ、反応は一様と言っていいでしょう。その噂を真に受け、水野への備えを始める者や、その噂を信じずに行動する者と、効果はある程度はあったかと。」
伊助の報告を聞いた秀高は、軽く頷くと伊助にこう言った。
「…そうか。伊助、これから俺たちは城に入って説得を試みる。お前は忍び衆を率いて援護してくれ。」
「畏まりました。どうかお気を付けて。」
そう言って伊助は一瞬似てその場から消えた。それを見ていた秀高は、一益にこう言った。
「一益、いよいよ敵地に入る。万が一の準備をしておいてくれ。」
「ははっ。おまかせあれ。」
一益の言葉を聞いた秀高は、馬を進めていよいよ大野城へと向かって行ったのだった。
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大野城の大手門に着いた秀高は、門番に名を名乗ってお目通りを願うと、門番はすんなりと通した。やがて館の中に通され、居間のようなところにて待たされた。
「お越しになられました。」
その館に仕える家臣がそう言うと、秀高と一益は頭を下げた。と、そこに現れた領主は上座に座り、それに付いてきた家臣たちは、秀高を囲うように座った。
「面を上げられよ。」
その領主から声をかけられた秀高は、頭を上げてその領主と対面した。
「わしが大野城主・佐治為景である。」
「お初にお目にかかります。尾張国桶狭間領主・高秀高にございます。以後お見知りおきを。」
と、その紹介を聞いた為景は何かを思い出し、秀高にこう言った。
「ほう、そなたが…聞き及んでおるぞ。稲生原にて信勝軍に従軍し、信長殿の軍勢相手に多大な戦功をあげたことを。」
「はっ…ありがたきお言葉にございます。」
すると、その秀高に対して為景はこう告げた。
「で?今回は何の要件かな?もしかして、山口教継を裏切り、信長様に帰参なされる御執り成しを頼みに来たのか?」
為景の言葉を聞き入れた秀高は、即座に否定してこう言った。
「…いえ、今回は為景殿、あなたの説得に参りました。」
「…ほう?このわしが織田方に属していることを知って、そう申しているのか?」
とその時、秀高の周囲の家臣が一斉に刀を抜き、切っ先をすべて秀高の方に向けた。それを見た一益は刀に手をかけたが、秀高は目でその手を離すように指示し、それを見た一益は刀から手を放して座りなおした。
「はい。今回の事はすべて、嘘偽りない事にございます。」
すると、その言葉を聞いた為景は、刀を向けられても微動だにしない秀高にこう尋ねた。
「良いか?よく聞け。そなたの主君である教継は、先代である信秀公の恩顧を忘れ、今川に首を振った逆臣であるぞ?なぜそのような奴に義理立てする?」
「…恐れながら、教継様は元より信秀様の後継には信勝様を推しており、信長殿の家督相続に反発して今川方に寝返ったのです。決して、信秀公の恩顧は忘れてなどいません。」
秀高の言葉を聞いた為景は、それに反論するように会話を続けた。
「ふん、よく言うわ。元より織田家の家督は、信長殿が継ぐことが決まっておる。それを知っておきながらそのような発言をするなど、武士の風上にも置けぬわ。」
「恐れながら、武士は信じる主君に殉ずるものかと思います。教継殿は織田家の将来に悲嘆し、苦渋の決断で織田家を裏切ったのです。これも一つの、信じる者を持った武士の生き方かと思います。」
すると、今度は秀高が、為景に対してこう尋ねた。
「では逆に聞きますが…あなたは信長殿を心より信用しているようですが、私には、信長殿にとってあなた方は、単なる捨て駒のように思えますが。」
「ふん、馬鹿を申せ。我らと水野殿が結託しておるからこそ、信長様は心置きなく、尾張平定に専念できるのではないか。」
「そうでしょうか?」
為景が否定するようにそう言うと、秀高は即座に言葉を打ち返してこう続けた。
「…私には信長殿の思考がわかります。信長殿は能力に優れる家臣を重用する「唯才主義」を信じており、豪族や名門の出などを軽視する節があるように思えます。…私がもし、信長殿であれば、あなたや水野殿は尾張平定までの囮として扱い、尾張を平定し、今川を倒して用無しになれば直ぐに斬り捨てるでしょう。」
秀高はわざと誇張した内容を為景に話すと、為景はそれまでの威勢の良さを失い、一転して考え込むようになってしまった。
「そして奪った領地を、能力を発揮して功を上げた家臣に分配。それを繰り返して豪族の力を削いでいく。そうなれば、豪族である為景殿や信元殿の未来はないでしょう。」
そう言って秀高は、為景を説得するように言った。
この秀高の話は、決して大きく誇張されているわけではない。実際に佐治氏は信長亡き後、豊臣秀吉によって改易され、豪族としての佐治氏は滅亡している。また緒川城主の水野信元も後年、その存在を疎まれた信長によって切腹に追い込まれるなど、その末路は悲惨なものであったのは間違いなかった。
その内容を小高信頼から聞いていたからこそ、秀高はその内容を誇張して伝え、真っ向から相対している為景の心を揺さぶったのであった。
「…父上、どうか刀を下げさせてくだされ。」
と、そこに一人の武士が現れて為景にこう言った。それを聞いた為景は周囲に控える家臣に、刀を下げさせるように目配せをした。それを見た家臣たちは、次々と刀を鞘に納め、ぞろぞろとその場から去っていった。
「…秀高殿、と申されたか。父が意固地を張って申し訳ない。」
「八郎!」
為景が、その武士の名前を呼んで叱ると、その武士は意に介さず、為景の隣に座って秀高に一礼し、改めて名を名乗った。
「お初にお目にかかります。父・為景の嫡子、佐治八郎為興と申します。先ほどの話、全て聞かせてもらいました。」
為興はそう言うと、秀高に向かってこう言った。
「…秀高殿、私は父とは違い、本領を安堵されるなら今川方に転向してもよいと思っています。」
「八郎!何をぬかすか!」
為景はそう言って為興を怒鳴ったが、為興はそれを気にせずに話を続けた。
「秀高殿、あなた方が稲生原で討ち取った佐久間信盛殿は、この知多半島の我ら織田方の取次であり、信盛殿亡き後、信長殿からの連絡は全くと言っていいほど無くなってしまった。」
為興にそう言われた秀高は、改めて稲生原で討ち取った信盛の、役割の大きさに驚いていた。
「聞けば今では、水野と専ら連絡を取り合い、我らはまるで、蚊帳の外のようにされてしまった。そのような扱いを受けた以上、織田に義理立てする資格はない。それにもし、秀高殿が申されるようなことがあれば、我ら佐治の血を絶やすことになってしまう。それだけは…何としても防ぎたいのです。」
「八郎…」
息子である為興の言葉を聞いていた為景は、考え込んだ末に決意を決め、秀高にこう言った。
「…分かったぞ、八郎。秀高殿、この佐治為景、今この時より、今川方に転向いたそうぞ。」
「それは…誠にございますか!?」
その言葉を聞いた秀高は喜び、側に控える一益もそれを聞いて驚いていた。
「父上、よろしいのですか?」
「あぁ…我らは小さき豪族じゃ。それをもみ消そうとするならば…戦うのが筋じゃ。それに元々、水野信元とは領地の諍いを起こしておった。水野を信長殿が重用するというのならば、我らは織田に付き従うわけにはいかぬ。」
為景はそう言うと、秀高に近寄ってその手を取ってこう言った。
「秀高殿、その事、教継殿にお伝えいただけるだろうか。」
「…はい!しかと、このことを主に伝えましょう!」
秀高はそう言って為景の手を握り、互いに固い握手を交わしあった。それを見ていた為興も、そして一益も安堵した表情を見せていたのだった。
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「おぉ、見事じゃ秀高!」
それから数刻後、山口教継の居城である鳴海城に報告しに帰った秀高は、評定の間にて山口教吉や三浦継意が列席する中でお褒めの言葉を貰った。
「まさか見事に調略を為すとは…その働き、やはり本物であったな。」
教継の隣に座る教吉が、秀高にこう言うと、継意はそれを受けてあることを決め、教継にある事を進言した。
「教継様、此度の秀高の働き、実に見事なれば、秀高を重臣に御取立てになられては?」
「継意よ、わしもそう思うておった。」
教継はそう言うと、秀高に向かってこう言った。
「秀高よ、そなたを山口家の家老とし、今後は重臣として扱う。以降は何週間かに一度、城に詰めてもらう事になる。よろしく頼むぞ。」
その破格の待遇を聞いた秀高は驚き、頭を下げてこう言った。
「ははっ!格別のご高配を賜り、恐悦至極に存じ奉ります!」
「うむ。良き言葉じゃ。それに加えて知行として千石を与える。これで家臣を更に養うことが出来よう。そなたのこれからの働き、期待しておるぞ!」
「ははっ!!」
教継の言葉を聞いて秀高は改めて返事をし、その重責を噛みしめるように頭を下げた。と、その時、そこに早馬が駆け込んできた。
「ご注進!一大事にございます!!」
「如何した!?簡潔に申せ!」
教継に代わり、継意が早馬に報告するよう促すと、その早馬は、驚きの報告をもたらすのであった…。