1564年8月 三人目の正室
永禄七年(1564年)八月 山城国京
八月二十日。夏の陽気が雲一つない晴天の中に降り注ぐ中で、高秀高は正室である玲や静姫とその子供たち、そして将軍・足利義輝の妹でもある詩姫と共に京の大文字山の麓にある鹿苑寺を訪れていた。
「ご住職、今回は無理を言って申し訳ありません。」
鹿苑寺の山門の前で応対に出て来てくれた鹿苑寺の住職に対して秀高が声を掛けると、住職は謙遜して言葉を返した。
「いえ、何を仰せになられます。日の出の勢いと名高い秀高殿の申し出なればどうして断れましょうか?何もない寺にはございまするが、どうぞごゆっくり。」
住職が山門の中に手招きするように促すと、秀高は手をつなぐ徳玲丸と共に山門をくぐり、それに玲たちも続いて中に入った。やがて一行は鹿苑寺の中にある金閣こと舎利殿を見渡せる鏡湖池の辺りまで来た。
「あれが舎利殿にございます。あの中にこの寺の元である北山殿を造営なされた足利義満公の木造が安置なされております。」
「あれが金閣、ですか。」
金閣の姿を見た秀高は目に入った時の違和感にようやく気付いた。というのも秀高たちのいた世界での金閣は火事で焼失した後の再建された金閣であり、今秀高の目の前にあったのは創建当初の姿を残す金閣の姿であった。その証拠に秀高たちの世界での金閣は二層まで金箔が張られていたが、目の前の金閣は三層にしか金箔は貼られていなかったのである。
「宜しければ中にご案内いたしましょうか?」
と、金閣の姿に見入っていた秀高に対して住職がこう申し出ると、その申し出を聞いた静姫が秀高にこう言った。
「秀高、折角だから詩姫様と中でも見てくると良いわ。私たちはこの鏡湖池の辺りを散策しているわよ。」
「そ、そうか。じゃあ詩姫様、一緒に参りますか。」
「はい。」
秀高は静姫の言葉を聞くと詩姫を伴い住職の後に続いて舎利殿の方へと向かって行った。その後姿を玲や静姫は子供たちの手を取りながら見つめていた。
「さて…これで後はあいつがどうするのか、私たちは見守りましょう?」
「うん、そうだね。」
静姫と玲は互いにそう言うと、春姫と共に子供たちと鏡湖池のあたりを散策しながら舎利殿に向かって行った秀高の事を気にかけるように、視線を舎利殿へと向けたのであった。
その後、秀高は舎利殿の初層の中の壇上に安置されている足利義満の座像に手を合わせると、住職と別れて詩姫と共に外の広縁に出て鏡湖池に張り出す吹き放しの小亭へと向かった。
「それにしても、秀高殿の武名はこの京にも鳴り響いておりますわ。僅か二十歳で尾張を統一して以降、電光石火の如く五ヶ国を切り従えたその腕前を兄も注視しているのですよ?」
「そうですか…」
小亭の先に立って鏡湖池を見つめながら話す詩姫の姿を後方にて聞く秀高は、詩姫の隣に立って同じように鏡湖池の湖面を見つめると口を開いた。
「…詩姫様は、先日の上様の申し出をどのように受け止められましたか?」
「どうしてそのような事を聞くのです?」
秀高の言葉を聞いてすぐに詩姫が返答すると秀高は右隣りに立つ詩姫の方に視線を向けて言葉を続けた。
「私は詩姫様とは初対面であり、余り互いによく知りません。それにこの婚姻は見方を変えれば政略結婚に等しい。見ず知らずの御仁に嫁ぐことを詩姫様はどう思っておられるかと思いまして…」
「私の答えは一つです。」
秀高の問いに対して詩姫が簡潔に答えると、詩姫は自身の左に立つ秀高の方を振り向いてこう答えた。
「この婚姻が兄の願う幕府再興に繋がるのであれば、どこへでも嫁ぐ覚悟は出来ていますわ。」
「幕府、再興…」
秀高が詩姫の発した単語を復唱するように口に出すと、詩姫は再び鏡湖池の方に姿勢を向けて言葉を続けた。
「兄はああ見えて生真面目な方でして、不器用なまでに幕府の再興を願っています。その為に幕臣はおろか周辺の諸大名との軋轢を生み、以前は何度も京を追われたりしました。」
詩姫の発する言葉を秀高は黙って受け止めていた。同時に元の世界で信頼から聞いていた義輝に関する知識と符合する様に頭の中で考えていたのである。
「…それでも兄は幕府再興の為に不屈の精神で立ち向かいました。兄にはきっと、何度も京を追われた父の姿が重なったのかも知れません。」
すると詩姫は徐に秀高の方を振り返り、秀高の手を取って言葉を発した。
「その兄が見込まれた方に嫁ぐのであれば、私には何の不安もありませんわ。秀高様は、私では不足ですか?」
「そ、そのような事は…」
秀高が手を握られた詩姫に対してこう言うと、詩姫はいきなり秀高に抱きついて秀高の胸元で言葉を発した。
「秀高様、私はこれが政略結婚だなんて微塵も思っていませんわ。だって私は貴方に一目会ったあの時、私の方が一目惚れしてしまったのです。」
「詩姫様…」
詩姫に抱きつかれて秀高が身じろぎもせずに一言言うと、詩姫は秀高の顔を見つめてこう言った。
「それとも秀高様は、女である私にここまで言わせてこの婚礼を断るおつもりですか?」
その一言を聞いた秀高はようやく決心がついたのか、抱きつく詩姫を抱き返すように両手を回して詩姫にこう言った。
「…分かりました、詩姫様…いや詩。こんな夫で良ければこれから一緒に歩んでくれるか?」
「…はい。勿論ですわ。秀高様。」
二人は吹き放しの小亭の中で互いに抱き合い、やがて二人はその場で口づけをした。その様子を対岸の木陰から見ていた静姫と玲はふふっと微笑んだ。
「…どうやら秀高くんも決意を固めたみたいだね。」
「全く、最初から考えこまずに婚礼を受ければ良いのにどうしてこうも遠回りしたがるのかしら?」
茂みの奥で静姫が玲に小言を言うと、玲はそれを聞いて再び微笑んだ。
「でも、それが秀高くんらしいと私は思うよ。多分相手の事を知らずに婚姻はしたく無かったんじゃないかな?」
「…まぁ、何だかそれもあいつらしいわね。」
静姫はそう言うと対岸の小亭の中にいる二人の様子を見つめて再び微笑んだ。こうして詩姫との婚礼を挙げる決意をした秀高は数日をかけて幕府と婚礼の協議を行い、数日後の八月二十八日、将軍御所の中で将軍隣席の元、華燭の典を上げる事になったのである。
「秀高よ、これでそなたも立派な将軍家の一門だ。詩の事をよろしく頼むぞ。」
三三九度の儀式の後、下座に戻った秀高と詩姫に対して上座に戻った義輝が声を掛けた。これに婚礼用の装束に身を包んだ秀高が義輝に対して言葉を返した。
「上様、この度のご婚礼、重ねて感謝申し上げます。」
「うむ。これでそなたには上洛する大義名分が出来たという事だな。」
この義輝の言葉を聞いた秀高は驚き、再び頭を上げて義輝の顔を見た。
「上様、今上洛と仰られましたか?」
「うむ。そなたの軍勢をもってすればこの畿内の混乱は収まり幕府の権威は確固たるものになるであろう。そのためにもそなたには軍勢を率いての正式な上洛を命ずる。」
「上様、それでは!」
と、この言葉に驚いた幕臣の細川藤賢が声を上げると、義輝は下座に控える細川藤孝に目配せをし、それを受けた藤孝は秀高の目の前に進んで桐箱の中に入った一通の書状を差し出した。
「秀高、それはそなた宛の御教書だ。封を開けて読んでみよ。」
その言葉を受けた秀高は目の前に差し出された桐箱の蓋を開け、中に入る書状の封を解いて内容を確認し、その内容を口に出して復唱した。
「『高民部少輔秀高、数年以内に軍勢を率いて上洛し、幕府の権威を脅かす賊軍を打ち払うべし。』…!」
「うむ、そなたにとっては念願の上洛が叶うという事になる。秀高よ、妹を娶った手前でまさか断りはするまい?」
義輝からそう言われた秀高は自身の隣にて白の打掛に小袖に身を包む詩姫の方を一回見た後、決意を固めた表情を浮かべて義輝に毅然と返答した。
「何を仰せになられますか。この秀高、上様の為に軍勢を率いて上洛いたします!」
「良くぞ申した秀高!そなたの上洛、心待ちにしておるぞ!」
この義輝の返答を受けて秀高は再び頭を下げて一礼した。このやり取りを見た大高義秀や小高信頼ら家臣一同は秀高が将軍家より上洛を命じられた場面を拝見し感激して目を潤ませる者も中には現れたのだった。
こうしてこの数日の京滞在の間に将軍家の息女を娶り上洛の命令を受けた秀高は、三浦継意や義秀・信頼ら家臣と玲たち一族、そして新たに秀高の家族に加わった詩姫を伴って本国の尾張へと帰還していった。ここに秀高は混迷極まる中央の政局に足を踏み入れる事になったのである…