1564年8月 京に迫る変事
永禄七年(1564年)八月 山城国京
永禄七年八月十九日。尾張など五ヶ国の太守にのし上がった高秀高は先の飛騨国平定の際に捕縛した姉小路嗣頼・姉小路頼綱ら姉小路一門や玲や静姫などの一族を連れて三度目の上洛を行った。表向きは将軍・足利義輝に飛騨国平定の言上を行う為の上洛であったが、妻子を伴っての上洛であった為に幕臣の細川藤孝に掛け合い少数の兵を伴っての上洛を果したのであった。
「ここが京…やっぱり私たちの知ってる京都とは違うんだね。」
京の下京地区にある日蓮宗の寺院・本圀寺。上洛してきた秀高一行の宿所となったこの寺の本堂の縁側から下京の方角を見つめながら玲が秀高に語り掛けた。
「あぁ。応仁の乱から数十年が経っていてもなお、京の五山や清水寺などの寺院は戦乱によって荒廃したままだし、この目の前の京も上京と下京の二つに分かれているからな。」
この時の京は応仁の戦乱を経て町衆たちが各々の地域の再建に務めて二つの地域に別れた。即ち帝の住まう内裏を中心に五摂家の公家屋敷などが集中する上京地区と商人や職人たちが集まって形成された下京地区である。これらの町々は外敵の侵攻を防ぐために堀や土塀、物見櫓に町を仕切る木戸の門が整備されていた。
「聞けば今回の上洛を申し出た時、下京の中にある勧修寺尹豊殿の邸を宿舎にしようとしたけど、下京の町衆から反対意見が出たらしくって代わりにこの本圀寺が宿舎として名乗りを上げてくれたって藤孝さんが言ってたよ。」
秀高の隣で同じく下京の方角に視線を向けていた小高信頼が腕組みをしながら秀高に語り掛けた。
「やはり京の住民たちには未だ応仁の乱の被害が根付いているみたいだな。」
「うん…やっぱりそう簡単には忘れることは出来ないんだね。」
「ヒデくん、姉小路殿が会いに来てるわよ。」
と、そこに大高義秀の正室である華が秀高に対して姉小路親子の来訪を伝えに来た。秀高は華の声に反応して後ろを振り向き、その場にいた姉小路親子に語り掛けた。
「これは姉小路殿。どうかしましたか?」
「いえ、我ら一同無事に京に着くことが出来ましたので、そのお礼に参りました。」
今を遡る事一ヶ月前、秀高の家臣・金森可近によって飛騨国の戦乱は平定され、飛騨国の戦国大名であった姉小路一族は秀高に降伏してその処遇を将軍家に託すべく秀高一行の上洛に随伴していた。
「そうですか。こちらもここまで何の妨害もなく上洛出来てホッとしています。」
「如何にも。これも全て藤孝殿や秀高殿が道中の六角殿にお骨折りを頂いた甲斐によるものにございます。」
嗣頼が秀高に対してそう言うと、それを聞いていた秀高が嗣頼に言葉を返した。
「嗣頼殿、上様は明日面会なされるとの事。それまではこの本圀寺にてゆっくりと過ごしていてください。」
「ははっ。では我らはこれにて…」
秀高の言葉を聞いた嗣頼と息子の頼綱は秀高に対して頭を下げて一礼した後にその場から去っていった。その後姿を見つめながら華と共にその場に来ていた義秀が秀高に向けて言葉を発した。
「それにしても、あの姉小路の一族を連れて来いって言ってくるなんて、その上様は何を考えているんだろうな?」
「さぁな。全ては明日決まる事だ…それよりも、寺の周囲は固めたか?」
と、秀高はこの上洛に際して警固の兵たちを統率する義秀に対して周囲の状況を尋ねた。
「おう!継高が手配してくれた五百の将兵は何の乱れもなく布陣しているぜ。これだけ固めりゃあ万が一があっても大丈夫だぜ。」
この本圀寺の周囲には秀高が将軍家より認可を受けて連れて来た将兵五百余りが布陣し、秀高やその一族を警護するように守りを固めていた。またこれに対して本圀寺の住職たちも協力的で寺の備蓄米の贈与やかがり火などの配置など細かな補佐を行ってくれていた。
「うん、これだけの備えをすればどのような事が起こっても大丈夫だろう。義秀、周囲の警戒を怠るなと継高に伝えてくれ。」
「おう!」
秀高は義秀に対してそう言うと玲たちと共に本堂の中へと入り、静姫や信頼の正室である舞たちが世話を見ている自分の子供たちのところへと向かった。
「どうだ?徳玲丸。この京の町は初めてだろう?」
広い本堂の両脇に上洛に同行した家臣たちが居並ぶ中で、秀高は子供たちの目の前に腰を下ろして座って嫡子の徳玲丸に対して語り掛けた。すると徳玲丸は秀高の目の前に進むと首を縦に振って頷いた。
「はい。父上、此度は我らもお連れ頂き感謝申し上げます。」
「うん、この京は帝の治める日本の中枢ともいうべき場所だ。僅かな時しかないとは思うが、この光景をしっかりと見ておくんだぞ?」
この秀高の言葉を受け入れて徳玲丸が再び首を縦に振ると、その様子を見ていた静姫が秀高に語り掛けた。
「それで秀高、この京で見るべき場所なんてあるのかしら?」
「そうだな…信頼の言うにはかつての大内裏の跡地に今も残る神祇官と太政官の庁舎があるみたいだが、そこを見るには朝廷のお許しがないと行けないしな…」
「あそこはどう?金閣と銀閣。あそこを見れば京に来たなって私は思うけど。」
玲が膝の上に蓮華を乗せながら秀高にそう言うと、その事を側で秀高の子供たちを見ながら聞いていた木下秀吉が発言した。
「畏れながら奥方様、それは鹿苑寺に慈照寺の事にございまするか?確かに二つとも今は臨済宗の寺にございますれば観覧は容易かと思われまするが…」
「しかし元をただせば双方とも由緒正しき寺院ゆえ、観覧の申し出を引き受けてくれるかどうかわかりませぬな。」
上洛に同行していた筆頭家老の三浦継意が秀吉の言葉に続いて私見を述べた。その二人の意見を聞いた上で秀高は秀吉の方を振り向いて語りかけた。
「藤吉郎、その事両寺にかけ合ってみてくれないか?無理強いはしないで極力穏便に事を進めてくれ。」
「承り申した。然らば差しさわりの無いように接触し、奥方様の要望を掛け合ってみまする。」
秀高の指示を受けて秀吉が返事をしたその時、本堂の襖が開いて外からある人物が本堂の中に入ってきた。秀高の忍びで周囲の状況を探っていた伊助である。
「殿、洛外の勝龍寺方向から軍勢が迫っておりまする。」
「何、軍勢が迫ってきている?」
伊助の報告を聞いた玲や継意らその場の一同は耳を伊助の方に傾けた。その中で伊助は秀高に対して淡々と報告を続けた。
「軍勢の数は五~六千辺りにて、旗指物には「三階菱に五つ釘抜」の家紋が施されておりました。」
「三階菱に五つ釘抜って…」
秀高がその報告を受けてから視線を信頼の方向に向けると、信頼は視線を向けられた秀高に首を縦に振ってから言葉を発した。
「三好長慶の家紋だね。」
「三好じゃと?なぜ三好の軍勢がこの京に迫ってきておるのだ?」
「まさか…狙いは将軍御所…?」
信頼の傍らにいた舞が自身の子である茶々丸をあやしながらそう言うと、その場の一同が舞の言葉に驚いた中で秀吉は舞に対して言葉を返した。
「舞様、将軍御所とは如何なることにございまするか!三好は形の上では上様の幕臣。それがどうして将軍御所に…?」
「まさか、狙いは御所巻?」
「信頼、何だその御所巻っていうのは。」
信頼の予測を聞いた継意と秀吉が腑に落ちたように感心した中で秀高が信頼に対して御所巻の事を尋ねると、その事を教えようとした信頼を制して継意が代わりに秀高に説明した。
「殿、御所巻というのは諸大名が将軍家に対して要求を突きつける際に行う軍事行動にて、御所の周囲を取り囲んだうえで自らの要求を将軍家に突きつけて要望を通す行為であるが故に世間からの評判は芳しくありませぬ。」
「それを行うということは…三好は将軍家に何か要望を通すつもりではないかと。」
継意に続いて秀高に発言した秀吉の言葉を聞いて秀高が考え込んでいると、その場に幕臣の細川藤孝がいきなり襖を開けて入ってきた。
「秀高殿!いきなり駆け込んできて申し訳ござらぬ。火急の要件があって罷り越し申した!」
「藤孝殿、まさか三好の事ですか?」
秀高の言葉を聞いた藤孝はおぉと感嘆すると秀高の側近くに腰を下ろして言葉を返した。
「さすがは秀高殿、お耳が早い。実は先程御所に三好からの使者が参り、上様に対して要望を通すと称して軍勢をこちらに差し向けたと申したのです。」
「軍勢を差し向けただと?じゃあ三好は下手すりゃあ京の中で戦を始めるつもりなのか!」
藤孝の言葉を聞いた義秀が怒ってこう叫ぶと、その言葉を聞いた藤孝が反応して義秀の方を振り返った。
「さにあらず!今回の事は御所巻にて戦にはなりませぬ!」
「分かんねぇじゃねぇか!将軍が三好の意見を撥ねつけたのなら、その場で戦に発展しないってどうして言えるんだ!」
義秀の言葉を聞いた藤孝は少し苦い顔をした後、秀高の方を振り返るとある事を頼み込んだ。
「…秀高殿、これは上様からのお言葉にはござるが、三好軍に対抗する為是非とも秀高殿のお力をお借りしたいと申されておりまする。」
「待ってください。こっちは僅か五百しか連れて来ていません。五~六千の三好軍に立ち向かうには数が少なすぎます!」
秀高が藤孝にそう言うと、藤孝は手を振って否定しながら秀高にこう言った。
「いやいや、戦の矢面に立つわけではございませぬ。我らの元にいる奉公衆九百と共に将軍御所の一角を守って欲しいのでございます。」
「…そこまで言うのであれば、分かりました。」
藤孝の言葉を聞いた上で秀高が首を縦に振ったうえで返答すると、秀高はその場に残っていた伊助の方を振り向いてこう言った。
「伊助、お前は忍び衆と共にこの本圀寺の守備を頼む。」
「はっ。曲者はここに近づけさせませぬ!」
伊助が秀高の言葉を受けて承諾すると、その言葉を聞いた玲が秀高に対して言葉をかけた。
「秀高くん、くれぐれも気を付けてね。」
「あぁ。玲や静も気を付けるんだぞ。」
秀高の言葉を聞いて玲と静姫は首を縦に振って頷いた。こうして秀高は手勢五百の内五十名を本圀寺に残すと残りの兵や義秀たちと共に藤孝の先導で三好軍の迫る将軍御所へと向かって行ったのである…