1564年5月 進む漁師と逃げた魚
永禄七年(1564年)五月 美濃国飯羽間城
永禄七年五月二十二日。二日前に稲葉山城を出立した高秀高の本隊七千は中山道を進んで遠山友勝の居城である飯羽間城に着陣した。この間、秀高に先んじて東濃に攻め込んでいた安西高景ら二万の軍勢は東濃の諸城を攻略し秀高をこの飯羽間城で待ち受けていたのだった。
「皆、面を上げてくれ。」
飯羽間城内の本丸館にて諸将が集う評定の間の一室。その中で上座に座る秀高は下座に居並ぶ諸将に対して頭を上げさせた。諸将は各々頭を上げて秀高と顔を見合わせると、秀高は諸将の表情を見ながら感心して言葉を続けた。
「まずは、俺たちがこの城に来るまでの間に各地の城を攻め落とし、岩村城への道筋を確保してくれた事に感謝する。諸将の働きが無ければ、俺はまだこの東濃の地に踏み入ることは出来ていなかっただろう。」
「ははっ!ありがたきお言葉に存じまする!」
先行して東濃の諸城を攻め落とした諸将を代表して森可成が返答するべく声を上げると、秀高は可成の方を振り向いた。
「特に可成、お前の今回の働きは目立つものがある。先の久々利城攻めだけではなく、神箆城攻めでは自ら槍を振って敵将の延友信光を討ち取ったそうじゃないか。」
「いえ、これも全ては我が殿の御為にございますれば、大したものではございませぬ。」
可成が謙遜して秀高に言葉を返すと、秀高は視線を目の前の机の上に置かれた首桶に向けた。その机の上にはそれぞれ首桶が三つ置かれてあり、首桶の上には分かりやすいように名札がついていた。そこには信光の他に小里城の小里光忠、妻木城の妻木広忠の名前が刻まれていたのである。
「…それにしても殿、やはり東濃の諸城は斎藤家配下の諸城とは違って気概がある者が多く、攻め手の将兵にも少なからぬ損害が出てしまい申した。」
佐治為景が腕に包帯を巻いた状態で敵の奮戦ぶりを伝えた。為景は先の小里城攻めで右腕に戦傷を負い、医師に治療を施された上で軍議の席に出席していた。
「あぁ。だがそれに見合う戦果をお前たちが上げてくれた。為景、しっかりと養生してくれ。」
「ははっ。」
為景は秀高よりの言葉を受け取ると、脇に付いてくれている息子の佐治為興と共に秀高に頭を下げた。秀高はその挨拶を受け取った後に視線を別の方向に向けた。
「友勝、それに綱景。良くぞ俺たちに呼応してくれた。」
秀高が視線を向けた先にはこの飯羽間城の城主である友勝と、近隣の明知城の城主を務める遠山綱景の姿があった。二人は秀高から言葉を掛けられると、秀高の方を振り向いて頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございまする。もとよりこの友勝、織田信隆を庇護する遠山景任には腹に据えかねる物がございました。此度秀高殿の岩村城攻めに際して是非とも参陣したく罷り越しました!」
「秀高殿!某にとっては先の主君である北条氏康公の御子である北条氏規殿を庇護しておられると聞き、いつかはその旗の下で戦いたいと思っておりました!何卒、此度の岩村城攻めでは先陣を仰せつけくださいませ!」
この両名の血気盛んな言葉を受け取った秀高はその意気に感動して二人に言葉を返した。
「うん、その言葉を聞けて嬉しく思う。今後はこの俺に仕えてその力を存分に振るってくれ!」
「ははっ!!」
友勝と綱景は秀高からの言葉を受け取ると共に頭を下げて会釈をした。するとそこに血相を変えた木下秀吉が忍びの伊助と共に部屋の中に駆け込んできた。
「殿、殿!一大事にございまするぞ!」
「サル!一体どうしたって言うんだ!」
その秀吉の言葉を聞いて大高義秀が秀吉の方を振り向いて声を掛けると、秀吉は目の前の机にバンと両手を当てて秀高に報告した。
「織田信隆…城内にその姿が見受けられぬと!!」
「何だと、信隆が城内にいない!?」
それまで穏和な表情をしていた秀高がこの一報を受けるとすぐに表情を変えて床几から立ち上がった。すると、その秀高に対して今度は忍びの伊助が報告した。
「…某が先ほど放った我が配下からの情報によりますると、信隆本人並びにその家臣一同、また奇妙丸以下信長の子供たちの姿が城内に確認できておらぬと…」
「伊助、それは本当なの?」
秀高の隣にいた小高信頼が伊助の方を振り向いて事の真相を尋ねると、伊助は信頼の方を振り向いて言葉を続けた。
「はっ。我が配下が城内の女中一人ととらえて事情を問いただした所、信隆一行が城外に出たのは二日前…殿のご一行が稲葉山を発たれた日との事。」
「くそっ、あの女また逃げやがったのか!!」
義秀が目の前の机を拳でドンと力強く殴ると、その隣で義秀の妻である華が上座にて自身の床几の周りを歩く秀高に対して言葉をかけた。
「ヒデくん、信隆を逃がしたのは悔しいけれど、今は岩村城攻めに専念しないと…」
「そうか…天はまだあいつとの決着を付けさせてくれないのか。」
秀高はそう言いながら自身の床几に腰を下ろすと、目の前にいた伊助の方を向いて指示を下した。
「伊助、お前は直ちに信隆の消息を追ってくれ。そしてどこに逃げ延びたのかをしっかりと掴んで来てくれ。」
「ははっ!!」
伊助は秀高の下知を受け取ると速やかにその場を去っていった。そして報告に来た秀吉が諸将の中に加わったのを確認すると秀高は視線を居並ぶ諸将の方に向けた。
「皆、織田信隆はまたしても逃してしまったがここまで来て兵を退くわけにもいかない。このまま速やかに岩村城、そして苗木城を攻め落とす!」
秀高はそう言うと諸将に対して下知を次々と下していった。
「まずは苗木城についてだが…高景!氏勝!お前たちはこの友勝と共に苗木城の攻略に向かってくれ。城攻めなどは全てお前たちに任せる。」
「ははっ!承知いたしました!」
この秀高の下知を受け取った安西高景と丹羽氏勝はそれぞれ秀高に対して頭を下げた。それを確認すると秀高は残る諸将の方を向いてこう宣言した。
「残りの諸将は全て岩村城攻めに向かう!出陣だ!」
「おぉーっ!!」
諸将は秀高の号令を聞くと勢いよく床几から立ち上がって喊声を上げた。こうして秀高軍は翌五月二十三日、苗木城へと向かう安西・丹羽勢七千五百と別れて岩村城へと向かい、その日の午後には岩村城の周囲を包囲した。秀高は岩村城の北西の小高い丘に本陣を敷き、諸将に総攻撃を下す時期を見計らっていた。
「…殿、大圓寺より使者が参っておりまする。」
「何、大圓寺から使者?」
その秀高の本陣に岩村城下にある寺院・大圓寺よりの使者が来たことを深川高則が陣幕の中に入ってきて秀高に伝えた。するとこの報を聞いた信頼が秀高の方を向いて言葉を発した。
「秀高、大圓寺と言えば遠山家の菩提寺でもある臨済宗の寺院だけど、和睦の仲介に来たのかな?」
「とにかく話を聞かない訳にはいかないな。高則、使者をここに連れて来てくれ。」
「ははっ!」
高則は秀高より言葉を受け取ると立ち上がって陣幕の外に出て、外で待機していた使者を陣幕の中に招き入れた。その秀高の目に飛び込んできた使者の風貌はまさしく僧侶であり、僧侶は秀高の目の前に座ると挨拶して自己紹介をした。
「お初にお目にかかります。臨済宗大圓寺の住持、希庵玄密と申しまする。」
「玄密殿、遠山家の敵である我々の陣にお越しになったのは、遠山家との和睦の仲介の為ですか?」
すると、秀高の言葉を聞いた玄密は首を横に振って否定し、秀高の顔を見つめると来訪の要件を伝えた。
「さにあらず。此度拙僧が罷り越したる所以は、城主・遠山景任殿よりの言伝を預かって参った次第。」
「…遠山景任の、ですか?」
華が玄密の方に視線を向けながら言葉を発すると、玄密はこの言葉に頷いて答えた。
「如何にも。遠山家は鎌倉の御世より代々この恵那郡に根差して参った豪族にて、近年は隣国の信濃を有しておられた武田信玄殿と誼を通じておりました。」
この玄密の厳かな語りを陣幕の中の秀高や配下の諸将は黙って聞き入っていた。
「されど、景任殿の妻は亡き織田信秀公の妹君であり、その縁を頼って織田信隆様が落ち延びて来られた際にこれを庇護しました。これもひとえに親族である信隆様を見捨てられなかったが為の行動にございます。」
「…それで?」
この流暢な玄密の言葉に対して、秀高はただ一言で言葉を返した。
「全ての責は信隆殿を匿った景任夫妻にありまする。他の遠山一族には何のかかわりもない事であり、また彼らは反発する遠山一族を已むに已まれず攻め滅ぼしました。願わくばどうか、秀高殿にはこの地を遠山家から召し上げるような事はせぬよう切にお願い申し上げまする。」
「…ご住職、面を上げてください。」
秀高は自身に頼み込むために頭を下げた玄密に対し、頭を上げるように言葉で促した。
「元よりこの秀高、遠山家からこの地を召し上げようなどと思っておりません。遠山家の存続が景任夫妻の願いならば、それは聞き届けると景任殿にお伝えください。」
「…ありがたきお言葉。それを聞ければ両名に思い残すことは何もございますまい。」
玄密は安堵した表情でそう言うと、秀高に対して言葉を返した。
「秀高殿、もしご両名が戦死した後はどうか、ご遺体を我らが大圓寺にお願い致しまする。大圓寺は遠山家代々の菩提寺でもありまする故…」
「分かりました。その件はご心配なく。」
秀高の返答を聞くと玄密は秀高に対して深々と頭を下げ、スッと床几から立ち上がるとその場を去っていった。するとその様子を見た義秀が秀高にある事を問うた。
「…もし、遠山家との和睦仲介だったらどうするつもりだったんだ?」
「景任とおつやの方がそう言って来たのならば返答は決まっている。」
秀高は床几からスッと立ち上がって陣幕の先に広がる岩村城の風景を見つめながら義秀に対して言葉を返した。
「信隆を庇護した夫妻両人が自害すれば、城兵やその他全て助命するとな。」
「…あくまでも両人は生かしておかないという訳ね?」
華が秀高の方を向いてこう言うと、秀高は話しかけてきた華の方を振り向いてこう言った。
「…両名の死は、逃亡した信隆の身代わりです。残酷だとは思いますが、二人の死で遠山家はこの地に末代まで存続するんです。」
「そうか…逃がした魚は大きいな。」
義秀が秀高の言葉を聞いてそう言うと、陣幕の中にいた三浦継高が秀高に対して発言した。
「なればこそ、明日の岩村城攻めは美濃の因縁を断ち切る重要な戦になりまするな。」
「…あぁ、明日はみんなの力を貸してもらう。よろしく頼むぞ!」
「おう!分かったぜ!」
「必ず、遠山夫妻の首を挙げて来るわね。」
秀高の呼び掛けに対して義秀夫妻は意気込みを口に出して答えた。そしてその翌日、永禄七年五月二十四日。遠山景任が籠る岩村城攻めの火蓋が切って落とされたのである。




