1564年5月 窮地の遠山家
永禄七年(1564年)五月 美濃国岩村城
永禄七年五月十二日。斎藤龍興が稲葉山城にて高秀高に敗れて自害したその日の夜。ここ岩村城では秀高の軍勢の一部がこの東濃に侵攻して来ていることを受けてか城内では来る防戦の為の準備に追われていた。
「…秀高配下の軍勢は既に東濃の金山城と勝山城を越え、木曽川を渡河してこちらに属する諸城の攻略を行っておりまする。」
岩村城内の本丸館の居間にて、鎧に身を包んだ城主の遠山景任にこう報告していたのは同じ遠山家一門の延友信光であった。信光は居間の中に設けられた机に広がる絵図を示しながら景任に報告を続けた。
「金山城の森可成が軍勢はそのまま久々利城に籠城していた久々利頼興の残党を掃討すると、尾張国境を越えてきた安西高景・佐治為景ら尾張の軍勢と合流し多治見の付近まで進軍。周辺の諸城を攻略しておりまする。」
「ふむ、こちらに属する諸城の攻撃を開始したか…して、敵は今どのあたりにいるか?」
と、景任は報告してきた信光に対して今現在の敵の所在地を尋ねた。
「はっ。敵は現在この多治見にあります多治見国長の邸跡に陣を敷いておりまする。」
「となると…こちらに攻めて来るには信光の守る神箆城に小里光忠殿の小里城、それに妻木広忠殿の妻木城を越えて来なければならぬ故、まだまだ時は稼げましょう。」
景任の妻であるおつやの方が景任の傍らで絵図を見つめながらそう言うと、夫でもある景任はそのおつやの方の言葉に頷いて答えた。
「うむ…その間に我らは周辺の地侍を招集して兵力の増強を図らねば…」
「殿、殿!一大事にございまするぞ!」
と、その場に血相を変えた早馬が主である景任に一大事を報せるべく駆け込んできた。
「飯羽間の遠山友勝が我らに公然と反旗を翻し、これに呼応して明知城の遠山綱景も反旗を翻したとの事!!」
「何!?明知と飯羽間が離反したというのか!!」
景任はその報告を受けると机をドンと力強く叩きながら言葉を発し、傍らのおつやの方も景任と同様に驚いていた。早馬は二人の様子を見ながらも報告の続きを述べた。
「この両家の離反によって他の遠山支族が動揺をきたし、明照・安木の遠山家が不穏な動きを見せておるとの事!」
「ええい、このままでは内部分裂を助長するだけではないか!」
「…已むを得ません。ここは信隆を呼び寄せて一緒に協議しましょう。」
おつやの方は務めて冷静に意見すると、城主の景任はそれに頷いて別の部屋にいる織田信隆を呼び寄せるように側近に命じた。一方、その信隆の元には明知・飯羽間離反の一報ではなく、先の斎藤家滅亡の一報が届けられた。
「…稲葉山城はたった三日間の攻防戦で落城し、龍興さまと飛騨守殿は首を稲葉山城下に晒されたとの事。」
「ええい、あのマムシの一族がこうも呆気なく滅ぶとは!!」
景任たちがいた場所とは別の一室。囲炉裏が置いてある部屋の中で目の前の信隆に報告した明智光秀の言葉を聞いて、信隆家臣の前田利家は拳で胡坐をかいていた自身の太ももに当てて怒った。
「美濃斎藤家が滅んだという事は、秀高の次の目標は間違いなく我らという事になりまするな。」
信隆家臣の丹羽隆秀が右隣に座っている信隆の方を向きながらそう言うと、信隆は腕組みをしながら目を閉じたまま話し始めた。
「それにしても、秀高が龍興らの首を城外に晒すなんて…今までの秀高からは思いもよらない事をする物ですね。」
「まぁ、龍興らは父の義龍を手に掛けた下手人にございまするからなぁ…義龍の復仇を心に秘める秀高にしてみれば生かしてはおけぬでしょう。」
信隆に対して利家が言葉を返すと、それを聞いた光秀が信隆に向けて発言した。
「しかし殿、今この状況ではさしもの岩村城も危ういかと思われまする。ここはどこぞへ落ち延びる算段を付けねばなりませぬ。」
「そうですが…どこか良き場所があるというのですか?」
信隆が光秀の方を振り向いて尋ねると、光秀は信隆の隣へと歩み出て信隆に自身の腹案を語った。
「ここは朝倉義景殿の越前へと逃げ延びるのが宜しいかと存じまする。越前へ向かうのであれば一刻も早く渡りを付けませぬと…」
「…分かりました。光秀、我らの命運は貴方に託しますよ。」
光秀は信隆よりの言葉を聞くと信隆に一礼した後にスッと立ち上がりそそくさとその場を去っていった。その後、越前へと向かって行った光秀と入れ替わるようにその場に信隆家臣の堀秀重が現れた。
「殿、景任殿とおつやの方様がお呼びでございます。」
「景任殿が?分かったわ。」
信隆は秀重からの言葉を受け取るとスッと立ち上がって利家らを連れて景任とおつやの方がいる居間へと向かって行った。
「…おぉ信隆殿。ご足労いただき忝い。」
「景任殿、何かありましたか?」
景任の居間の中に入って上座の景任とおつやの方の前に座った信隆が様子を尋ねると、それを聞いて景任の隣のおつやの方が信隆やその家臣たちに対して明知・飯羽間両家の離反を伝えた。
「おのれ、あの獅子身中の虫共め、いよいよ本性を現しよったか!!」
信隆の後ろにておつやの方の言葉を聞いていた利家が怒ると、その言葉を聞いた隆秀がおつやの方に対してこう告げた。
「となると…一刻も早く他の遠山家の統制を取らねばなりますまいな。」
「えぇ。それも急いで行わなければ、じきに秀高の軍勢がこの岩村に迫るのも時間の問題でしょう。」
おつやの方が表情を曇らせながらそう言うと、視線を目の前の信隆に送って言葉を発した。
「ところで信隆、既にどこぞへと落ち延びる算段は付けていますか?」
「…はい、今し方配下の明智光秀が越前に渡りをつけるべく向かいました。色よい返事があればすぐにでも越前に向かいます。」
この信隆の言葉を聞いたおつやの方は安心したのかほっと胸をなでおろして言葉を返した。
「そうですか…それならば安心です。越前は我ら織田の発祥の地ともいうべき国なれば、そこに逃げ延びることが出来れば良いですね。」
「はい、ともかくまずはこちらも秀高の迎え撃つ準備を致しませんと…」
信隆がおつやの方と景任に向けてそう言うと、景任はそれに頷いて答えた。
「勿論にござる。まずは明照・安木の両遠山家をこちらに抱え込み、不届き者の明知・飯羽間両城を攻め落としましょう。」
信隆がその景任の発言を聞いて頷くと、そこに先程とは別の早馬が景任に急報を伝えるべく駆け込んできた。
「殿!多治見に駐屯していた秀高軍が動き始めました!妻木・小里両城への攻撃を開始するべく進軍を開始したとの事!」
「…やはりその攻勢は明知と飯羽間の決起を見越しての事ですか。」
信高が早馬の報告を聞いた上でポツリとこう言うと、景任はその場にいた信光の方を振り返ってこう下知した。
「信光!そなたは直ちに神箆城へと向かって防戦の準備をせよ。秀高の軍勢の事だ。直ぐにでも攻勢があるやもしれぬ!」
「ははっ!直ちに居城に戻りまする!」
信光は景任よりの言葉を受け取ると景任に一礼してすぐにその場を去っていった。そして景任は目の前の信隆に対してこう告げた。
「信隆殿、そなたは明照・安木の両遠山家の折衝を任せます。もし、我らに従わぬ場合は…。」
「分かっています。両家は悉く我らが攻め滅ぼしましょう。」
信隆が力強い口調できっぱりとそう言うと、景任はそれを聞くと頷いて答えたのだった。ここに信隆と遠山景任は秀高に対抗するための地固めに奔走した。
「…殿、明照・安木の両遠山家、我らの勧告を無視致しました。」
翌五月十三日、信隆が軍勢は岩村城を発つとそのまま明照遠山家の居城である阿木城に迫り、明照・安木両遠山家に使者を発した。しかし、両家は信隆の使者に対して勧告を撥ねつける態度を取ったのである。
「已むを得ません。利家、直ぐにでも城攻めを行いなさい。」
「ははっ!!」
信隆は利家に対して城攻めを下知すると、陣幕から去っていった利家を見送った後に床几に腰を下ろして阿木城の方角を黙って見つめた。やがて小城であった阿木城に火の手が上がり始め、しばらくした後に阿木城の方角から勝鬨の声が上がったのを聞いて信隆は胸をなでおろすように一息ついたのであった。
こうして信隆は自身の説得に応じなかった明照・安木の両遠山家を攻め滅ぼし、同時にその一族を悉く討ち滅ぼした。これらの攻撃によって岩村・苗木一帯は遠山景任と織田信隆が固める事となったがこの無慈悲な攻撃は遠山家支配下の領民の反感を買った。
更にあろうことか同じ遠山支族であった串原遠山家が明知・飯羽間の両遠山家に靡き、ここに遠山家は景任の思惑も虚しく真っ二つに分裂してしまうのであった。