1564年5月 美濃国総攻め
永禄七年(1564年)五月 美濃国曽根城
永禄七年五月八日。尾張・伊勢・志摩の三ヶ国を領する高秀高は満を持して美濃の斎藤龍興、そして秀高との因縁深き織田信隆との決着をつけるべく総勢七万余りと号する大軍勢を擁しての侵攻を開始した。この報せに美濃国内は動揺し斎藤家支配下にある尾張国境沿いの城の中には防衛を放棄して蜘蛛の子を散らすように逃げ去る城主たちが出始めていた。
「殿!何卒お考え直し下さいませ!」
その中で、早々に龍興を見限り美濃に攻め寄せて来る秀高の軍勢に呼応しようとしている稲葉良通の居城・曽根城では、城内の本丸館にて出陣準備を整えている良通に対して一人の家臣が諫めるように話しかけていた。
「我ら美濃武士は何があっても主君に尽くすものにございまする!殿の個人の感情で主君を見限っては先祖代々に申し訳が立ちませぬぞ!」
「利三!父上に対して無礼であろうが!」
良通への諫言の様子を聞いていた良通の嫡子・稲葉重通がその家臣の名を呼んで叱りつけた。この家臣の名は斎藤利三。稲葉良通の家臣団の中でも随一の才を持つ武将であり今回の美濃攻めでの主君・良通の行動に不信感を抱いていた。
「いいえ何度でも申しまする!殿!今こそ道三公以来の斎藤家のご恩に報いる時にございまするぞ!」
「…利三、わしは義龍様に従ってその道三公を討ち取ったのだ。その様な方便が通じると思うか?」
鎧を従者に付けさせてもらった良通は置かれていた床几に腰を下ろすと、諫言してきた利三の顔をじろりと見つめて言葉を返した。
「ならば殿は、そのような粗末な理由で美濃武士の誇りを捨てると言われるか!」
「…美濃武士の誇りなどとうの昔に捨て身じゃ。利三、そんな心がわしの中にあると本当に思っておるのか?」
良通は利三に対してそう言うと、立ち上がって利三を見下ろしながら言葉を続けた。
「今のわしは美濃武士である前に稲葉家の長である。落ち目の斎藤家に尽くすよりは、勢い盛んで才知溢れる秀高殿に従った方がお家の為になるのじゃ。利三、それを分かってはくれぬか?」
「…いいや分かりませぬ!」
と、利三は良通の言葉に反発してスッと立ち上がると、主君である義道を睨みつけながら言い放った。
「殿は不忠者にござる!武士ならば滅びゆく主家に殉じてこそ先祖代々に申し訳が立つという物にござる!殿のように節操なく主家を変え家の存続を図るのは某の性に合いませぬ!御免!」
「待て!利三!」
主君である良通に言い放った後にその場から足音を大きく立てて去っていった利三を重通が呼び止めたが、それを良通は片手で制した。
「構うな重通。あれこそが真の美濃武士であろう。わしは利三のようにどこまでも真っ直ぐな奴の主君には向かなかっただけよ。」
「しかし!」
重通は父である良通になおも言葉を続けようとしたが、良通は再び床几に腰を下ろして言葉を発しようとした重通に対して言葉を先に発した。
「…利三、そなたのような者にとってはこれから先、きっと生きにくくなる世の中になるであろうよ。」
そう発した良通の言葉を息子の重通は脇にて黙って聞いていた。こうして家臣・斎藤利三の出奔という騒動があったものの、良通は手勢に加えて近隣の牧村政倫の軍勢と共に墨俣城に着陣する秀高の元へと向かって行った。
「…良通、それに直元や守就。良く俺のところに馳せ参じてくれた。」
翌日の九日、木下秀吉の一夜城で完成した墨俣城に入城した秀高はそこで良通や氏家直元・安藤守就ら呼応してきた諸将と軍議の席にて顔を合わせた。軍議の冒頭で秀高より言葉を受け取った良通は顔を上げると秀高に対して言葉を返した。
「秀高殿…いえ殿。我ら西濃の諸将は殿に誠心誠意お仕えし、殿の覇業を支えることを誓いまするぞ。」
「うん、その言葉を聞けて嬉しく思う。今後は俺のところでその力を存分に発揮してくれ。」
この秀高の言葉を聞くと良通ら参陣した諸将はこぞって頭を下げて一礼した。その後諸将が頭を上げるとその中の一人である直元が大高義秀の方を振り向いてこう言った。
「…義秀殿。この某もようやく目が覚め申した。我ら美濃武士は誇り高くとも、父殺しを行った者に命を捧げるほど安くはありませぬ。ならばこの氏家直元、例え不忠者の誹りを受けようとも秀高殿の覇業を支えたいと思いまする。」
「…そうか。お前のその本心が聞けて俺は嬉しいぜ。今後は一緒に秀高を支えようぜ!直元!」
義秀が直元に対してこう呼びかけると、直元はこの言葉に首を縦に振って頷いて答えた。その言葉の後に参陣した竹中半兵衛が秀高に対して発言した。
「殿、此度の出陣の報によって美濃国内は混乱状況にあり、龍興の居城・稲葉山城周辺の豪族たちは方々に離散して空き城となっております。」
「そうか…やはり七万という大軍勢を耳にしてはこうも簡単に逃げ去るものなんだな。」
と、秀高は半兵衛より聞いた美濃の状況を聞いて、数年前に今川義元の大軍勢を打ち破った時の自身と重ね合わせてどこか物悲しく感じていた。自身の時は配下の諸将を奮い立たせて今川義元を討つという大戦果を上げたが、いざ自分が大軍勢を率いてみると美濃国内の豪族たちが歯向かってこない事に手ごたえの無さを感じていたのである。
「それにしても、こちらがすべての力を振り絞って捻出した軍勢の情報を聞いて敵が勝手に逃げだし始めるなんて、普通に考えたらあり得ない事だよ?」
「…あぁ。それだけ斎藤傘下の諸将の士気は下がりきっていたという証だな。」
秀高は今回の出陣に際し、事前に伊助ら稲生衆の忍びたちに命じて美濃国内に味方の軍勢の数を触れ回っていた。何しろ数ヶ月前の中濃失陥から立ち直っていない斎藤家領内の豪族たちは総勢七万という軍勢の数に恐れ戦き、戦う前から城や砦を捨てて四方に逃げ去っていった。
この状況ではもはや戦にはならず、秀高率いる墨俣口から攻めてきた本隊はまるで無人の野を行くがごとく素早い速さで進軍していたのである。
「だがこれで稲葉山城までの道は開けたと言っても良いだろう。明日にはこの墨俣を発ち稲葉山城に攻め掛かる。諸将は明日の戦に備えて各々休息をしっかりと取ってくれ。」
秀高は軍議の席に居並ぶ諸将に対してこう指示すると、諸将たちは各々頭を下げて一礼して答えた。その後秀高は目の前の机に置かれた絵図を指示棒で示しながら言葉を続けた。
「なお滝川一益、長野藤定、北条氏規、そして九鬼嘉隆らの軍勢約一万七千は既に石津郡と不破郡の二か所から侵入し西濃各地の豪族たちを攻め下している。安藤勢はこれの加勢に向かってくれ。」
「ははっ。しかと承りました。」
秀高の下知を聞いた守就は頭を下げて承諾し、続いて秀高は諸将に多方面の動きを伝えるべく言葉を続けた。
「また、東濃の信隆を牽制する為に安西高景・佐治為景ら総勢二万余りの軍勢がこの方面に向かっている。稲葉山城の陥落後は迅速に東濃へと軍勢を転進する手はずとなっている。」
「…いよいよ信隆のいる東濃攻めにございまするか。」
と、軍議の席に参加していた前野長康が意気込んで発言すると、その場に馬廻の深川高則が軍議の席に駆け込んできて秀高に報告した。
「殿!北条氏規殿より書状が届いておりまする!」
「何?氏規から?」
秀高は高則の報告を受けてそう言うと、高則より書状を受け取るとその場で封を解いて書状の内容を見た。やがて書状の内容に目を通した秀高は顔を上げると視線を信頼の方に向けて口を開いた。
「…氏規が東濃の遠山綱景に渡りをつけたそうだ。」
「遠山綱景…確か明知城の城主だよね?」
遠山綱景…東濃に勢力を持つ遠山家の支族である明知遠山家の当主ではあるが、かつて北条氏康の家臣の一人でもあった。小田原城陥落後、綱景は江戸城を脱出し一族が治めていた美濃の明知城へと帰還。同時に本籍の明知遠山家の当主の座を譲られていたのだ。
その綱景に対し北条家の一門である氏規が接触し、綱景から色よい返事を得たというのが氏規よりの書状に事細かに記されていたのである。
「…書状によれば綱景は織田信隆に反旗を翻すことに同意し、飯羽間の遠山友勝と示し合わせて決起すると書いてある。」
「おぉ、それが真であれば東濃の玄関口はこちらが抑えたと言っても過言ではありませぬな!」
と、その秀高の言葉を聞いた秀吉が喜び勇んで発言すると、秀高は秀吉の言葉に頷いて答えた。
「あぁ。高景らにこの綱景たちの援護をさせると同時に、東濃各地の信隆派の書状攻略を命じさせるとしよう。信頼、その旨の書状を直ちに高景らに送ってくれ。」
「うん。分かった。」
秀高は信頼の言葉を聞いた後に諸将の方を振り向くと改めて下知を下した。
「よし!明日からは美濃の中枢・稲葉山城攻めに向かう!父殺しの龍興の首を挙げ、必ずや美濃国を俺たちの物とするぞ!」
「ははっ!!」
諸将は秀高の意気込みに答えるように返事を返した。こうしてその翌日、秀高率いる軍勢は安藤勢と別れ、三手に別れて包囲するように斎藤龍興の居城・稲葉山城に攻め寄せていったのである。




