1564年1月 一夜城再び
永禄七年(1564年)一月 美濃国伊木山
高秀高が居城の那古野城から犬山城に向けて出陣した同じころ、犬山城から木曽川を挟んだ北西方向にある伊木山では、木々に隠れるようにある工事が進んでいた。外から見える森の内部では地面を削って曲輪を作り、そこに柵や櫓などの防衛設備に木造の小屋などの簡素な建物が数日をかけて造成されていたのである。
「…おぉこれは清兵衛殿に氏勝様!大分出来上がりましたなぁ!」
その内部で進む工事の中で様子を見に来たのは、秀高の軍勢より先行して美濃国内に入って工作などを施していた木下秀吉であった。その声に反応した工事の奉行である香川清兵衛と、清兵衛と共に事前に美濃国内に手勢を率いて潜入していた丹羽氏勝は秀吉の方を振り返った。
「おぉ、藤吉郎ではないか。うむ、この調子で行けば今日中にもすべてが完成しよう。」
「氏勝様、それは重畳にございまするなぁ。聞けば殿の本隊は先刻那古野を出陣したとの事。今日の夜には対岸の犬山に入城なされるでありましょう。」
「そうか。ならば丁度良き頃合いになるのう。」
氏勝が周囲を見回しながら秀吉に向かってそう言うと、秀吉に同行して来ていた弟の木下秀長が奉行である清兵衛に向かってこう言った。
「それにしても清兵衛殿、この城を覆う様にある木々はどうなさるので?」
「あぁ、これは城からの狼煙を合図にすべて薙ぎ倒し、鵜沼城に見せつけるように致します。そうすれば敵の士気は大いに下がる筈です。」
「いやはや、さすがは清兵衛殿。そうなれば殿はまたしても美濃に電撃的に拠点を確保することに繋がり、またこれを聞いた中濃の豪族たちにも大きな動揺を与えることが出来まする。」
清兵衛の目論見を聞いて秀吉が感心するようにそう言うと、その言葉を聞いていた氏勝が秀吉に向かってある事を尋ねた。
「ところで藤吉郎よ、黒岩の仙石久盛の首尾はどうなったのだ?」
「ははっ、仙谷殿はこの伊木山の城の完成と同時に黒岩にて挙兵なされ、我らの手勢と共に猿啄城を強襲する手はずにございまする。」
「何?猿啄城をか?兵力は足りておるのか?」
秀吉の目論見を聞いた氏勝はふと心配になり、秀吉が率いる兵力に関して尋ねた。すると秀吉はニカッと笑いながら氏勝にこう言った。
「氏勝殿、心配ご無用にございまする。既に黒岩近郊には我らの手勢五百に仙谷殿の手勢八百。計千三百ほどがおりまする。聞けば猿啄城の守兵は千にも満たないとの事。日を跨いで行われる鵜沼城攻めと同時に攻め込めば、勝算はございましょう。」
「そうか…ならば良いのだがくれぐれも無茶は致すでないぞ?お主も今は高家の重臣の一人。このようなところで討死とあっては今後の威信に関わるのでな?」
と、氏勝が秀吉の事を気にかけてこう言うと、秀吉は胸をポンと強く叩きながら氏勝に対して言葉を返した。
「お任せあれ氏勝殿!この木下藤吉郎秀吉、殿の天下統一を見るまでは死ねませぬ!では某はこれにて。」
秀吉は氏勝に対してこう言うと弟の秀長を連れて疾風のようにその場を去っていった。その光景を見ていた清兵衛は氏勝に対して言葉をかけた。
「なんとも風のような御仁にございまするな。」
「ふっ、あれがやつがサルと呼ばれる所以よ。まぁ良い!皆今宵の内に殿が犬山に到着する!それまでにはこの陣城を完成させるぞ!」
この氏勝の号令を聞いた人夫たちは喊声を上げ、そのまま築城工事を行った。この工事は奇跡的に鵜沼城や猿啄城などの城に気付かれることなく進み、やがて日が暮れて夜になった時に伊木山の築城工事は全て終わっていた。
「…さぁ殿、こちらにございまする。」
その伊木山から木曽川を挟んだ対岸にある犬山城に一万の軍勢を引き連れて入城した秀高は、城主である安西高景や参陣した森可成などの諸将と共に本丸にある犬山城天守閣に登り、最上階の部屋から高欄へと出てそこから伊木山の方向を見つめた。
「高景、あの川向こうに見える山が伊木山か?」
「如何にも。その正反対方向の東側にある小高い山にあるのが斎藤方の鵜沼城にて、対岸の鵜沼城では殿の軍勢の接近を知って既に早馬を稲葉山に走らせたようにございます。」
「そうか…これで龍興はどうでてくるんだろうな…それよりも、準備は整っているのか?」
秀高は斎藤龍興の動向を考えつつも高景に対して対岸の準備について尋ねた。
「ははっ。既に対岸の伊木山には氏勝殿の軍勢と人夫が入って工事を終え、こちらから狼煙を上げれば周囲の木々を薙ぎ倒して城を敵に見せつける算段となっております。」
「狼煙か…果たしてこの月夜でどれだけ対岸に狼煙が見えるんだろうか…」
と、秀高が天高く上る満月を見ながらそう言うと、脇にいた可成が秀高に対してこう進言した。
「ご案じなさいますな。いかに夜中と言えど白煙の狼煙を上げれば対岸の伊木山にもしかと届けることが出来まする。」
「うん、分かった。高景、早速にも狼煙を上げてくれ。」
この秀高の下知を聞いた高景は高欄から真下に顔を向け、下に向けて軍配を一振り右方向に振った。すると天守閣の真下の広場にて準備を整えていた足軽たちが狼煙の元となるヨモギやワラに火を付け、やがてその火から白煙が立ち上ると天高く登り始めた。
「…あっ、秀高!あれを見て!」
と、しばらくして小高信頼がいち早く対岸の伊木山の変化に気づき、秀高に分かるように指で指し示した。秀高がその方向を見ると対岸の伊木山を追おう木々が音を立てて次々となぎ倒され、やがてその中から立派な山城が姿を現した。その城の曲輪にはかがり火が所々に灯され、夜の中でも忽然と城が現れた事を示すように光り輝いていた。
「おぉ、誠に見事な城が森の中から現れたぞ!」
と、その様子を見ていた織田信包が声を上げると、それを聞いた秀高が静かに頷いて言葉を発した。
「うん…あれだけの備えを持った城を敵の目を欺きつつ建てるとは見事だ。」
「きっとあれを見た敵は度肝を抜かれただろうよ。」
と、義秀がほくそ笑みながら秀高にそう言うと秀高が義秀の方に視線を送りながら言葉を返した。
「あぁ。あの城が出来れば鵜沼や猿啄の命運は決したも同然だ。」
「さて、これで相手はどう出てくるかだな。」
「まぁ、こちらに対して反抗するのが普通でしょうね。」
秀高に対して発言した義秀の言葉を聞いて華が言葉を発して反応すると、そのまま言葉を続けて自身の考えを述べた。。
「でも墨俣城の一件を受けて美濃の西部では豪族たちに動揺が広まっているとも言うわ。今回ももしかしたらあの城一つで大勢が決した可能性もあるんじゃないかしら?」
「…華さんの言う通りだ。あの城一つで戦の勝敗が決まったのならば安いものさ。」
秀高が華の意見に賛同して義秀に向けてこう言うと、そのまま高欄から中に入って階段を降り、下の階に用意された机の前に置かれた床几に腰を下ろした。それに続いて参陣する諸将が各々の床几に座ったことを確認した秀高は改めて発言した。
「…さて、木曽川の対岸である美濃国内には黒岩に木下勢が千三百、伊木山には氏勝の二千が詰めている。明日から始まる対岸の鵜沼・猿啄攻撃に向けて諸将の存念を聞きたい。」
「…然らば申し上げまする。」
と、その発言の催促に対して言葉を発した一人の武将がいた。この者こそ昨年に尾張へと流れ付いて来た真田幸綱その人であった。
「昨今の美濃の情勢を鑑みますると、恐らく敵は今晩にも鵜沼か猿啄のどちらかを放棄して逃げ延びると思われまする。」
「…そこまで美濃勢の士気が下がっているとは俺は到底思えないが…」
すると、秀高の言葉を聞いた幸綱が後ろの方から諸将の間を割って入る様に机の前に出てくると、指示棒を取って絵図を指し示しながら発言した。
「昨年の墨俣城に続き、敵は領内に我らの築城を許す結果と相成りました。この結果鵜沼や猿啄などの小城を持つ各城主たちの斎藤家への求心力は下がり、同時に戦意を喪失する事と相成るでしょう。特に敵前線に城を持つ領主ならばなおさらのことにございます。」
「だが鵜沼や猿啄は国境沿いの城だぞ?そう簡単に城を打ち捨てるなんて…」
「殿!申し上げます!」
とその時、その一室の中にの中に忍び頭の伊助が現れて秀高に対して報告をした。
「対岸にて見張っている我が配下より報告!鵜沼城並びに猿啄城の城兵、城を捨てて加治田方面に逃走との事!」
「なんと、敵はおめおめ城を打ち捨てたと申すのか!?」
伊助の報告を聞いた可成がその内容に驚いて声を上げると、伊助は秀高に頭を下げつつ更に報告を続けた。
「また、これに先立ち稲葉山城下にて戦備えが発せられたようにて、出陣の手はずを整えているとの事にございます!」
「そうか…ご苦労だった、下がってくれ。」
秀高は報告しに来た伊助に対してこう言うと、伊助は秀高に対して一礼すると再びその場から消え去った。するとその直後この一室の窓から鵜沼方向を眺めていた深川高則が一室に響き渡るような大声で叫んだ。
「殿!鵜沼城から火の手が上がりましたぞ!」
「…なんだと!?」
秀高がその言葉に驚いて床几から立ち上がると、諸将と共に高則の場所まで歩いて来てそこにある窓から鵜沼城の方角を見つめた。すると確かに月夜の中ではっきりと山城の鵜沼城から火の手が上がる様子が見えた。
「殿、ここは一刻も早く追い打ちを掛けましょうぞ。今ならば逃げていく城兵たちの背後を襲えまする。」
「左様!同時に秀吉に密使を遣わして猿啄城の確保を命ずるべきにございます!」
と、この鵜沼城炎上の光景を見た可成と初陣を飾っている山口重勝が反応してこう言うと、その提案の後に幸綱が口を開いた。
「殿、ここは冷酷とも言われようと追い打ちをかけ、美濃衆に我らの強さを示すべきにございます。」
「…分かった。可成、幸綱。追撃はお前たちに任せる。敵をある程度追い打ちにした後は鵜沼城を抑えて猿啄の藤吉郎を援護してやってくれ。」
「ははっ!しからば幸綱殿、共に参りましょうぞ。」
「はっ!」
幸綱は可成からの言葉を受け取ると二人そろってその場を去っていった。その様子を見ていた秀高は山口盛政の方を振り返ってこう指示を下した。
「盛政、急ぎ黒岩の藤吉郎に密使を送ってくれ。」
「畏まりました。然らばすぐにでも。」
こうして伊木山城出現を契機に犬山城では軍勢が動き始めた。森可成・真田幸綱率いる三千五百は木曽川を渡河し、鵜沼城から逃げ延びようとする大石直重らの軍勢を散々に打ち破り撃破。直重の首を上げる事に成功した。
その後可成らは鵜沼城の火を消し止めるとその足で猿啄城に進んで秀吉の部隊と合流。城将・多治見修理らの軍勢を追い打ちにして撃破し、見事猿啄城の確保に成功した。ここに僅か一夜で中濃の玄関口である両城はあっけなく秀高の手に落ちたのである…




