1563年7月 立身出世への道
永禄六年(1563年)七月 尾張国那古野城下
「小一郎!わしの出世の道が開いたぞ!」
高秀高に対して木下秀吉が献策をした後、秀吉は那古野城から下城するとその足で城下にある自身の邸宅に帰ってきた。この秀吉の邸宅は足軽長屋にあり、八畳一間の狭いものであった。
「どうしたんだ兄者、そんなに喜んだように帰ってきて…」
と、その邸宅にて同居する木下秀長が兄である秀吉に声を掛けると、秀吉は秀長の肩を掴むなり顔を近づけてこう言った。
「どうしたもこうしたもない!わしは殿より主命を受けた。美濃の斎藤家を揺さぶるような、大きな主命をな!」
「まぁ、それはようございましたね。」
と、その言葉を聞いた一人の女性が、正座で座りながら洗濯していた布を折り畳みつつも声を掛けた。この小袖姿の女性は寧々と言い、何を隠そう秀吉の正室でもある。
「寧々!そうかお前は喜んでくれるか!」
「えぇ。お前様は秀高殿に仕官されて以降、どこかで名を上げる好機を窺っておりましたから、この主命はきっと喜ばしいものと思いまして。」
「はっはっは!どうじゃ小一郎!寧々はこんなにも喜んでくれておるのだぞ!お前ももう少し喜ばぬか!」
その調子がいい秀吉を目の当たりにしても、務めて冷静な秀長は秀吉に対してその主命の内容を尋ねた。
「分かった分かった…それで、その主命とは何なのだ?」
「聞いて驚けよ?実はな…」
と、秀吉は秀長や寧々に対して秀高に申し述べた内容と同じことを伝えた。すると、それまで冷静だった秀長が一番大きく驚いて声を上げた。
「ええっ!?兄者、それは余りにも無謀すぎる!」
「うるさい!あまり大きい声を出すな!」
秀吉は声を上げた秀長を叱り飛ばすように怒ると、そのまま秀長に言い聞かせるように言葉を続けた。
「…確かに無謀な事はわしも承知しておる。だが危険を顧みずにこの策を成功させれば、美濃平定の一番の功労者はこのわしになる!わしはこの策に、わしのすべてを賭けるつもりじゃ!」
「…成功する確信はあるんだな?」
と、落ち着きを取り戻した秀長が秀吉に対してそう言うと、秀吉は秀長の言葉を聞いて頷き返すと、言葉を返すように答えた。
「あぁ。今回は殿より黒田城主の将右衛門殿や小六殿のお力をお貸し頂ける旨を受けた。二人の協力があれば、きっと全てうまく行く!」
「…ならばお前様、私からもお願いを聞いていただけますか?」
と、その秀吉に対して寧々が姿勢を正して座りなおすと、秀吉にある事を頼んだ。
「どうかその主命に、私の一族の弥兵衛と甚右衛門殿をお連れになっては如何です?」
「何?弥兵衛と甚右衛門か?」
この、弥兵衛と甚右衛門というのは、それぞれ秀吉と寧々に関わりある人物であった。まず弥兵衛の方は寧々の養父である浅野長勝の養子となっていた人物で、この年に元服して浅野長吉と名乗っていた。
一方の甚右衛門というのは秀吉の母・なかの妹を正室に持つ人物にて、その名を小出重政という。両名とも秀吉にとっては縁者ともいうべき存在で、秀吉夫妻がその今後を気にかけていたのである。
「はい。お前様が弥兵衛と甚右衛門殿を伴って行動すれば、お前様が出世した後に家来として迎えることが出来るではありませぬか。」
「ふむ、なるほどのう…」
秀吉は寧々の意見を聞いて暫く考えると、やがて即断するように一回首を縦に振り、寧々に対してこう言った。
「よし分かった!今回の主命には二人も連れて行こう!寧々、早速にも二人に声を掛けておいてくれ。」
「はい、わかりました。」
寧々は秀吉の言葉を受け入れてこう言うと、秀吉は秀長の方に顔を向けるとこう言った。
「小一郎!二人にはわしらの後を追わせることにして、わしらはまず小六殿を連れて黒田まで参ろうぞ!」
「そうだな。小六殿にはわしが伝えておくで、兄者は出立の支度を整えてくれ。」
秀長の言葉を聞いた秀吉は頷くと、寧々が畳んだ褌を取るや入り口の反対側におかれた風呂桶に向かい、徐に着物を脱いでふんどし一丁で体を洗い始めた。その姿を確認した秀長は邸宅から出て行くと、すぐに小六の元へと向かって行った。
「…なるほど、それがお前の策という訳か。」
それから数日後、秀吉と秀長は蜂須賀正勝や後からついて来た長吉と重政を連れ、その足で黒田城の前野長康を尋ねた。事前に秀高よりの書状を受け取っていた長康は、秀吉の意見を聞くと得心して頷いた。
「確かにそれが成功すれば稲葉山ののど元に短刀を突きつけたに等しい。だがその分、危険も大きかろうな。」
「その通りにござる!そこで将右衛門殿と小六殿のお力が要るのでござる!」
黒田城内の本丸館にて話していた秀吉は、小六こと正勝と将右衛門こと長康の顔を交互に見ながらこう言った。すると、その言葉を受けて正勝が徐に口を開いた。
「なるほど、ではまず材木の地点を決めねばなるまいな。長康殿、どう致す?」
「ふむ、ならば木曽川を渡った円城寺の辺りで材木を整え、あらかじめそこで組み立てておき夜のうちに筏を組んで境川から下ってゆく他あるまいな。」
と、長康がある程度の予測を立ててこう言うと、その予測を秀吉は首を横に振って否定した。
「いや、その見立ては現実的ではござらん。いかに筏を組んだとて夜の川を渡るのは余りにも危険にござる。」
「では、どうするというのだ?」
と、長康がその秀吉の言葉を聞いた上で尋ね返すと、秀吉はこくりと頷いて自身の存念を述べた。
「材木ならば、この尾張にたんとあるではありませぬか。かつて殿が尾張国内の諸城を破却した時に出た廃材が。」
「そうか…その廃材を再利用すれば材木の加工をせずに済むし、最低限の陣城ならば容易く築城できる。」
と、秀吉の言葉を受けて秀長がそう言うと、それを聞いた秀吉が首を縦に振って頷いた。
「その通りじゃ。それらは既に殿の命でここより南の小越に集められておる。それらを渡しを経由して木曽川を渡河し組み立てる。それが一番現実的にござる。」
「しかし、小越から渡しを渡河するとなれば、その先は加賀井領じゃ。加賀井重宗の目を盗んで進まねばならぬぞ?」
と、正勝が絵図を見つめながらそう言うと、秀吉はその言葉を発した正勝の方を見てこう言った。
「正勝殿、おそらく加賀井重宗は積極的に応戦はしてこぬと思うのじゃ」
「何、動かないとでも言うのか?」
正勝がその考えを聞いて驚くと、秀吉は室内に設けられた机の上の絵図を見つめながら言葉を続けた。
「噂によれば重宗殿は先の戦いで殿に勝ったにもかかわらず、龍興から何の褒美を得ていないらしい。それにこの甚右衛門の報告では、対岸の警備はおざなりでところどころに穴があるらしい。」
と、秀吉から指された重政が頷くと、それをみた長康が秀吉の顔を見るとこう言った。
「…その報告が真であれば、加賀井重宗は傍観を決め込むに違いないな。どうする?ここは夜のうちに行動するか?」
「はい、加賀井重宗が動かないのであれば、我らは夜の内に材木を抱えて木曽川を渡河し、目標に向かうのが宜しかろう。」
その言葉を聞くと、長康はそれに頷いて正勝やその場の一同に向けてこう言った。
「良いか、我らは八百の者達を連れて夜の内に木曽川を渡る。その後は秀吉の指示に従い、各々築城にかかれ!」
「ははっ!」
その言葉を受けて秀長ら一同は長康の言葉に答え、そして秀吉は絵図を見つめながら静かに闘志を燃やした。それから数日後の夜。秀吉率いる築城隊八百は小越にて材木を改修すると、夜半に音を立てずに木曽川を渡河し、対岸の斎藤方の足軽を排除して奥地へと消えるように進んでいった。稲葉山城主である龍興が異変の報告を受け取ったのは、翌日朝方の事であった。