1563年5月 森部の戦い<後>
永禄六年(1563年)五月 尾張国内
「何?秀高が早々に引き上げただと?」
高秀高軍離脱の報せは、長良川西岸の森部にて布陣していた斎藤龍興の元にも知らされた。
「はっ!既に秀高勢は引き返し始め、後方の部隊は木曽川まで到達したとの事にございます!」
「…半兵衛、これは如何なるわけだ?」
と、早馬の報告を聞いて徐々に青筋を立て始めていた龍興は、竹中半兵衛に対して問いただすように質問した。すると、半兵衛は務めて冷静に龍興にこう言った。
「ご心配には及びません。既に残りの伏兵も次々と秀高勢に襲い掛かる手はずなれば、何の問題もありません。」
「ふん、ならば良いのだがな。」
龍興はそう言うと、秀高軍が今までいた方向に視線を向けると、川の向こうへと逃げた秀高を睨みつけるように見つめた。一方、その様子を見ていた半兵衛もまた、視線を川の向こうへと向けて戦況の推移を見守った。
「可成のおっさん!そろそろ引き上げねぇとまずいぜ!」
一方その頃、森可成ら前方の秀高勢に合流した大高義秀たちは、槍を振いながら襲い掛かる斎藤勢を打ち倒していた。この間、義秀らの下知を聞いて前野長康、続いて織田信包の部隊が戦線の離脱を行い始め、森勢は川から下がって秀高の本隊がいた場所にて殿を行っていた。
「行けぇ!高勢を打ち倒せ!」
とその時、馬上で槍を振っていた義秀はその聞き覚えのある声を聴くと、その方向を振り向いた。そこには氏家直元が馬上から采配を振るいながら戦っていたのだ。
「やい!氏家直元!」
「おおっ、大高義秀殿か!!」
と、直元が義秀の姿に気づいてこう言うと、義秀は槍の切っ先を直元の方に向けながら話し始めた。
「直元!てめぇは義龍の最期を知っておきながら、父殺しをした龍興に従う道理がどこにあるんだ!」
「義秀殿、わしは武士の前に斎藤家の武士だ!斎藤家に仕える身ならば、主家の存亡の時に黙っている訳にはいかん!」
直元が馬上から刀を振るってそう言うと、義秀は襲い掛かってきた騎馬武者を槍で一突きに倒すと、槍を抜き取って言葉を続けた。
「はん!そういうの意気地なしってんだ!!てめぇは義龍に義理があんのか!それとも今の龍興に義理があんのか!!家の事なんざ関係ねぇ!てめぇがどうしたいかだ!」
「わしが…どうしたいかだと…」
直元はその言葉に呆気に取られると、義秀の近くに家臣の桑山重晴が駆け寄ってきた。
「殿!可成殿がそろそろ引き上げるとの事!」
「分かったぜ!…直元!その事をしっかり考えておくんだな!!自分の父親を殺す奴なんか、何の信用もないってことをな!!」
義秀はそう言うと馬首を返し、立ちはだかる敵を馬上から槍を突き出して倒しつつその場所を去っていった。そして直元はその場で棒立ちの立ち尽くしていたのだった。
「殿!本隊後方より新たな伏兵!徳山貞孝隊に原頼房隊それぞれ二千余りが接近して参ります!」
一方、竹ヶ鼻城を通過した秀高ら秀高本隊に、神余高政が馬を走らせて報告してきた。
「敵を相手にするな!間もなく可成の部隊も引き上げてくる!そうしたら速やかに俺たちも下がるぞ!」
この時、秀高の本隊は竹ヶ鼻城より少し離れた場所にて、引き上げてくる前方の味方を援護しつつ撤退の手助けをしていた。その秀高に対して小高信頼が馬を近づけてこう言った。
「もうすでに長康隊や信包隊も木曽川を渡り始めた。可成殿の部隊が来ればすぐに引き上げよう!」
「ふふっ、そうはいかないわ!!」
とその時、秀高本隊の側面の方から突如として声が聞こえてきた。秀高が馬首を返してその側面にある崖の上を見ると、そこには織田木瓜の文様が施された赤旗を掲げる軍勢がいた。そしてその軍勢の中を割って現れた人物を見て秀高は声を上げた。
「…信隆!!」
そう、その軍勢の中から馬に乗って現れた人物こそ織田信長の姉にして織田家再興を掲げる織田信隆であった。信隆は鎧姿に身を固めながら秀高の顔を見ると、馬上から秀高に語り掛けた。
「ふふふ、無様な物ね。私たちから尾張を掠め取っておきながらこの様とは、あきれ果てて何も言えないわ。」
「黙れ!尾張から這う這うの体で逃げ延びたくせして、どうしてそんなに清々しい顔を見せられるんだ!!」
秀高が馬上からそう言うと、信隆は高らかに笑いながらこう言った。
「ふふふ、それはこのような機会なんてないと思っているからよ。ここで秀高、貴方を討ち取れば尾張はまた織田家の物になる。そんな好機を見過ごすと思っているのかしら?」
「殿!一大事にござる!」
とそこに、秀高軍の先鋒からいち早く本隊に戻ってきていた深川高則が、秀高の元に馬を飛ばして現れた。
「本隊の四方より敵が迫っておりまする!日根野・長井・岸・佐藤など中濃の軍勢が迫って参りますぞ!」
「ふふふ、観念なさい秀高。貴方はここで終わるのよ。」
と、信隆が手にしていた軍配を振り下ろそうとしたその時、その軍配が信隆の手から離れるように弾き飛ばされた。信隆がその飛んできた方向を見ると、そこには滝川一益が馬上から火縄銃を用いて狙撃したのだった。
「くっ、まだ滝川勢が残っているとは…!」
「殿!既に可成殿の手勢は義秀殿と共に、別の渡しから木曽川を渡河しておりまする!一刻も早く殿も離脱を!」
一益からこの報告を受けた秀高は頷くと、信隆の方を睨みつけながら配下の将兵たちにこう言った。
「よし!ならばここにいる意味は何もない!手薄な箇所から囲みを突破し、急いで尾張へ帰るぞ!」
「おぉーっ!」
秀高配下の将兵たちはその下知を聞いて奮い立つと、先陣切ってその場を離れた秀高の後に続いてその場を去っていく。それを崖の上から見ていた信隆は慌てるように周囲に下知を飛ばした。
「ええい、追うのです!秀高の首を何としても上げなさい!」
その下知を聞いた織田軍をはじめ、中濃の所軍勢は慌てるように秀高勢を追いかけた。しかし信隆の指揮を良しとしない一部の軍勢はあからさまに手を抜き、秀高勢はその軍勢の間隙を縫って戦場を離脱していったのだった。
「…殿、秀高勢は木曽川を越えて撤退したようにございまするぞ。」
その後、竹ヶ鼻城に入城した龍興は斎藤飛騨守から味方の戦勝を知らされた龍興は、やや不貞腐れながら飛騨守に言い返した。
「…秀高の首はどうした?」
「はっ、それがどうやらあの好機関わらず、秀高配下の武将の首一つも上げられなかったらしく…」
飛騨守は龍興にそう言いながら、前線で戦っていた稲葉良通や直元ら諸将を睨みつけるように見まわしながら言葉を続けた。
「どうやら、お味方が手を抜いたようで折角の好機を逃してしまいましてなぁ?」
「…聞き捨てならん事を言う。」
と、その時飛騨守の言葉を黙って聞いていた良通が床几から立ち上がって飛騨守を怒鳴りつけた。
「我ら将兵は勇猛果敢に戦ったのだ。貴様は敵を誘引するだけしかやっていなかったではないか。」
「ほう、貴殿はまだ義龍に未練がある故手を抜いたのでしょう?」
「おやめなさい。飛騨守。」
と、その喧嘩を仲裁する様に言い放ったのは、この竹ヶ鼻城に来ていた信隆であった。信隆は飛騨守を睨みつけながらこう言った。
「良通殿は精一杯戦い抜いたのです。そのような言いがかりは侮辱に等しいでしょう?すぐに謝りなさい。」
「…ははっ。」
飛騨守は信隆の言葉を聴いて良通の方を振り向いて渋々頭を下げると、良通は内心わだかまりを抱えつつも表向きは飛騨守に一礼してその場を収めた。
「ともかく龍興殿、ここで秀高を討ち取れなかったとはいえどその戦績に傷を付けることは出来ました。次こそは必ず秀高の首を上げましょう。」
「ははっ。信隆殿もそれまでお元気で…」
龍興の言葉を受け取った信隆はそれに頷くと、床几から立ち上がって前田利家以下将兵たちを引き連れてその場を去っていった。信隆の後姿を見届けた龍興は、居並ぶ諸将に向けてこう言った。
「皆、とにかくよく秀高の軍勢を撃退した。此度の事は忘れぬぞ。では諸将は直ちに引き上げよ。」
「お待ちくださいませ!」
と、その時声を上げた者がいた。何を隠そうこの戦いで秀高勢を奥深くまで誘引した加賀井重宗その人であった。
「此度の戦いにおいて、拙者は秀高の軍勢の誘引を果しました!その拙者に何の音沙汰もないのですか!?」
「ない。」
龍興は手短にそう言うと、重宗に近づくなり顔を近づけ、髪を掴んでこう言い放った。
「貴様のような者など死んでも惜しくないというに死を恐れて城に籠った。そのような小心者にやるものなど一つもないわ。」
龍興はそう言って重宗を弾き飛ばすように突き出した後、飛騨守を伴ってその場を出て行った。すると飛騨守は去り際に諸将の方を振り返ってこう言い放った。
「諸将も、次もこのようなことをしでかした時には、領地も命も奪うのでその事をお忘れなく?はっはっは!」
そう言うと飛騨守は高らかに笑いつつも龍興の後を追う様にその場を去っていった。それを見ていた諸将は龍興への不信感を募らせ、その中で安藤守就が竹中半兵衛に語り掛けた。
「半兵衛よ、あれをどう思っておるのじゃ?」
すると、半兵衛は龍興が去っていった方向を見つめながら、呆れ果てたようにこう呟いた。
「…もう、あのような主君に義理立てする必要もありませんね。」
半兵衛がそう言ったのを聞くと、守就はただ黙って頷くほかなかった。この「森部の戦い」において秀高は大名になってから初の黒星を付ける事になったが、勝った斎藤家の家中の不平不満は徐々に大きくなり、その不和が堰を切って溢れようとしていた…。




