1563年5月 森部の戦い<前>
永禄六年(1563年)五月 尾張国竹ヶ鼻城
永禄六年五月十四日。高秀高率いる一万二千の軍勢は木曽川を渡河して尾張国内の斎藤龍興の領内に攻め込み、この日には竹ヶ鼻城に着陣していた。
「秀高殿、お初にお目にかかります。加賀野井城主、加賀井重宗と申しまする。」
その竹ヶ鼻城内の館内の広間におかれた秀高本陣にて、秀高への内通を行った重宗が上座におかれた床几に座る秀高に対して挨拶をしていた。
「重宗殿、今回の申し出、さぞ苦しい決断だったと思うぞ。」
「いえ、自らの父である義龍殿を私心で殺し、美濃を掠め取った斎藤龍興にあきれ果て申した。今後は義龍公がその才を認めた秀高殿にお仕えしたく存じまする!」
「そうか…その言葉を信じるぞ。重宗殿。」
秀高の言葉を聴いた重宗は一瞬眉をピクッと動かしたが、直ぐに秀高に対して頭を下げて表情を隠した。するとそこに、竹ヶ鼻城以西の様子を探ってきた山内高豊が戻ってきて秀高に報告した。
「殿!龍興自ら軍勢を率いてやって参りました!竹ヶ鼻城の北西、森部に陣を敷いたとの事にございます!」
「そうか、森部か…で?龍興の軍勢は如何程いる?」
と、秀高は机の上に置かれた周辺の絵図を見ながら、偵察してきた高豊に斎藤軍の兵数を尋ねた。
「はっ、斎藤軍はその数七千ほどにて、長良川西岸にて陣を固めているようにございます。」
「七千だと?稲葉や氏家の軍勢はどうした?」
と、秀高は斎藤軍の数を聞くと、余りの少なさに不信感を覚えたのか高豊に稲葉などの斎藤家重臣の軍勢の所在を尋ねた。
「はっ、それがどこにもその旗印がなく、今森部に布陣しているのは龍興の本陣のみにございます。」
「殿!稲葉や氏家がいないとあらば、このまま川を渡河して斎藤家の軍勢を打ち破りましょうぞ!」
と、高豊の報告を聞いて前野長康が秀高に対して血気盛んな意見を述べると、するとその意見を聞いて小高信頼が長康に反論した。
「しかし、いくら龍興の家督経緯に不満があるって言ったって、国が存亡の危機の前に兵を出してこないなんてことはありえないよ。」
「しかし逆にこれは好機ではないか?このまま龍興の首を取れれば、美濃はそっくりそのまま殿の物となるぞ?」
と、森可成が信頼にそう言うと、それを聞いて秀高が口を挟んだ。
「可成、その見通しはさすがに甘すぎるだろう。美濃は伊勢志摩なんかと訳が違う。斎藤道三の頃より斎藤家が治めてきた土地だ。伊勢志摩のような諸豪族の連合体なんかじゃない、美濃の危機となれば立ち向かうのが普通の心情だ。」
「しかし、ここで龍興を討つ好機を逃せば、再び信隆が尾張に攻め込んでくるのは明白にございますぞ!」
と、その秀高に対して山口盛政が口を挟むと、その意見の言い争いを聞いていた織田信包が秀高に対して意見を述べる。
「殿、ここはひとまず森部まで進み、敵の出方を見ては如何か?」
「そうだな…ここで迎撃に出ないのは斎藤勢を調子づかせることになるだろう。」
秀高は信包の意見をしぶしぶ容れてこう言うと、すぐに諸将に対してこう下知した。
「よし、ここの城の守備は重宗殿に任せる。我ら全軍はこれより森部の対岸まで進み、そこで敵の出方を見るぞ!」
「ははっ!!」
秀高の下知を聞いた諸将は返事をして承諾した。こうして秀高は竹ヶ鼻城の守備を重宗に一任すると、滝川一益率いる軍勢と共に竹ヶ鼻城を出陣していった。
「ふふふ、ぬけぬけと出てきましたなぁ龍興様。」
その数刻後、森部に布陣する斎藤龍興の軍勢の目の前、川を挟んだ対岸に秀高軍一万五千余りが布陣したのを確認した斎藤家の将・斎藤飛騨守はほくそ笑みながら大将である龍興に馬上から話しかけた。
「うむ。ここがやつの墓場とも知らずにな。半兵衛、手筈は整っておるな?」
「はい。稲葉様をはじめ、各隊配置を終えています。殿にはこちらから秀高勢に攻め掛かっていただき、敵先鋒に川を渡らせて誘引してください。」
「分かった。飛騨守!すぐに戦を始める!良いか、秀高勢に攻め掛かったら時を見て引き、敵を懐深くまで誘引するのだ!」
「ははっ!」
龍興の下知を聞いた飛騨守は配下の足軽に法螺貝を吹かせると、軍配を振って前線の足軽に秀高勢に攻め掛かるように指示を飛ばした。その指示を聞いた足軽たちは長良川を渡河すると、対岸の秀高勢に攻め掛かったのである。
「ええい、向こうから仕掛けてきたか。怯むな!応戦せよ!」
対する秀高軍の先鋒は森可成が布陣しており、敵の襲来を受けた可成は馬上から人間無骨を振いつつも味方の足軽を鼓舞するように呼び掛けた。
「よーし、ここで良いだろう!全軍引け!」
と、双方の足軽が槍を合わせてから数分も経っていないうちに、飛騨守は馬上から後退の下知を足軽たちに飛ばし、それを聞いた斎藤軍の足軽たちは可成隊の足軽たちと戦いつつも徐々に来た道を引き返す様に後退し始めた。
「よし!このまま押し返す!者ども攻め掛かれ!」
可成はその雰囲気を察すると味方の足軽に前進を下知。この可成隊前進を受けて前面に布陣していた前野勢、それに織田勢もつられるように川を渡河し始めた。この時、秀高軍の前軍と秀高本軍である中軍の間は徐々に空き始めていた。
「…今です。龍興さま、狼煙を。」
「よし!狼煙を上げよ!!」
その状況を川の対岸から見た半兵衛は龍興に対して伏兵への合図である狼煙を上げるように進言した。すると龍興は馬上から狼煙を上げるように配下に合図すると、配下の足軽は後方の狼煙台にて積まれた藁に火をつけ、狼煙を高々と上げ始めた。
「…殿!殿!一大事にございます!」
斎藤勢の反対側に布陣していた秀高の本軍、馬上に乗る秀高に対して馬廻の神余高政が火急の報告を申し述べた。
「先方のお味方に伏兵が襲い掛かりました!北東方向より稲葉良通!北西方向より氏家直元!東方向より安藤守就!西方向より不破光治がそれぞれ三千を率いて襲い掛かって参りました!」
「何!?やはり稲葉が戦場にいたのか!?」
と、秀高は高政からの報告を聞いて驚いていると、その近くにいた義秀が秀高に対してこう言った。
「秀高!急がねぇと先鋒の連中は壊滅するぞ!」
「分かっている!義秀、お前は直ちに先鋒に向かい、可成達に撤退を命じるんだ!」
「おう!」
義秀が秀高の下知を聞いて馬を走らせて言ったその直後、今度は深川高則が血相を変えて駆け込んできた。
「殿!加賀井重宗が裏切り申した!」
「えっ!?重宗殿が!?」
信頼がその報告を聞いて驚くと、秀高は何も発さずに馬首を高則の方に向けて報告を聞いた。
「既に加賀井勢は竹ヶ鼻よりお味方の軍勢を追い払って占拠!後方の加賀野井城も呼応したようにて、我らは前後を挟まれ申したぞ!」
「…重宗、やはりあいつの寝返りは嘘だったという事か!!」
秀高は高則の言葉を聴いて怒るように声を上げると、すぐさま盛政に対して迅速に指示を下した。
「盛政!こうなってはしょうがない。全軍に撤退を下知しろ!速やかに兵を退き、木曽川を渡って領内まで引き上げる!」
「は、ははっ!その旨を直ちに後方に下知して参ります!」
盛政は秀高の下知を聞いて速やかに行動に移すと、続いて高則と高豊に対して指示を伝えた。
「高則、高豊!お前たちは義秀の後追いかけて前方に向かい、先鋒の味方を収容して撤退まで導け!」
「ははっ!」
高則は秀高の下知を聞いて返事を発すると、高豊と共に先鋒に駆けていった義秀の後を追いかけていった。すると秀高は周りの味方に対して馬上からこう下知した。
「良いか!この戦もはや勝敗はついた!速やかにここから撤退する!兜首など余計な事は気にするな!迅速に兵を引き上げ木曽川に向かう!良いか!」
「おぉーっ!!」
秀高の下知を聞いた足軽たちは奮い立つように声を発し、その言葉を聴いた秀高は速やかに馬を走らせて戦場を離脱し始めた。この頃になると、異変を察した前方の味方も後退し始めたために前軍と中軍の距離は無くなり、合流した全軍はそのまま来た道を引き返し始めた。
「…加賀井重宗!」
と、その道すがら竹ヶ鼻城を通っていた秀高は徐に馬を留めると、物見櫓の上から撤退する秀高勢を眺めていた重宗に対してこう言った。
「お前の浅ましい考えなど俺はある程度分かっていた。斎藤家への忠義心厚いお前が寝返ってくるなど、微塵もあり得ないと思ったからだ。」
秀高の周りを固めるように馬を留めた信頼と高政が周囲を見張る様に囲んだ中で、秀高は大声で城内の重宗に聞こえる声で叫んだ。
「だが、そのような事をして戦に勝ったところで、龍興はお前の働きに報いることが出来るほど立派な人間じゃない!それでもなお、お前は斎藤家に義理立てするのか!?」
「…」
その秀高の呼び掛けを重宗は黙って聞いていた。秀高はその様子を察すると、手綱を強く握りしめて重宗にこう言い放った。
「重宗!今日のところは引き上げるが、そこのところをよく考えておくんだな!!」
秀高はそう言うと馬を走らせ、ぞろぞろと引き上げていく味方の足軽と共にその場を去っていった。そしてその場に残された重宗は物見櫓の上から、戦場を離脱していく秀高の後姿をただただ黙って見つめていた。