1563年1月 真田一族来たる
永禄六年(1563年)一月 尾張国那古野城
永禄六年一月上旬。新年も明けて新たな年となったばかりのこの日、那古野城の本丸館の縁側を、どたどたと足音を立てながら走る一人の人物がいた。何を隠そう、昨年に帰蝶の仲介で高秀高に仕官した木下秀吉その人であった。秀吉は血相を変えながら、縁側を走ってどこかへと向かっていた。
「えらいことになった…えらいことになった!」
秀吉はそう言いながら走っている。目指す場所はこの城の主である秀高の書斎であった。その書斎の中では、上座に座る秀高の前に重臣の山口盛政と大高義秀、それに小高信頼が円を描くように座っていた。
「…そう言えば殿、奥方様たちの体調は如何程にございまするか?」
「あぁ。もう産まれて一ヶ月も経過したが、母子共々健やかにしているよ。」
盛政から玲や静姫の様子を尋ねられた秀高は、すぐに答えを返した。
今を遡る事約二ヶ月前、秀高と正室である玲と静姫との間にそれぞれ女の子が産まれていた。玲との間に産まれた女子は蓮華と命名され、静姫との間の女の子は御徳と命名されていた。
「それは何よりにござりまする。何せ殿にとっては初の姫君にござりまするからな。」
盛政が嬉しそうな表情を浮かべてそう言うと、その言葉に反応して義秀も言葉を発した。
「そうだぜ。まぁ今まで男の子ばっかりだった秀高にとっちゃあ、その嬉しさもかなり大きいだろうぜ。」
「まぁな…やっぱり男の子とは違う感動ってあるんだなと思ったよ。」
秀高が腕組みしながらそう言うと、お産を終えて再び書斎に赴いていた信頼の正室である舞が、秀高の目の前の机に置かれたお椀にお茶を注ぎながら話しかけた。
「秀高さん、きっと姉さまも女の子が産まれてかなり嬉しいと思います。」
「そうだな。玲がな、赤子を産んだ時に女の子だとわかって泣いて喜んでさ、俺もつられて涙が出ちゃったよ。」
その言葉を聴くと、盛政は嬉しそうに微笑んで言葉を返した。
「それはようございましたな。殿、きっとその想いは子に伝わりましょう。」
「あぁ、そうだと良いんだがな。」
秀高が盛政に対してそう言うと、そこに襖を思いっきり開けて秀吉が駆け込んできた。
「殿、殿!一大事にございまする!」
「おいサル!ドタドタうっせぇぞ!」
と、駆け込んできた秀吉を義秀が叱ると、秀吉は義秀と盛政の間に割って入り、胡坐をかいて座ると義秀に詫びるように頭を下げた。
「申し訳ありませぬ義秀殿。しかし火急の要件があって参りました!」
「どうした藤吉郎、何かあったのか?」
秀高が血相を変えている秀吉の姿を見て尋ねると、秀吉は頭を上げて用件を述べた。
「はっ、先程この尾張に移住を申し出てきた一族がおりまして、その者達の名が——」
「…なんだと!?それは本当か!?」
秀吉から移住を申し出てきた一族の姓名を聞いた秀高はかなり驚き、同席していた信頼と舞も一様に驚いたのだった。
「お初にお目にかかります、高秀高と申します。」
それから数刻後、秀高の姿は那古野城下のある屋敷の中の一室にあった。この時、屋敷の中には秀高のほかに、同行してきた信頼夫妻と義秀、そして秀高に事の次第を報告した秀吉の姿があった。その秀高は目の前にいる一族の長に挨拶をすると、一族の長は深々と頭を下げて言葉を返した。
「これはこれは、高家当主がわざわざお出迎えとは、恐悦至極に存じまする。」
「殿、こちらが当家を頼って信州より参られた真田幸綱殿以下、真田一族にございまする。」
真田一族。あまり日本史に詳しくない秀高や義秀でも、その一族の名は知っていた。武田信玄配下として信濃経略に従事し、武田家滅亡後は上田城を拠点に周辺の諸大名と渡り合って生き残った一族であり、その名字を持つ武将たちの名は後世にまで轟くほどであった。
「秀高殿、我ら一族を匿って頂き忝い。こちらに控えるはわしの弟にて、皆一族を引き連れて参った。」
幸綱が秀高に対して一言述べた後、幸綱は自身の後ろに控える三人の武将を秀高に紹介した。その者達は幸綱の弟であり、幸綱から指された弟たちは順番ずつに名乗っていった。
「お初にお目にかかりまする。幸綱兄の弟の矢沢頼綱と申しまする。」
「同じく、幸綱兄の次弟である鎌原幸定にござる。」
「幸綱兄の末弟、常田隆永と申しまする。」
幸綱の弟である頼綱たちの自己紹介を受けた秀高はそれぞれに一礼して会釈をすると、目の前の幸綱の方に姿勢を向けた。
「ところで幸綱殿、信玄殿亡き後はどうなさっていたのですか?」
と、秀高は目の前に座る幸綱に対して、信玄亡き後の真田一族の去就を尋ねた。
「はっ…信玄公亡き後、我ら真田一族は領地全てを村上義清に奪われ申して、已む無く知遇のあった長野業正殿のところに身を寄せたのでござる。」
「されど昨年末にその業正殿が亡くなり、跡を継いだ長野業盛殿から我ら一族を匿えぬと申されまして、やむを得ず我ら一族は上野を去り、その途上で秀高殿の名声を聞き及んで兄共々この尾張に参った次第にござります。」
と、幸綱に続いて頼綱が秀高に対して意見すると、ふと信頼が割って入って幸綱たちに話しかけた。
「幸綱殿、長野業正公は既に亡くなっているものと思っておりましたが?」
「いえ、業正殿が亡くなられたのは昨年末の事に間違いございませぬ。」
信頼がこう尋ねたのは訳がある。というのも信頼や秀高たちがいた元の世界における長野業正の没年は永禄四年(1561年)の十一月のことであり、幸綱らの申していることが正しいのであれば、業正の死が一年延びたことになる。
その事実を聞いた信頼は、やはりこの世界での人物の死亡時期に大きな変化が起きていると実感するとともに、これから先の歴史の予測が大きく乱れるであろうと予測したのだった。
「そうですか…いえ、ちょっと気になっただけですので、お構いなく。」
「左様でございますか…とにかく秀高殿、どうか我ら真田家中を秀高殿の家臣の末席にお加えいただけぬでしょうか?」
と、再び秀高の方に姿勢を向けた幸綱が家臣に加わりたいと頼み込むと、秀高はその申し出を聞くと深く頷き、立ち上がって幸綱の目の前に座りなおすと幸綱の手を取ってこう言った。
「こちらこそ願ってもない申し出です。幸綱殿…いや幸綱。今後はこの俺の為に力を尽くしてくれ。」
「ははーっ!!この真田幸綱、身命を賭してお仕えいたしまする!」
幸綱が握られた秀高の手を握り返し、深々と頭を下げて秀高に礼を述べた。
「おぉ、あの武田の攻め弾正と名高き幸綱殿が加わるとは!やりましたな義秀殿!」
「はしゃぎすぎだぜサル。まぁ、そう喜ぶのも分からなくはねぇがな。」
と、幸綱加入に歓喜して喜ぶ秀吉とは対照的に、義秀は幸綱に視線を合わせながらも淡々としていた。すると、そんな義秀に舞が語り掛けた。
「でも義秀さん、この事を上杉輝虎が聞けばどう出てくるでしょうか…?」
この頃、幸綱の主君であった武田信玄を討ち取った上杉政虎は、昨年に将軍・足利義輝の偏諱を受けて「上杉輝虎」と名を改めていた。その輝虎の事を舞から聞かれた義秀は、舞に対してこう言った。
「さぁな。だがこのことが耳に入れば、よりこっちへの警戒を強めるに違いねぇぜ。」
「…そうとは限らぬかと。」
と、その会話の内容が耳に入った幸綱が義秀に対して語り掛け、秀高との握手を終えて義秀の方に姿勢を向けると言葉を続けた。
「風の噂では今、上杉輝虎は奥州経略に従事しているとの事にて、こちらに視線を向ける余力はございますまい。」
「奥州の…経略?」
と、その話を聞いた信頼が幸綱にそう言うと、幸綱の後ろにいた隆永が兄である幸綱の代わりに言葉を発した。
「如何にも!輝虎めは鎌倉府の管轄下であった陸奥・並びに出羽二ヶ国への侵攻を行っており、在地の武家勢力は悉く上杉の軍勢に反発しておるとの事にございます!」
「それだけではござりませぬ。輝虎は伊達晴宗を味方に引き込むと、佐竹や宇都宮などの関東諸侯を率いて反抗勢力を攻め滅ぼしておるとの事。」
隆永に続いて幸定が発言すると、その会話の内容を聞いていた秀高がつぶやくようにこう言った。
「輝虎…伝統の復活を謳って陸奥にまで手を伸ばしたか…」
「…秀高殿、もし上杉との一戦ある時には、是非とも我らをお加えくださいませ。輝虎はお館様の仇。何卒お頼み申しまする。」
と、秀高の方を向いて幸綱がこう頼むと、秀高は幸綱の顔を見て言葉を直ぐに返した。
「分かった。もちろんすぐに戦になるわけじゃないが、その時は頼むぞ。」
「ははーっ!!」
幸綱を初め真田一族の武将たちは秀高の言葉を受け取ると、秀高に対して深々と頭を下げて会釈をした。こうしてここに真田幸綱ら真田一族は高秀高の禄を頂くこととなり、真田一族は那古野城下の屋敷に定住するようになったのである…