1562年5月 織田軍襲来
永禄五年(1562年)五月 尾張国犬山城
永禄五年五月十二日。尾張と美濃の国境にある犬山城は数千もの軍勢に包囲されていた。その軍勢の旗印は「織田木瓜」。そう、この軍勢こそ東濃から捲土重来を期すべく尾張に攻め込んできた織田信隆が率いる軍勢六千余りであった。対する犬山城の城兵は四千。城将は高秀高の家老の一人である安西高景であった。
「父上!敵が攻めて参りましたぞ!」
その犬山城の本丸にそびえる三層の天守閣の最上階。高欄に立って包囲する信隆軍を見つめている城主の高景に対し、嫡子の安西高朝が階段を昇ってきて報告した。
「そうか…来たか。」
その報告を聞いても高景は務めて冷静に対処し、信隆軍の様子を見ながらこう言った。
「敵は二方向から攻めて参り、前田利家勢が南の大手門に、堀秀重勢が東の内田門に攻め掛かって来ておりますが、我が方は悉く攻撃を跳ね返しておりまする!」
「…やはり、継意様が行った改修が大きく効いておるな。」
高景が言った改修というのは、数年前に高秀高が尾張を統一した後、この犬山城代を務めていた三浦継意によって大規模な改修工事の事を指していた。
それまで単なる小高い丘に構築されていた犬山城は、改修によって川を背に本丸である犬山を囲うように大きな曲輪が配置され、更には先の犬山城攻めにおいて本丸の隠し門を通って攻め落としたことから、それを防ぐべく隠し門を城門に取り換え、搦手として整備しその麓も曲輪の中に囲わせた。これによって、山城から平山城に様変わりしたのである。
「しかし、こちらは四千に対し敵は六千。更に噂によれば斎藤の援軍も迫っているとの事にて、まだまだ予断は許しませぬ。」
「分かっておる。その為に事前に殿から援軍が遣わされておるのではないか。」
高景は息子の高朝にそう言うと、高欄から部屋の方を振り返って中に入り、その場に控えていた二人の武将を見た。この時、犬山城には秀高の命で坂井政尚・塙直政の二名が那古野城より一千の軍勢を率いて駆けつけてきたのである。
「高景殿、ご案じなさいますな。じきに殿の援軍も参りまする。それまでの辛抱にございますぞ。」
「左様。それに我らの兵も防戦に当たっておりますれば、信隆もそう簡単に城内に踏み込めますまい。」
この政尚と直政の両名が高景を安堵させるように発言すると、高景はその言葉を聞いて頷き、両名に対して言葉を返した。
「おぉ、その言葉を聞いて安堵したぞ。是非とも両名の力を振って頂きたい。」
「ははっ!!」
高景の言葉を聞いて政尚らが返事をすると、そこに忍びの伊助が風のように颯爽と現れた。
「高景殿!」
「おぉ伊助!そなたが来たという事は…殿が参られるのか!?」
姿を現した伊助に対して高景が身を乗り出して尋ねると、伊助はその問いに対してこくりと頷くと高景に援軍について報告した。
「はっ!されば我が殿の軍勢、本日夕刻にも出陣し、小牧山城にて森可成殿の軍勢と合流した後に翌日早朝には南の方角に現れまする!その数、およそ五千!」
「そうか、殿は明日にも参られるというのだな?相分かった!殿には必ずやこの城を守り抜くと伝えよ!」
「ははっ!!」
援軍来訪の報告に歓喜した高景は伊助に伝言を頼むと、伊助は直ぐに会釈して返事をするとすぐにもその場から去っていった。すると、その報告を聞いていた高朝が言葉を発した。
「殿の援軍が来るというのは今日中にも信隆の耳にも入るはず。とすれば信隆は無理やりにでもこの城への攻撃を強めて参るでしょうな。」
「うむ。その通りだ。各城門の守兵たちには気を引き締めて防備に当たれと伝えよ。」
高景が高朝にそう言っていると、その時階段を上がってきた一人の壮年の女武者が現れた。
「旦那様!旦那様はまたも大殿の旗本に手柄を取られてもよいと仰せになられますか!?」
「瑞!なぜそのような格好をしておる!」
この女武者、名前を瑞という。何を隠そう高景の正室であり、高朝の母でもあった。その瑞はあろうことか後ろ髪を鉢巻きで束ね、薙刀を片手に胴丸鎧を身に纏っていたのである。
「情けなや…かの桶狭間の折、大殿に加勢すべく水野や戸田を討ち取ったあの頃の武勇はどこに行ったというのです!?」
「ええい、かかる戦の折に何を申すのだ!」
瑞は夫である高景の反駁を物ともせず、歩を進めて高景の目の前に立つと薙刀の柄をドンと床に叩きつけて言い放った。
「ここの総大将は旦那様にございます。総大将ならば前線で戦い、華々しく敵将の一人でも討ち取る事こそ高家家老の面目が立つという物ではないですか!」
「黙れ瑞!このわしは総大将であり殿よりこの犬山城を託されたのだぞ!おいそれと前線で戦い、万が一命を落とせば殿に何と申し訳できるというのだ!?」
瑞の威圧に負けじと高景がそう言うと、瑞はふんと鼻で笑って後ろを振り返り、薙刀を構えなおして高景に言い放った。
「ならば旦那様はここで指揮でも執っていなされ。この私が曲輪まで参り、中に入ってくる敵を迎え撃って参ります。」
「待て!瑞!」
瑞は高景の言葉を聞かず、そのまま階段を降りて去っていった。その後姿を見た高景は頭を抱え、一部始終を見た息子である高朝が高景に声を掛けた。
「…父上、母上も父上の事を思ってああ言ったのです。あまり怒らないで下され。」
「分かっておる。しかし、あの血気盛んには困り果てたものだ。あのまま討死などされては敵わん。」
高景はそう言うと、視線を部屋の階段の片隅で待機していた一人の武者に目をやり、その者に話しかけた。
「正吉、直ぐにでも瑞の側に付いてやれ。」
「ははっ。お任せを。」
高景が話しかけたこの人物、名を兼松正吉という。元は織田信長の配下であったが、尾張統一後、牢人となったのを高景に召し抱えられ、今は安西家臣として行動していた。
「奥方様には、指一本触れさせませぬ。」
「うむ、くれぐれも頼むぞ。」
高景の言葉を聞いた正吉は高景に対して会釈をすると、得物の槍を片手に瑞の後を追うべくその場を去っていった。それを見ていた政尚が高景に対してこう言った。
「…なるほど、あれは正に女傑ともいうべき風格にござりまするな。」
「まぁ、その反面手を焼くこともしばしばあるがな。」
高景の言葉を聞いた政尚は、微笑みながら頷いていた。その後、政尚と直政は東の内田門防衛に向かい、東へと向かった瑞と正吉の後を追う様に高朝も大手門へと向かって行った。そして高景本人は天守閣の楼上から、戦局の推移を固唾を飲んで見守っていたのだった。
「奥方!何卒自重なさいませ!」
その瑞が向かった南の大手門付近。城兵たちが兵の中から狭間の間から弓や鉄砲を撃ち掛けている中で、薙刀を持つ瑞は自重を促す正吉の言葉には耳も貸さずに、颯爽と戦の最前線に足を踏み入れた。
「敵じゃ!敵が城内に入ったぞ!!」
とその時、城門の方角から叫び声が上がった。瑞が叫び声の上がった方角の方を見ると、織田方の武将が梯子を使い塀を越えて城内に侵入し、その後を足軽たちが続いて侵入して来ていた。
「前田利家が家臣、高畠孫十郎定吉!犬山城に一番乗り!」
と、敵将・定吉が勢いよく名乗りを挙げると、その定吉の目の前に瑞が薙刀を片手に立ちはだかった。
「不届き者!この私が相手になりましょう!」
「む、女子か!奥におれば命を落とさずに済んだものを…参るぞ!」
定吉はそう言うと得物の刀を構え、一気に瑞の懐深くに斬り込んだ。すると瑞はその動きを見切ったように薙刀を構えなおし、下から刀を振り上げてくる定吉の攻撃をかわすと、瑞はそのまま薙刀の刃先を定吉の胴に狙いを定め、勢いよく撫で切った。
「ぐあっ!」
その攻撃は見事に定吉の胴を切り、定吉は悲鳴を漏らすと傷口を抑え、なおも瑞に斬りかかろうとした。すると瑞は冷静に振り切った薙刀を返して定吉の手から刀を弾き飛ばすと、頭上から一気に定吉めがけて薙刀を振り下ろす。
「はぁっ!」
瑞が声を発した渾身の一振りを受けた定吉は真っ二つに斬られ、その場にどうっと音を立てて倒れ込んだ。その定吉の最期を見た織田兵は震え、立ちすくんだところを正吉ら城兵によってすべて討ち果たされ、塀に掛けられた梯子も城兵たちによって外された。
「者ども!城内に踏み込んだ愚か者は討ち果たしました!このまま敵の攻撃を悉く跳ね返してやりなさい!」
「おぉーっ!!」
その瑞の呼び掛けを聞いた将兵たちは奮い立ち、再び織田勢の攻撃を跳ね返すべく応戦した。この瑞の働きや、南門の坂井勢の奮戦によって、犬山城の守兵たちは門を打ち破られることもなく、織田勢の攻撃を跳ね返し続けたのである。