1562年4月 父と子の食い違い
永禄五年(1562年)四月 美濃国稲葉山城
永禄五年四月上旬。斎藤義龍の居城である稲葉山城に、高秀高の使者を務めた黒田城主の前野長康が来訪していた。表向きの理由は、先月の伊勢志摩侵攻への援軍に対する謝礼を述べる為であった。
「義龍様、我が主におかれましては、先月の援軍派遣の儀、誠にかたじけなく思うと仰せになられておりました。」
「ほう…あ奴も律義なものよな。わざわざ謝礼を述べに使者を派遣するとは…。」
稲葉山城麓にある義龍の居館。その中にある広間において上座に座る義龍は、下座に控える長康を見つめながら声を掛けた。すると長康は頭を上げると自身の後ろにおかれてある、義龍へ献上するべく持ってきた貢物を見ながら義龍に言った。
「つきましては義龍様、これらの進物は我が主よりのほんのお返しにございます。」
「そうか、わざわざそのような物を贈らんでもよいのに…。」
そう言いながら義龍は上座からスッと立ち上がると、進物の方に歩み寄って献上された品々を見定めた。すると義龍は、その中に紛れていた一本の綿織物を取るとその出来に感嘆した。
「ほう、これは見事な織物だ。長康、これはどこで手に入れた?」
「はっ、それは先年より我が領内で作り始めた綿織物の試作品にて、栽培している土地の名前から「大野絞」と呼んでおりまする。我が主におかれては、この大野絞を各地に普及させ、それで商いを広げるおつもりにございます。」
この、鮮やかな藍色と白い波模様が施された綿織物…これこそが、秀高が綿屋六兵衛に命じて栽培させた綿を利用した特産品第一号で、秀高によって大野絞と名付けられた物である。その鮮やかな模様に心奪われた義龍は、感心するように頷くと長康にこう言葉を返した。
「誠に見事な物だ。この織物ならば美濃国中、いや東海道の全域に瞬く間に広まるであろう。」
義龍が綿織物を手にしながらそう言うと、その脇でやり取りを見ていた竹中半兵衛も、義龍に賛同するように言った。
「その通りにございます。それにこれを我らの商人に持たせれば、我らにも利益が回ってくるでしょう。」
「うむ…長康よ、秀高にはこの織物、気に入ったと伝えておけ。」
「ははっ、しかと承りました。」
義龍は長康の返事を聞くと、近くに控えていた側近に綿織物を渡し、同時に進物を下げるように目配せをした。やがて側近たちが献上された進物を倉庫へ持っていった傍らで、義龍は上座に戻って長康の顔を再び見つめた。
「さて…今日来た本題は、このような進物を渡しに来たわけではあるまい?」
「…如何にも。義龍様もお聞き及びかとは思われますが、先日、帰蝶さまが何者かの襲撃を受けました。」
と、長康は義龍に来訪の本題である帰蝶襲撃の一件について申し述べた。すると、義龍はその言葉に深く頷いて言い返した。
「あぁ、概ねの内容は聞き及んでおる。最初の一報を受けた時はヒヤリとしたが、何事もなく無事だと聞いて安堵したぞ。」
「はっ…ところで肝心の下手人にございますが、どうやらかつて美濃の斎藤道三に仕えていた明智十兵衛光秀なる素浪人だという事にござりまする。」
「明智十兵衛、か…」
義龍はその名を聞くと視線をそらし、深く考え込んだ後に長康に対して言葉を返した。
「奴は今越前に一族郎党を連れて落ち延びていたと聞き及んでいたが…そうか、この美濃に戻ってきていたのか。」
「ははっ、しかもあろうことに、その明智十兵衛は朝倉義景殿に詳しい事情を伝えず、織田信隆の配下となって行動している由にございます。」
その長康の言葉を聞いた義龍は視線を目の前の半兵衛に送った。その視線を受け取った半兵衛は長康の方を振り向き、義龍に代わって言葉を返した。
「…では長康殿、まさか高殿は殿の御身を案じて使者を遣わしたというので?」
「…如何にも。帰蝶さまと義龍様は兄妹同士。もし義龍様の御身に何かあっては遅いと我が主は申されております。」
すると、その長康の言葉を聞いた義龍が高らかに笑い始めた。
「はっはっは。何を申すかと思えばそんな事か。あ奴も些か気にし過ぎな所があるのだな。安心せい長康。如何に十兵衛といえど、この堅牢な稲葉山に討ち入れるほどの力はあるまい。」
「…されど我が主は、大高義秀殿より聞き及んだ、義龍様とお子の関係性を懸念しております。」
長康が義龍に対してそう言うと、義龍は長康の方を見つめながら毅然と反論した。
「ふっ、その懸念には及ばん。既に息子の龍興とは打ち解け、今晩にも一家を囲んで夕食を共にするのだ。どうしてそのように大事にしている息子が、この父に歯向かおうとするのだ?」
「…は、ははっ。」
長康がそう言うと、義龍はスッと立ち上がってこう言った。
「長康、進物の件は感謝する。それと…わしのことについては気にするなと秀高に伝えておけ。」
義龍はそう言うとそそくさとその場を後にした。その場に残された長康に、半兵衛が近寄って耳元でこうささやいた。
「…長康殿、義龍様の周りは我らが見張っているゆえ、何事も心配なさらぬように秀高殿にお伝えくだされ。」
「ははっ…」
長康に耳元でささやいた半兵衛は、その返事を聞くと微笑みながら頷き、スッと立ち上がって去っていった義龍の後を追って行った。長康はその言葉を受け止めた後、城を後にして尾張へと帰っていった。
一方その頃、ここは稲葉山城から尾根伝いに南東の方角にある瑞龍寺。その中の一室にある人物がいた。
「…飛騨守殿、手筈は整っておりますな?」
そう言われたのは、斎藤家臣にして義龍の子・斎藤龍興の傅役を務めている斎藤飛騨守であった。そしてあろうことか、飛騨守に尋ねたのは、他でもない明智光秀であった。
「うむ。殿は今晩、妻子一同を集めて夜食を楽しまれる。そこで殿を殺め、殿と継室の一条局、そしてそれらの子をも一気に殺める。」
その飛騨守と光秀の会話を、あろうことか龍興本人も同席して聞いていた。飛騨守の回答を聞いた光秀は満足すると、懐からある小袋を取り出してそれを飛騨守の前に差し出した。
「…その際はこれを使いなされ。そして事が成った後は直ちに行動に移され、斎藤家の家督移行を宣言なされよ。」
「うむ。それと同時に光秀殿も、信隆様にはよろしくお頼み申しますぞ。」
飛騨守の言葉を聞いた光秀は頷くと、スッと立ち上がるとその場から疾風のように消え去っていった。すると、その会話を聞いていた龍興が、飛騨守に対してこう言った。
「飛騨守、本当にこれで良いのだな?」
「ははっ。義龍は御身の父である道三公を殺め、美濃を簒奪した梟雄にござりまする。道三公が見込んだ織田信長公の姉君である信隆殿と手を結び、憎き高秀高を討ち滅ぼすことが斎藤家のなすべき道にございまする。」
その言葉を聞いた龍興は、一つため息をつくと飛騨守に対してこう言った。
「この私が父の死の真相を隠して行動を起こし、美濃の実権を握れば他の諸将もついてくるのだな?」
「如何にも。たとえどんな事情があろうと若が家督を継げば、反発する諸将も否応なく従う他ありますまい。」
飛騨守が龍興にそう言うと、飛騨守は龍興の手を握り、龍興の顔を見つめて諭すように言った。
「親子の道を外した義龍に天罰を与えるのは、道理にかなった行為にございまするぞ、若。ここは心を鬼になさりませ。」
「…分かった。美濃の為、そして斎藤の為に鬼になろうぞ。」
その龍興の決意を聞いた飛騨守は微笑み、回答に満足してその場で頭を下げた。そして龍興はそれを聞くと、飛騨守を伴って城内へと帰っていった…。