1556年8月 敗北
弘治二年(1556年)八月 尾張国稲生原
この日、稲生の合戦は織田信勝軍が序盤の優勢をひっくり返され、織田信長軍に惨敗するという結果になった。
だが、信長軍はこの戦いで二千の兵のうち半数を失い、佐久間信盛以下、討ち取られた将兵は多く、今後の織田家の行く末に少なからぬ傷を付けた戦いとなったのである。
————————————————————————
「…帰ってきたのはこれだけか。」
合戦が終わってから数刻後。ここは、稲生原からほど近い廃寺である。合戦場から撤退した信勝はここを敗残兵の合流地点とし、将兵の吸収に努めていた。しかし、この信勝の所に戻ってきたのは、逃げた将兵を除いて僅か数十人ほどしかいなかった。
「はっ…勝家率いる軍勢は行方知れず…援軍の岩倉勢は撤退し、領地へと引き上げていきました。」
辺りが薄暗くなって夜になり始めたころ、信勝にそう報告したのは、中央突破された前衛から何とか落ち延びてきた林秀貞で、傍らには、手傷を負った弟の通具の姿もあった。この時、通具は至る所に包帯を巻き、虫の息となっており瀕死の状態であった。
「殿…申し訳、ありませぬ…」
虫の息の通具が、声を振り絞って信勝に詫びを入れた。すると信勝は通具に近寄り、肩に手を当てて慮った。
「通具…もう良い、喋るな。」
「この不忠は…誠に…」
そう通具が言葉を振り絞った直後、通具は力が抜けるように倒れこみ、そのまま身動き一つしなくなった。
「通具…?通具!しっかりせよ!」
それを見た秀貞が倒れこんだ通具に近づき、通具の体を揺さぶって呼びかけたが、もう通具からは何一つ、反応は帰ってこなかった。
「愚か者が…兄を差し置いて死ぬ奴がどこにおるか…!」
「…」
秀貞が通具の亡骸にしがみつき、その亡骸に向かって吐き捨てるように言った背後で、その光景を見つめていた信勝は、いたたまれなくなって言葉を失った。
「信勝様!ただ今戻りました!」
と、そこに秀高らが戦場から戻ってきた。それを聞いた信勝は、秀高の方向を振り向いた。その秀高らの腰には、数多もの兜首が布に包まれた状態で括り付けられており、それは秀高らが初陣ながらに大戦果を挙げた証でもあったのである。
「おぉ、秀高!それに皆も…良くぞ戻った。」
秀高が信勝からその言葉を受けた後に横へ目を向けると、そこには息絶えた通具の亡骸が横たわっていた。秀高はその亡骸を見て驚いたが、直ぐにその亡骸に近づき、手を合わせて冥福を祈った。それに続いて義秀らも、手を合わせてその死を悔やんだ。
「…秀高、それに皆。我が弟のために、かたじけない。」
その行動を見た秀貞は秀高に近づき、感謝の意を述べた。すると秀貞は、通具の亡骸を見ながら、秀高に語りだした。
「弟はな、先の戦いにおけるそなたらの働きを、見事だと申しておった。弟は手傷を負って死んだが…この戦いで死ぬことは、後悔はしておるまい…。」
秀貞がそう言うと、秀高は頷いてそれに賛同した。それを見た信勝は、敗残兵や秀高らに向かってこう言った。
「皆、聞いてくれ。この戦は負けた…ここは速やかに末森城へ帰り、今後の事を協議しようぞ。」
「…ははっ。」
信勝の意見に、秀貞が同意するように返事をした。こうして、信勝らは廃寺に暫く留まり、集まってきた百人ほどの敗残兵を取りまとめると、すぐに居城の末森城に撤退しようとした。
「秀高くん!それに皆!」
とその時、秀高に声を叫んできた人物がいた。何を隠そう、その人物は末森城の武家屋敷にいた玲であり、傍らには舞、そして梅や蘭親子の姿もあった。
「な、玲!どうしたんだ、こんなところに…」
すると、玲はいきなり秀高に抱き着き、涙を浮かべ始めたのである。
「秀高くん…城が…城が…!!」
「殿ぉーっ!!」
玲が泣き始めたのと同時に、玲たちが現れた背後から一人の小姓が若子を抱きながら信勝のもとに駆け込んできた。
「そなた…蔵人ではないか!どうしたのだ…」
そう言われた信勝の小姓・津々木蔵人は次の瞬間、信勝に驚くべき報告をしたのである。
「末森城が…末森城が落城したしました!」
————————————————————————
話は、信勝が稲生原から敗走した直後にさかのぼる。信勝の居城である末森城は、この時既に紅蓮の炎に包まれていた。
「禅師…首尾よく攻略出来たようね。」
そう、この時末森城を攻めていたのは、織田信隆率いる軍勢であったのだ。信隆は信長が中央突破したのを見ると、すぐさま軍勢を末森に向け、城攻めを強行したのである。これによって、信勝の退路を完全に封じ込めたのである。
「はっ。既に信長様も那古野を落とすために向かい、これで信勝殿は万事休すになりましょうな。」
そう言ったのは、信隆の傍らに控える高山幻道であった。この城攻めに置いて幻道は手下の虚無僧を駆使し、僅かな手勢によっての城攻めを成功させていたのである。
「しかし…信勝殿や信長殿の母である土田御前様が城中で自害なされ…信勝殿の妻子も行方知れずと…。」
その報告を受けた信隆は、はぁとため息をつき、幻道にこう語った。
「そう…御前様は自害なされたのね…」
信隆はそう言って、下を向いてその死を悼んだ。
この土田御前とは、信長と信勝の父にあたる織田信秀の妻であり、二人にとっては母の間柄である。信秀没後は信勝と共に末森城に住んでいたが、今回の攻撃を受けて錯乱したのか、燃え盛る城内にて自害して果てたのである。
「…信長殿には、「御前さまは気を病んで亡くなられた」と伝えましょう。」
「…そうね。禅師、報告は任せるわ。」
幻道は信隆から言葉を掛けられると、そのままその場を去っていった。そして信隆は、傍に控える一人の武将にこう言った。
「さて…これであなたはどうするかしら?勝家。」
その信隆の目の前にいたのは、他でもない柴田勝家であった。
合戦敗北後、信勝が敗走したことを聞いた勝家は撤退を試みたが、周囲を信隆率いる勝幡勢に包囲され、もはや抵抗する術を失った勝家は、やむなく信隆に降伏したのである。
「…もはやわしに選ぶ道はない。そなたの好きにするが良かろう。」
勝家から自身の処遇を任せられた信隆は、一通り思案すると、何かを思いついて勝家にある事を伝えた。
「…そうね、ではあなたに、私たちへの忠誠心を試すことも兼ねて、ある事を頼みましょうか?」
————————————————————————
「落城したとはどういうことか!?蔵人!!」
末森城落城の報告を受けた信勝軍の陣中、蔵人からの報告を受けた秀貞は、声を荒げて蔵人に詰め寄った。
「も、申し訳ありませぬ!既に気付いた時には本丸まで攻め込まれ、土田御前様は奥方様と…城中で…」
「母上が…死んだと…?」
信勝がその事実を突きつけられ、言葉を失ってしまった。母・土田御前は信勝を寵愛し、織田家の次期当主には信勝がふさわしいと周囲に公言していたほどであった。その母はもう、奥方共々この世にはいないという事に愕然としてしまったのである。
「…城を攻め落としたのはだれか。」
「恐れながら、織田信隆率いる勝幡勢であったとの事。」
秀貞が蔵人に尋ねてその答えが返ってくると、信勝は天を仰いでこう言った。
「もう、終わりだな…。」
「信勝様!」
秀高が信勝に気をしっかり持つように叫ぶと、信勝は秀貞に向かってこう言った。
「秀貞、もうここまでのようだ。敗残兵たちを返してやれ。戦はこれまでだ。」
「…しかと、承りました。」
信勝の言葉に何かを感じ取った秀貞は、それを受けると信勝配下の兵士たちを解散させ、その場から去らせたのだった。
「蔵人、我らはあの本堂に籠る。…事が終わったら、火を付けよ。」
「殿…」
信勝の言葉を受けた蔵人の瞳には光るものが溢れていた。蔵人はそれをぬぐう様に腕でこすると、そのまま火をつける準備を始めるためその場を去っていった。
「信勝様、申し訳ありません…。」
その動きの変化を感じた秀高らは、腰に付けていた兜首を丁重に葬った後、秀高は単身、信勝に自身たちの力の無さを詫びた。
「いや、気にするな。これも天命なのであろう。」
信勝の言葉を聞いた時、秀高にはある後悔が宿った。もし信勝が挙兵を決めたあの時、信勝にこれから起こることを伝えていれば、結果は変わったのだろうか?と。
「…秀高よ、これは無理を承知で聞きたい。」
すると、そんな秀高に信勝はあることを尋ねた。
「このまま私が死んだ後、兄上は…織田家はどうなる?」
信勝の言葉を聞いた時、秀高は信勝にとって心残りは、やはり織田家の将来であることを感じ取り、今度こそは本当のことを話そうと決心した。
「…分かりました。もう信勝様の決意は揺るがない様子。ならば、私が知っているこれからをすべて話しましょう。」
そう言うと秀高は信勝一人に対し、元の世界で学んだ織田家の将来と信長の未来をつぶさに語った。その内容のすべてを聞いた信勝は、ふっと鼻で笑った後、秀高にこう言った。
「そうか…兄上でも、天下には届かないのか…。」
信勝はそうつぶやくと、そこにやってきた蔵人にこう言った。
「蔵人、頼みがある。私の子を、この者らに渡してやってくれぬか?」
「はっ、秀高殿らにですか?」
蔵人からそう言われた信勝は頷くと、蔵人に向かってこう言った。
「蔵人、私は秀高から織田家の今後を聞いた。その上で、織田家の家運を守るのなら、秀高に私の子を託したい。そう思うのだ。」
「…かしこまりました。そこまで言うのならば…」
信勝の言葉の真意とその表情を見て、何かを感じ取った蔵人はその指示を聞き入れ、その背中に抱かれている1歳ほどの子を秀高に渡した。
「秀高殿、これは信勝様の嫡子、於菊丸様である。既に乳飲み子ではなく、養育には何不自由ござらん。どうか信勝様の願い、お聞き届けいただきたい。」
「…信勝様…」
秀高は信勝の方を向くと、信勝は秀高に頼むという意味を込めて頷いた。それを受け取った秀高は蔵人から於菊丸を受け取り、こう言った。
「分かりました。今後は私と玲の子同様に育て上げます。」
信勝は秀高からそう言われると、首を縦に振って懐から一通の書状を取り出した。
「秀高、そなたにこの書状を渡す。この書状を手に、鳴海城の山口教継を頼ると良い。教継ならば、そなたらを丁重に迎え入れてくれよう。」
「…しかと、承りました。」
秀高はその書状を受け取り、その場を去ろうとした。
「秀高!」
その時、信勝はその場を去ろうとした秀高を呼び止め、最後にこう言った。
「…不甲斐ない主で申し訳ない。これからのそなたらの武運、祈っているぞ。」
信勝のその言葉を受けた時、秀高の脳裏にこれまでの事が思い出され、その目には光るものが溢れた。秀高はそれを悟られぬように一礼し、その場を去っていったのだった。