1562年2月 伊勢からの書状
永禄五年(1562年)二月 尾張国那古野城
永禄五年二月。前年、高秀高が東濃に逃げ延びた織田信隆討伐を決意してからおよそ三ヶ月が過ぎたこの日、秀高の居城である那古野城の本丸館、秀高への書斎へと続く縁側を歩く一人の武士がいた。尾張鳴海城主・佐治為景の子である佐治為興。その人であった。
「…きゃっ!」
そそくさと縁側を歩いていた為景が角を曲がろうとした時、その角から徐に現れた侍女の蘭とぶつかってしまった。いきなり出てきた蘭とぶつかった為興は、姿勢を立て直すと転んでしまった蘭に手を差し伸べた。
「すまない、怪我はなかったか?」
「は、はい…申し訳ございません。」
為興の手を取って立ち上がった蘭は、ぶつかってしまった詫びを為興に入れた。すると為興は直ぐに蘭に対して声を掛けた。
「いや、こちらこそ申し訳ない。怪我がなかったのならば何よりだ。」
「はい、それでは…」
立ち上がった蘭は為興に対し、静かに頭を下げて会釈した後、為興の隣を通ってその場を去った。そして為興は蘭が去っていった方向を後ろ髪を引かれる様に見つめていたのだった。
「…そうか、元康殿が改名したのか。」
その後、秀高のいる書斎へと入った為興は、書斎の中の上座に座る秀高に対して、松平元康が改名した旨を秀高に対して報告した。
「如何にも。坂部城の久松高俊からの報告によれば、元康殿は自身の継父でもある久松高家殿の家の字を貰い受け、名を家康と改めるそうにございます。」
松平元康の改名。未来から来た秀高らにとっては周知の事実ではあったが、この時代においても改名の出来事が変わりなく起きた事にどこか安心していた。その中で秀高らより事実を知らされていた筆頭家老・三浦継意は場の空気を見計らいながらこう呟いた。
「…元の字を捨てるという事は、今川家との決別を明確にした証にございまするな。」
「その通りだ。元康…いや、家康殿の目的は東海道方面への進出に他ならない。その為には、今川義元が縛り付けた元の字を捨て、心機一転して前に進む必要があったんだろうな。」
秀高が継意の言葉に続けるように意見を述べると、それを聞いていた為興が報告の続きを秀高に述べた。
「それと…家康殿は近々朝廷に働きかけ、三河守の官職と新しき姓を貰い受ける工作を行う様子にございまする。」
「新しい…姓…」
その為興の言葉を聞いていた小高信頼は、秀高の方を振り返って呟いた。この家康の新たな姓の創設も、秀高らにとっては、存じている事実の一つであり、秀高は信頼の呟くような言葉を聞くと直ぐにこう言い返した。
「まぁ、家康殿にとっては俺たちの手法を真似れば、ある程度のことは出来るという事を知っているはずだ。何も不思議な事じゃないさ。」
秀高はそう言うと、報告をしてきた為興にこう声を掛けた。
「ご苦労だった為興。帰って為景に引き続き信隆への監視を怠らないように伝えてくれ。」
「ははっ。ではこれにて…」
為興は秀高より言葉を受け取ると、胡坐のまま頭を下げて会釈をし、立ち上がるとそのまま襖を開けて外に出て、出た襖を閉じてその場を去っていった。すると、腕を伸ばしながら背伸びをした秀高に継意が話しかけた。
「…そう言えば聞きましたぞ殿、またもやご懐妊との事ではありませぬか。」
継意が喜ばしい表情を見せながら秀高に話しかけた。それを聞いた秀高は不意を突かれたように驚いていた。実は先月の一月下旬、秀高の正室である玲と静姫の二人に妊娠の兆しが現れ、典医の見立てでめでたく懐妊が確認されていたのである。
「あ、あぁ…そうだな。」
「玲様はともかく、静姫様にとっては双子の若君以来のご懐妊。きっと前より気張っている事にございましょうな…」
と、継意が秀高にこう言うと、秀高は腕組みをしながらも気丈に言葉を返した。
「まぁ、静には気を張りすぎないよう、側室の春がついている。年長の春ならきっと、気を負いすぎないように静を補佐してくれるさ。」
「左様ですなぁ…」
継意の言葉を聞くと、秀高は上座の目の前にある長机に肘を置くと、前を見据えるように見つめながらこう言った。
「これから産まれてくる子供たちの為にも、今度の信隆討伐は何としてでも成功させなくちゃな。」
「…如何にも。」
継意が秀高の決意の籠った言葉を聞くと、継意も決意に満ちた表情を見せて秀高に言葉を返した。しかしその時、忍びである伊助が血相を変えて、風のように現れた。
「殿…殿!」
「ん?どうした伊助、そんなに血相を変えて…」
と、秀高は報告に来た伊助と、その後ろにいる忍びの顔を同時に見た。
「この一政が、先程伊勢国内にてただならぬ書状を手に入れたと報告してきました。」
伊助の背後に控える、この忍びの名は中村一政。秀高が官位任官の為に上洛した際、途中の山中俊好邸にて、俊好を通じて望月出雲守から派遣して来てもらった甲賀流忍者であり、今は伊助の稲生衆の忍び頭を務めていた。
「殿、伊勢長島城主の伊藤殿のお屋敷にて、このような書状を入手致しました。」
「何…書状を?」
秀高は一政より書状を受け取ると、その封を解いて中身を拝見した。すると、その書状の中身を見た秀高は内容に驚き、小さな声でつぶやいた。
「これは…出陣命令の書状?」
「何っ、出陣命令ですと!?」
秀高のつぶやきを聞いた上で継意は驚くと、そのまま立ち上がって秀高より書状を貰い受け、それを信頼と共に中身を確認した。その中身を見た継意らも、一様に驚愕していたのだった。
「…配り終わったか?」
同じころ、那古野より遥かに離れた伊勢国内某所。木曽川から奥に広がる尾張国内を見渡せる高所にいた一人の人物が、駆け寄ってきた者達に声を掛けていた。
「はっ。北勢の四十八家には六角名義で、南伊勢の北畠には公方様名義で書状を送っておきましたぞ。」
「北伊勢はともかく、名門・北畠は公方様からの命令ともあればすぐにでも兵を出す手はずを整えるでしょうな。殿。」
殿と呼ばれた人物は、被っていた笠を取って顔を見せた。その人物こそ明智光秀。織田信隆の家臣となった人物で、信隆に打倒秀高の方策を示した張本人であった。
「よくやってくれた。伝五に庄兵衛。これで秀高は、容易く東濃には向かえない状況になったな。」
光秀はそう言うと、報告に来た家臣の溝尾庄兵衛茂朝・藤田伝五行政の方を向きながら話し始めた。
「私の予想通りなら、秀高は東濃討伐の前に、攻め寄せて来る伊勢勢に対処するために、木曽川沿いに布陣するはずだ。そうすれば、東濃方面はがら空きになり、後々の計略がし易い状況になるはずだ。」
「既に、左馬助様や次右衛門様も、各々の手はずの準備を開始している頃合いにございますれば、早ければ年内には、全て片が付くでしょうな。」
と、行政が光秀に言葉を発すると、光秀はその意見に頷いて答え、笠を再び被ると行政らに向けてこう言った。
「さぁ、我らも早いうちに岩村に戻り、事の準備を進めるぞ。」
「ははっ!!」
行政は光秀の言葉に返事をすると、茂朝と共に美濃へと帰る光秀の後を追う様に去っていった。この光秀が伊勢中にばらまいた偽の書状が、信隆決起への序章になる事など、この時秀高は思いもしなかったのである。