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1561年5月 敗走する氏真



永禄四年(1561年)五月 三河国(みかわのくに)渥美半島(あつみはんとう)沖合




 永禄(えいろく)四年五月十二日早朝。三河国の東、渥美半島の沖合を進む一つの船団があった。先頭を進む安宅船(あたけぶね)の帆に大きく書かれた家紋、赤鳥紋(あかとりもん)を掲げて進むこの船団こそ、昨日の知立(ちりゅう)の戦いに敗れ、僅かな敗残兵と共に駿河(するが)へ帰国する途中の今川氏真(いまがわうじざね)一行を乗せた船団であった。


「…太守、お加減は如何にござるか?」


 その安宅船の甲板、矢倉と呼ばれる上部構造物の中にて床几(しょうぎ)に腰を掛ける氏真に、この船の主でもあり、今川(いまがわ)水軍の長をも務めている岡部貞綱(おかべさだつな)が、氏真に具合を尋ねた。すると、少しは心に余裕が持ててきた氏真は、貞綱の問いかけにすぐに答えた。


「うむ。船酔いにも慣れてきた。大事ないぞ。」


「左様にございますか。ご案じなさいますな。(こう)の水軍には我らに太刀打ちできる船はございませぬ。このまま容易に駿河へと帰還できましょう。」


 貞綱が氏真に対し、自信たっぷりにこう言うと、それを傍で聞いていた朝比奈泰朝(あさひなやすとも)も貞綱の意見に賛同して頷いた。


「然り。太守、今少し辛抱なされば、やがて駿河に着きまするぞ。」


「そうか…駿河にか…」


 氏真は泰朝から駿河という単語を聞くと、頭の中に罪悪感がよぎり、下を俯くと小さな声でこう言った。


「きっと私は、おばあ様に叱られるであろうな…。」


「太守…。」


 氏真の言葉を聞いて庵原忠縁(いはらただより)が氏真の心情を慮っていると、その時突然に水夫が駆け込んできて、船主の貞綱に火急の報告を告げた。


「お頭!前方から安宅船が二艘近づいて来やす!」


「何!?家紋は分かるか!?」


 すると、その水夫が近づいてくる安宅船の帆に描かれた家紋を、貞綱や氏真一同にも知れ渡るように伝えた。


「それが…家紋は北条鱗(ほうじょううろこ)!」


「何?北条鱗だと!?」


 貞綱は水夫から家紋の内容を聞いて驚くと、そのまま外に飛び出して遥か彼方の水平線から来る二艘の安宅船を見た。その貞綱の目には確かに、やってくる安宅船の帆にしっかりと北条鱗。即ち先の戦いで裏切った北条氏規(ほうじょううじのり)の家紋を掲げた船である事が確認できたのだ。


「…(いかり)を降ろせぇ!全船に停船の合図だ!」


「へい!」


 その貞綱の指示を聞いた水夫たちはすぐさま船の錨を海中に投げ込み、それに続いて貞綱の船に付いて来ている味方の全ての船を停止させ、やってくる安宅船の出方を窺った。すると、その二艘の安宅船は貞綱の安宅船の左舷に近づくと、その場で錨を降ろし、その場で停船したのである。


「何者だ!この船団を今川水軍と知っての事か!!」


 貞綱が北条鱗を掲げる二艘の安宅船に呼びかけると同時に、騒ぎを聞いた氏真一行も櫓から出てきて安宅船が停まっている左舷方向の甲板に出てきた。すると、その安宅船の櫓の中から、一人の侍大将が現れた。


「…これは貞綱殿。氏真殿を乗せて駿河へ帰る途中を止めてしまい申し訳ない。」


 そう言って出てきた侍大将の姿を見て、氏真一行も貞綱も、それが誰であるかというのはすぐに分かった。そしてその人物に対してすぐに反応したのは、他でもない氏真であった。


「そなた…景宗(かげむね)か!」


 氏真がそう言って名前を叫んだ侍大将の名は、梶原景宗(かじわらかげむね)。元は北条(ほうじょう)家臣であったが、小田原陥落後に僅かな船を連れて戦線を離脱し、氏真の恩情で今川水軍の席に加えられていたのだった。


「これは太守…いえ、氏真殿。」


 景宗が氏真の姿を見てこう言って会釈をすると、その奥に留まった安宅船の櫓から、二人の侍大将も出てきた。無論、氏真はその二人の事も知っていた。その二人とは、景宗同様に落ち延びてきた間宮康俊(まみややすとし)とその子である間宮康信(まみややすのぶ)である。この間宮親子もまた、甲板上にいた氏真の姿を見ると景宗同様に会釈して答えた。すると、その光景を見た氏真は、目の前の景宗に向かって問い詰めた。


「景宗…これはどういうことか?なぜ北条の旗印を掲げているのだ!」


「それは、我らも氏規殿に従い、尾張へと向かおうと思いましてな。」


 景宗が腕組みをしながら氏真にそう言うと、氏真の背後にいた泰朝が景宗を指さして直ぐに言い放った。


「黙れ!氏規が裏切った今、おめおめとここで通すと思ってか!」


「…それは、この方を前にしてもそう言うのですかな?」


 泰朝の一喝を受けた景宗は、それに意に介さず後ろの矢倉の方を振り返った。すると、その矢倉の中から一人の姫君とそれに従う僧侶が現れた。その姿を見て、氏真は驚いて顔面蒼白となった。


「お、お前は…」


「…氏真様、お久しゅうございます。」


 その姫こそ、氏真が第二次善得寺会盟だいにじぜんとくじかいめいの後に離縁して捨てた前妻の(はる)であった。春は氏真に会釈をすると、ただ真っ直ぐに氏真の顔を見てこう言った。


「氏真様、私の弟でもある氏規が行い、改めてお詫び申し上げます。」


「春…」


 氏真は春の言葉を聞いてもただ黙って春の顔を見ていた。すると、その脇にいた僧侶・板部岡江雪斎いたべおかこうせっさいが春に成り代わって氏真にこう言った。


「氏真様、ここにおわす春様は氏規殿に従い、これから尾張へと向かう所にございます。すでに氏真様と春様とは何の縁もない間柄。お止めになる理由など、どこにもないと思いまするが?」


 江雪斎から諭されるように言われた氏真は、その場で黙り込んでしまったが、その代わりに泰朝が江雪斎に反論した。


「黙れぇい!如何にそうとは申せ、易々と貴様らを通してやる道理もどこにもない!」


「…誠にそう思われますかな?」


 江雪斎は泰朝の顔を見つめながら静かにこう言うと、懐から一通の書状を取り出して氏真にこう進言した。


「この書状が、氏真様の祖母でもある寿桂尼(じゅけいに)様からの文で、撤退してくる今川全軍は、何があっても我らを無傷で通す様にという内容であってもですかな?」


「何だと…寿桂尼様がそう申されたのか!?」


 泰朝の言葉を聞いた江雪斎は頷くと、竹竿の先端に書状を挟み、それを対面の安宅船の甲板に届くように伸ばした。それを今川方の水夫が受け取り、受け取った書状を渡された氏真は中身を見た。するとその文面の筆跡は間違いなく寿桂尼の物で、内容も江雪斎が申したことと一字一句違えていなかったのである。氏真は一読して手にしていた書状をたたむと、近くにいた貞綱にこう告げた。


「…この書状を返してやれ。そしてあの二艘を通してやれ。」


「しかし太守!」


 貞綱が氏真の指示に食い下がって反発すると、氏真は対面の安宅船にいる春の姿を見ながら貞綱に向けて更に言葉を述べた。


「…春がそうしたいのならば、私には止める道理はない。既に私は、春とは縁を切ってしまったからな。」


 氏真はそう言うと視線を貞綱の方に向け、二艘の安宅船の進路を開けてやるように促した。すると貞綱はその意をくみ取ると、後ろにいた水夫に進路をふさいでいる味方の船を避けてやるように指示した。すると、その指示に従った船は二艘の安宅船の進路上から消え、海上に一本の道が出来たようになった。


「…春、さらばだ。未熟な我儘でそなたを離縁した、この私を許して欲しい。」


 氏真はそれを見た後に、向かいの甲板上の春に向けて別れの言葉を述べると、春は氏真の答えに対して微笑んだ後、去り際の挨拶代わりに、秀高に一言で言った。


「…それでは氏真様、どうかお元気で。」


 春がこう言ったと同時に、二艘の安宅船は錨を上げ、水夫たちが櫂を使って漕いで進み始めた。そのまま去っていく二艘の安宅船を、氏真はただ黙って見送ったのだった。そして二艘の安宅船が正反対の水平線の彼方へと消えていくと、泰朝が氏真に向けてこう言った。


「太守、宜しかったのですか?いくら前妻とは申せ…」


「良いのだ。泰朝。」


 氏真はそう言うと、その消えていった水平線の方角を見つめながら、本心を語った。


「…私にはどうしても、春を殺すような真似は出来ない。たとえどんなことがあってもな…。」


「…左様にございますか。」


 その氏真の気持ちを受け止めた泰朝は、ただ一言こう言って慰めるように氏真を見つめていた。その後、氏真たちの船団も錨を上げ、駿河方面へと向かって行った。氏真たちが駿河に着いたのはその日の正午を過ぎた頃の事で、ここで氏真はやっとの思いで今川館(いまがわやかた)に帰還できたのである。





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