1561年5月 知立の戦い<四>
永禄四年(1561年)五月 尾張・三河国境 一ツ木砦
「…ええい!どいつもこいつも役に立たぬ奴らが!!」
一ツ木砦に置かれている今川氏真の本陣には、今までの各地の戦況が入ってきていた。序盤こそ高秀高の本陣に迫る展開を見せたものの、徐々に秀高本隊に押し返され始め、別動隊を率いていた朝比奈泰朝も戦況不利と見るや、一足先に知立城へと撤退していたのである。
「…太守、見苦しい真似は慎みなされ。」
と、氏真に対して落ち着くように諫言したのは、先の桶狭間の戦いで息子の庵原元政を亡くした、庵原忠胤であった。氏真は忠胤からその言葉を受けると、忠胤の方に軍配を向けて詰るように問い詰めた。
「忠胤!貴様はこの戦況を見てどうしてそうも冷静でいられるのだ?味方が苦境に陥っているのだぞ!?」
「…だからと言って、焦っていては見える物も見えなくなりまする。どうかここは落ち着いて、物事の視野を広げなされ。」
忠胤からそう言われた氏真は、手にしていた軍配の柄を握り締め、歯ぎしりしながらもその場に座った。するとそこに忠胤の養兄弟である庵原忠縁が氏真の元に現れ、外の様子を伝えてきた。
「申し上げます!お味方は悉く総崩れ!ほとんどの備えが戦線から離脱しています!」
「…何だと!?瀬名は?元長はどうした!?」
氏真が顔を上げてその報告に驚き、同時に怒りを見せて報告してきた忠縁に詰め寄ると、忠縁は気まずそうな表情を浮かべながらも、問われたことに対して真摯に答えた。
「…瀬名さまを始め、主だった諸将の行方は知れず…噂によれば、皆秀高の旗本たちによって討ち取られたと…」
「何だと…こんな馬鹿なことが、あって良いのか!!」
「敵勢!間もなくこの砦に押し寄せて参ります!!」
と、忠縁の報告を聞いて落胆していた氏真の元に、この砦に秀高の軍勢が迫ってきていることを足軽が報せに来た。その報告を聞いた忠胤は氏真にこう進言した。
「太守!もはやここまでにございます!どうかこの砦を立ち退き、ひとまず知立城へ!」
「ならん!大将たるものが、敵前逃亡しては兵に示しがつかん!!」
氏真が進言してきた忠胤にこう言うと、忠胤は氏真の側に近づき、氏真の両脇を抱えてこう言った。
「なりませぬ!二代続けて戦で討死とあっては、今川の先祖に申し訳が立ちませぬ!忠縁、太守を頼むぞ!」
「はっ!さぁ太守!どうぞこちらへ!」
「放せっ、放さぬか!無礼者が!!」
氏真は忠胤に代わって両脇を抱えられた忠縁ら側近たちに連れられ、砦の裏門から知立城へと撤退していった。そしてその場に残った忠胤は、残った守兵たちを集めると、刀を抜いてこう言った。
「…者ども、このような戦に付き合わせて申し訳ない。」
「何を仰せになられますか。」
と、その中の守兵の一人が、忠胤の言葉に反応してこう意見した。
「ここにいる一同、皆すべて今川の御恩を受けてきた者達です。その御恩に報いる為ならば、この命、惜しくはありませぬ。」
「…そうか。忝い。」
忠胤はその言葉を受け取ると、そのまま前に進むと、刀を構えなおしてこう言い放った。
「よし、ならば皆の者、今川家の意地を、高家の者どもに見せつけてやろうぞ!!」
「おう!!」
守兵たちは忠胤の言葉を受けてこう発すると、やがて砦の中に斬り込んできた秀高勢と斬り合いを始めた。しかし衆寡敵せずとはこのこと。僅か五百で一ツ木砦に残った忠胤と守兵たちは、意気軒高な秀高勢の前に一刻とも立たずに壊滅してしまったのである。
それから一刻後、氏真は忠縁に連れられて知立城に落ち延びていた。この時、知立城には守兵や朝比奈勢の手勢、それに氏真を慕って敗走してきた兵三千余りが集まっていた。
「…おぉ、太守!」
「元信…。」
館の中に入ってきた氏真は、開戦前に気乗りしないと一喝した元信から声を掛けられて、元信の顔を見るとばつが悪い表情を浮かべた。その顔には開戦前のような好戦的な性格は鳴りを潜め、本来の性格の温和な部分が現れ始めていた。
「太守、なんでござるかその表情は。」
「…申し訳ない。あの時、そなたの言葉に従って撤退していれば…」
氏真は上座の床几に座ると、元信に悔いを述べた。すると、元信はその謝罪に首を横に振って否定すると、直ぐにこう言った。
「太守、勝敗は兵家の常と申します。それに起こってしまった事は詮無き事。今は太守の御身が無事に戻ってきて何よりにござる。」
「そうか…」
氏真は元信からその言葉を受け取ると、もはや意気消沈してその場で肩を落としてしまった。元信はその氏真の様子を見つめながらも、その場に残った将である泰朝、忠縁と共に今後の事を協議した。
「さて、こうなってしまっては一刻も早く、太守を駿河へ撤退させる方法を模索せねばならぬ。」
「しかし元信、撤退とはいえ知立以東はすべて敵の領地。どこにも撤退する場所はないぞ。」
「…いえ、一つだけ方法がありまする。」
そう言ったのは、元信と泰朝の会話を聞いていた忠縁であった。忠縁はその場に絵図を広げると、要所要所を指さしながら説明し始めた。
「この矢作川河口の大浜には味方の水軍が尾張水軍の監視に当たっています。水軍の将である岡部貞綱殿を頼ってここまで落ち延び、海路から駿河へと向かう他ありません。」
「…確かにそれしかないか。向かうには少人数の方が良かろう。だが問題は、この城に誰が残るかだ。」
忠縁の提案を聞いて納得した泰朝は、同時に追撃してくる敵の足止めを誰がするかという事を考え始めた。すると、その懸念に対して目の前に座っていた元信がこう発言した。
「…それならば、この某がここに留まろう。」
「何?そなた正気か?死ぬかもしれんのだぞ?」
元信の名乗りを聞いて泰朝がそう言うと、元信はふっと笑った後に、元信に視線を向けている氏真の方を見ながらこう言った。
「この某も、元はといえば秀高の才能を感じておきながら、太守に強く排除を進言しなかったためにかくのごとく事態になった。その責は、某の死をもって償う外ない。」
「元信…」
その言葉を聞いて泰朝が元信の顔を見つめると、元信は直ぐに泰朝と忠縁の方を向いてすぐさまこう言った。
「…いや、今は感傷に浸っている場合ではありませぬ。ともかくお二方は少数の供を連れ、太守と共に大浜へ向かってくだされ。」
「…分かった。元信、武運を祈るぞ。」
泰朝は元信に向けて手向けともいうべき言葉を贈ると、すぐさま立ち上がっていち早く脱出の支度をすべくその場から出ていった。そして忠縁は氏真の側に駆け寄り、氏真を連れてその場を去ろうとした。
「…元信。」
と、氏真は徐に元信の方を振り返ると、元信の顔をまじまじと見つめながら一言こう言った。
「今までの奉公、この氏真生涯忘れぬぞ。」
氏真は元信に万感の思いを込めてそう言った後、振り返って忠縁と共にその場を去っていった。その言葉を聞いた元信は一人その場に残ると、はぁとため息をついて一言、ポツリと漏らすように言った。
「…その想いが、せめて戦の前にあれば…」
元信のこの独白ともいうべき言葉は、氏真にも足軽たちにも聞こえる事はなかった。そして元信は立ち上がると、気を引き締めて迫ってくる秀高勢の迎撃準備を始めた。それと同時に氏真は泰朝ら僅かな供周りのみを連れ、知立城の南門から大浜へと落ち延びていったのであった。
そしてその日の夜。果たして知立城は秀高勢二万の総攻撃を受けていた。元信率いる三千は奮戦して何とか耐えたが、やがて外門は突破され、元信のいる本丸館までにも秀高の軍勢が入り込んできていたのである。
「くっ…さすがに数が多いか…」
火がかけられ燃える本丸館内。元信は迫りくる秀高勢の足軽を切り伏せながら奮戦していたが、やがてその目の前に見覚えのある人物が立った。その姿を見て、元信が驚いて声を発した。
「そ、そなたは…」
「久しぶりだな。元信。」
その人物こそ、数年前に秀高と知り合ったと同時に顔を覚えていた大高義秀であった。義秀は槍を構えると、もはやその場に元信しかいない状況を察すると、取り巻いていた味方の兵たちにこう言った。
「てめぇらは手を出すな!こいつは俺がやる。」
「…そうか。そなたが最期の相手か。」
元信は義秀の言葉を聞いて刀を構えなおすと、その様子を見た義秀が一言、元信にこう尋ねた。
「一言だけ聞かせてくれ。なんで氏真なんかに命掛けるんだ?」
「…ふっ、愚問だな。」
元信は刀の切っ先を義秀に向けると、義秀の顔を見つめて答えを述べた。
「そなたが秀高を大事に思う様に、某も氏真様を大事に思うておる。この気持ち、そなたならばきっと分かるはずだ。」
「…そうか。それもそうだな」
元信の言葉を聞いた義秀は槍を構えなおし、互いに距離を取って見合った。そして義秀が先手を取って元信に槍を突き出すと、元信は一回その攻撃を刀で払って後ろに下がり、再び距離を取った。そして再び元信は刀の柄に両手をかけ、今度は元信の方から斬りかかった。
しかしその瞬間、元信は胴体に義秀の槍を受け、それと同時に刀を落としてその場にどうっと倒れ込んだ。
「…元信、お前手加減したのか?」
「まさか…そなたの勝ちだ。義秀。」
倒れ込んだ元信に義秀が近づき、首元に短刀を当てると、元信は義秀にこう言った。
「…義秀、秀高殿にこう伝えてくれ…「もし戦国の世で無かったなら、きっと互いに分かり合える存在になれていただろう。」とな…」
「…分かったぜ。じゃあな。元信。」
義秀は元信の伝言を聞くと、直ぐに短刀を使って元信の首を取った。その後義秀は、元信の首を掲げて周りにいた足軽にこう宣言した。
「聞け!岡部元信の首、この大高義秀が討ち取ったぜ!」
「おぉーっ!!」
その呼びかけを聞いて、周りにいた足軽たちは一斉に喊声を上げた。ここに知立城は陥落し、同時にこの落城を以って今川軍三万はこの一戦をもって壊滅した事を周辺諸国に知らしめた。
余談ではあるが、知立城から帰った義秀は秀高の元に着くと、元信からの伝言をそのまま伝えた。それを聞いた秀高はただ目を瞑り、元信の冥福を願ったという…