1561年5月 知立の戦い<三>
永禄四年(1561年)五月 尾張・三河国境 境川周辺
「殿!秀高殿の軍勢が今川勢の猛攻を跳ね除けているようじゃ!」
一方、こちらは境城に陣取る朝比奈泰朝ら総勢一万と相対す松平元康の軍勢四千。中央で馬の上から境城の様子を見ていた元康の元に、本多重次が徒歩で駆け寄ってきて高秀高勢の戦況を伝えた。
「…さすがは秀高殿、お味方が討ち取られて一時はどうなるかと思ったが、やはりその力は侮れんな。」
元康が重次から戦況を聞いた上で、軍配を片手に持ちながらこう感嘆していると、その近くにいた本多忠勝が焦れた様子で発言した。
「殿!我らも高勢に負けているわけには参りませぬ!敵は退路を断たれて戦意を喪失しつつある!今この時を置いて、攻め掛かる好機はござらんぞ!」
「…鍋、逸るな!」
馬上の元康が血気に逸る忠勝を諭すようにこう言うと、その場に服部半三が急に現れて元康に向かって報告した。
「殿。松平親乗殿・真乗殿父子が丹羽氏勝殿の軍勢と合流し、ただ今福谷からこちらに向かっております。もう一刻後には、境城の後方を突くと思われます。」
「そうか。よく分かった。」
元康は半三からの報告を受けると、その報告を承知して半三にこう指示した。
「半三、氏規殿に境城の敵に攻め掛かる旨、急いで伝えて参れ。」
「ははっ!」
半三は元康から下知を受け取ると、そのまま姿を消して北条氏規勢の元へ向かって行った。すると元康は、配下の石川家成を呼び寄せてこう指示した。
「よし、家成。前面の鵜殿勢に弓矢を射掛け、敵を挑発して参れ。」
「はっ。」
家成はその下知を受けると、その足で前面の弓隊の元に向かい、標準を対面に居座る鵜殿氏長の軍勢に向けて構えさせると、弓に矢を番えさせて直ぐに撃たせた。すると、その矢は氏長の軍勢へと吸い込まれていき、やがて前面の鵜殿勢は松平めがけて向かって来始めたのである。
「…よし!者ども!ここで秀高殿に三河武士の底力、しかと見せつけてやるのだ!!」
「おーっ!!」
元康の言葉を聞いた配下たちは喊声を上げ、前面の鵜殿勢を迎え撃つために前へと進み出て、そして刀を交え始めた。
鵜殿勢や朝比奈勢に限らず、既に退路を断たれた事は今川軍全体に知れ渡っており、その配下の足軽たちの動きは鈍かった。岡部勢など力戦する部隊もいたが、時が経つにつれて一人、また一人と戦場から逃げ始める者達が出始めていたのである。
「ま、まずい…これでは戦にならん…」
その雰囲気は、前線で戦う氏長も感じ取っていた。馬上から見えていたその光景は、徐々に味方の兵が討ち減らされ、前面から松平勢の足軽たちが迫ってくるものであった。氏長はその様子を見て。最早戦にならないと感じていた。
「ええい、者ども!壊滅する前に兵を」
しかし、氏長はその言葉を言い終える前に、身体に一本の槍を受けてしまった。その槍を突き刺した武者はそのまま氏長を馬上から引きずり落とすと、槍を深く突き刺してとどめを差した。氏長は声にもならない悲鳴を上げると、肩の力を落として力尽きてしまった。
「松平家臣!長坂信政!鵜殿氏長を討ち取ったぞ!」
氏長の首を取った信政は声高らかに叫ぶと、松平勢は主を無くした鵜殿勢を悉く討ち取り、鵜殿勢三千は開戦から僅かな時間で壊滅したのである。
「くっ…これでは戦にならんではないか!」
その様子を、境城の物見櫓から見ていた朝比奈泰朝は、櫓の手すりを拳で叩いて悔しがった。最早、前面に布陣していた鵜殿勢はあえなく壊滅し、松平・北条勢はこの境城にも迫りつつあったのである。この光景を見ていた泰朝もまた、この戦に勝機などないと感じていた。
「ええい、怯むな!何としても裏切り者どもを討ち、太守にその首をささげよ!」
「殿!一大事にござる!」
と、その櫓の足元に泰朝の一族でもある朝比奈泰勝が現れ、櫓の上の泰朝に驚くべき報告をした。
「福谷に転進した松平親乗が寝返り、境城の北方に丹羽氏勝の軍勢と共に現れました!」
「何だと!?」
泰朝はその報告を受けて物見櫓から北の方角を仰ぎ見ると、城のすぐ近くに陣取る戸田勢のはるか先から土煙が見え、その煙の中から旗印が見え、それは間違いなく松平・丹羽勢であることが確認できたのである。
「おのれ…大給松平までもが寝返ったのか!!」
泰朝はその様子を見て歯ぎしりをしながら怒りをぶつけるように叫ぶと、そのまま櫓の梯子を降りて地面につくと、すぐさま泰勝に指示した。
「泰勝!直ぐにでも戸田勢に松平勢の迎撃をするように伝えて参れ!」
「ははっ!!」
泰勝は焦れた泰朝からの指示を聞くと、すぐさま城外に待機する戸田宣光の軍勢三千の元に向かい、戸田勢の副将である宣光の嫡子、戸田重貞に連れられて大将の宣光に目通りすることが出来た。
「宣光殿!直ちにお手前の軍勢を動かし、敵勢を迎え撃ってもらいたい!」
その焦っている様子の泰勝とは対照的に、大将でもある宣光は床几に座りながら、ただ黙ってはるか遠くを見つめていた。
「…宣光殿!もはや猶予はございませんぞ!」
「…分かった。」
宣光は床几に座りながら静かに答えると、視線を泰勝の近くにいた重貞に向け、それを見た重貞は直ぐに刀を抜き、背後から泰勝を一刀のもとに斬り捨てた。泰勝はその一太刀を浴びて首が胴体から離れ、自分が死んだことすら分からずに絶命した。
「…ようやく、父の恨みを晴らす時が来たか…」
宣光は目の前の光景を見ながらも、冷静な口調で一言ポツリと言うと、目の前に転がった泰勝の首を見つめていた。
実は、宣光の父の戸田康光は今川義元の攻撃を受けて自害しており、兄も共に戦死したために戸田家の家督を継いだ宣光は、復讐心を抑えて義元に臣従した経緯があった。
そのようないきさつがあった為に、父を殺した義元も死に、その息子の氏真の勢力も落ちようとしていたこの時に、宣光は父の仇でもある今川家への反逆を、この時すでに決心していたのである。
「重貞、こやつは単騎で来たのか?」
「いえ、軍勢の外に従者を連れて来ています。」
重貞から尋ねた答えを聞いた宣光は、泰勝の首を一たび見た後に重貞の方を向き直してこう言った。
「ならばこの首を従者に渡し、泰朝にこう伝えさせよ。「過日の恨みを果たすべく、この首をもって今川とは縁を切る」とな。」
「ははっ。」
重貞は父である宣光から指示を受け取ると、泰勝の首を無造作に掴んでその場を下がっていった。そして宣光は床几から立ち上がると、その場にいた一同にこう言った。
「皆の者!我らはこれより田原城に帰り、今川の代官を我らの土地から追い返す!行くぞ!」
「おう!」
その下知を聞いた戸田勢の足軽たちは、宣光に従って堂々と戦場から離脱していった。無論、宣光は事前に元康にこの旨を伝えていた為、戸田の軍勢は岡崎で足止めを喰らわずに、悠々と自領へと引き上げていったという…
「…おのれ宣光!先代が授けてやった恩を、無下にするとは!!」
一方、逃げかえってきた泰勝の従者より事の顛末を聞いた泰朝は、泰勝の首を目の前に地団駄を踏んだ。そして従者に下がる様に手で合図をした後、後ろの方を振り返ってその場にいた配下の足軽にこう言った。
「…もはやここまでだ。この城に火を放ち、知立の城に下がる!」
「ええっ!?この城に火を?」
その下知を聞いて足軽が驚くと、泰朝はその足軽の方を向いて迫り、顔を近づけてこう言った。
「そうだ!もはやこんな城に籠っても無駄死にするだけだ。ならばすぐにでも城に火を放ち、時を稼いでいち早く知立まで下がる!分かったのなら直ぐにでも準備をせい!」
足軽はこの泰朝の下知を聞くと、そそくさと支度を始めた。そして城の板塀や櫓、本丸館に油を撒いた上で火を放つと、城の設備は勢いよく燃え、その間に朝比奈勢は燃えていない東門から城を出て知立城へと撤退していったのである。
「…氏規、こうなってしまっては、随分と今川も呆気ないものよな。」
その燃え広がる境城の光景をみながら、北条勢の中で北条綱成が馬上から氏規に語り掛けた。
「ええ。しかし…これは単に氏真の短慮が招いたものです。誰が悪いという物ではありませんよ。」
「しかしだな…」
綱成は氏規の言葉を聞きながら、返す言葉を無くしてそのまま燃え盛る境城を再び見つめた。すると氏規は、綱成と同じように境城の風景を見ながら、一言こう言った。
「これで、今川も終わりですね。」
氏規の独白ともいうべき言葉を、綱成はふんと鼻で笑って聞いていた。この朝比奈勢の撤退によって、もはや氏真の元には戦を続けるだけの戦力も、そして勝つ見込みもすべて無くなっていたのである。