1561年5月 知立の戦い<一>
永禄四年(1561年)五月 尾張・三河国境 境川周辺
永禄四年五月十一日午前。境川周辺にて対峙する高・今川の両軍は、今川方から仕掛けられた事によって戦が始まった。鶴翼陣形で高勢を囲むように布陣していた今川勢は、数的有利と包囲している状況を活かし、大将・今川氏真の下知の元に、魚鱗陣形を敷く高勢に攻め掛かっていった。
「…殿!!今川勢が仕掛けて参りましたぞ!」
境川の東岸、絵下の辺りに本陣を構えていた高秀高の元に、馬廻の神余高政が陣幕の中に駆け込んできて今川軍の来襲を秀高に伝えた。
「そうか…向こうから仕掛けてくるとはな。布陣はどうなっている?」
秀高は視線を三浦継意の方に向けると、継意はその意をくみ取ると、指示棒を片手に机の上の絵図を示しながら、味方の布陣を報告した。
「はっ。元康殿と氏規殿、それに可成殿の計九千は、境城の朝比奈勢一万に当てており、一ツ木からくる敵に関しては、利定殿と信包殿の計六千に加え、旗本の四千が控えております。」
「…伊助の報告では、一ツ木からの敵は総勢で一万三千余り。しかも全ての敵勢がこの本陣めがけて殺到してくるという。おそらくこちらの方は苦戦するだろうな…」
秀高が絵図を見ながら苦しい表情を浮かべつつ、苦戦する見通しを立てると、それを脇で聞いていた小高信頼が秀高の懸念を払拭させるように、こう進言した。
「でも秀高、福谷方面から南下してくる氏勝殿の軍勢が加われば、数の劣勢も跳ね返せる。ここが踏ん張りどころだよ。」
「あぁ、そうだな…とにかく何としても、氏勝達が合流するまで持ち堪えなきゃな。」
秀高は信頼の進言を受けて気を取り直し、床几から立ち上がると陣幕の外に出て馬廻が引っ張ってきた馬に跨ると、軍配を振るって全軍の指揮を執り始めた。
「皆、良いか!氏勝達が来るまでの辛抱だ!敵の猛攻を耐えしのぎ、今川の本陣を攻め返してやれ!」
馬上から大声で叫ぶ、秀高の下知を聞いた旗本たちは一斉に喊声を上げ、その喊声は前線で今川勢と戦う坪内利定、織田信包の両軍にも聞こえ、この両軍は今川軍の猛攻を跳ね除けるように奮戦したのであった。
「ええい、まだ秀高の本陣を衝けんのか!!」
一方、一ツ木砦に構えられている今川本陣では、陣幕中から氏真の怒号が周りに響いていた。その中で、その怒号を聞いていた岡部正綱が氏真に対してこう進言した。
「はっ。どうやら前線の兵たちは後方の退路が無くなったことを知り、徐々に戦意を喪失しているそうにございます…」
この時、今川軍の将兵たちにはすでに、後方の岡崎城や安祥城が、裏切った松平元康の配下たちによって攻め落とされた事実が伝播されており、前線で戦う足軽たちや豪族たちの間には、既に厭戦気分が漂い始めていた。
「ええい…目の前の敵に勝てば、一気に情勢は変わるというに、足軽たちは何を気後れしておると言うのか!!」
氏真は味方の不甲斐なさに段々といらだち始め、徐々に地団駄を踏み始めた。するとその様子を見た興津清房が氏真にこう進言した。
「太守!どうか秀高本陣への一番乗り、この清房が手勢にお任せくださいませ!先代からのご恩、どうかこの機会に報いたく存じまする!」
「良くぞ申した!」
氏真は清房の申し出を聞いて喜ぶと、ドンと目の前の机をたたいた後に床几から勢いよく立ち上がると、清房に軍配を向けてこう指示した。
「ならば清房、ここにいる正綱を連れて直ぐにでも秀高の前線を切り崩してまいれ!」
「ははっ!戦果をご期待くだされ!!」
清房は氏真から下知を受けると、そのまま勇んで陣幕の外へと出ていった。すると氏真は正綱の顔を見るや、睨むように見つめてこう言った。
「正綱、分かっておるな?兄が知立城に留まっている今、戦功を立てるのはそなた以外にはおらん。敵将の一人でも討ってきて味方の士気を高めるのだ。良いな?」
「…ははっ。」
正綱は氏真の下知を渋々受け取ると、氏真に対して会釈をした後にそのまま陣幕を出ていった。こうして清房と正綱の軍勢合わせて三千は一目散に秀高本陣に向けて進軍を開始したのである。
「利定、いくら切り伏せてもきりがないぞ!!」
その秀高本陣の目の前には、坪内利定率いる二千五百が陣取り、攻め寄せてくる今川勢を前に力戦して跳ね除けていたが、その最中で利定の弟である前野長康が敵を切り伏せた後に、利定の方を振り向いてこう言った。
「兄上、怯むな!ここを通しては殿に戦禍が及ぶ!我らが何としても食い止めねばならんのだ!!」
利定が馬上から敵の足軽に向けて、太刀を振るいながら長康に対しこう言っていると、その二人の目の前に、今川本陣から駆けてきた清房が現れた。
「おう、貴様ら高家の侍大将か!!」
「何奴!ここから先は通さんぞ!」
利定が清房の呼び掛けに応じ、清房に向けて太刀の切っ先を向けると、清房は獲物の槍を構えて自身の名を名乗った。
「我こそは今川家重臣、興津清房なり!雑兵ども、さっさと道を開けるが良い!!」
「ほざけ!!」
その清房の挑発に乗った利定は、馬を駆けて清房に近づくと、頭上から勢いよく太刀を振り下ろした。すると清房はそれを槍の柄で受け止めると、その攻撃を跳ね除けてすぐに槍を利定に向けて突き出した。
「ぐっ!」
利定はその突きを右太ももに受けて苦悶の表情を浮かべたが、利定はその苦痛に耐えながら清房の槍を柄から真っ二つに断つと、そのまま太刀を清房の脇腹に太刀を突き刺した。
「ぐあっ!た、太守…」
清房はそううわごとを言う様にかすかな声でそう言った後、脇腹から利定の太刀が抜かれたと同時に馬上から転げ落ち、そのまま絶命してしまった。その後に利定を援護するように駆け寄ってきた長康によって、清房は首を取られてしまった。
「利定、傷は大丈夫か!?」
「くっ、大事ない…。」
首を取った長康が利定の傷の具合を尋ねた直後、その二人の目の前に清房の後を追いかけてきた正綱が、長康の腰に括り付けられている清房の首を見るや、腰から刀を抜いてこう言い放った。
「貴様ら…清房殿を殺ったのか!!」
「ぐっ、まだ来るか!!」
利定が傷の苦痛に耐えながら、呼びかけてきた正綱に向けて太刀を構えなおすと、正綱は手綱を握り締めてこう叫んだ。
「貴様の首、この岡部正綱が貰い受ける!」
「何、岡部だと…?」
と、正綱の姓名を聞いた利定は長康より前に出ると、正綱をからかうようにこう言った。
「貴様もしや、あの岡部元信の縁者か!元信はどうした!!」
「はっ!貴様如き、兄の手を煩わせるまでもないわ!!」
「猪口才な!!貴様の首、取ってくれる!」
利定は正綱の言葉を聞いていきり立ち、馬を駆けて一気に政綱の元へ駆け寄り、正綱へ一太刀を浴びせようとしたが、正綱は一瞬の判断でその攻撃を避けると、直ぐに自身の刀を利定の首筋に当て、次の瞬間には利定の首は胴体から離れていた。
「と、利定!!」
その光景を見た長康がこう叫ぶと、利定の首は地面に落ち、その場には首の無い利定を乗せた馬がぽつんとその場に残り、片や正綱は刀についた血を拭う様に一振りで払うと、後ろに付いて来ていた自身の足軽たちに向けてこう言った。
「聞け!敵の備えの大将は討ち取った!このまま一気に秀高の本陣を衝くぞ!!」
「お、おぉーっ!!!」
この正綱の武勇を目の当たりにした今川の足軽たちは、一気に士気を奮い立たせ、その場に残っていた利定の残兵を掃討し始めた。一方、弟である利定を目の前で失い、茫然としていた長康は気を取り直すと、そのまま生き残った兵たちを連れて後方の陣城へと退却していった。
「と、殿!前面の坪内勢総崩れ!坪内利定殿討死!!」
その報告は、馬に乗っていた秀高に駆け寄ってきた山内高豊が血相を変えてきて知らされた。その報告を聞いた秀高は驚き、周りにいた諸将にも驚きが満ちていた。
「何…利定が!?」
「はっ…坪内勢の敗残兵は前野殿がまとめ、既に陣城へ後退していったとの事…。」
高豊が馬上から秀高に向けてこう言うと、秀高は前から迫ってくる今川勢の方向を見つめると、その姿を見て後方にいた大高義秀が秀高にこう呼びかけた。
「秀高!ボーっとしている場合じゃねぇ!!旗本たちに臨戦態勢を取らせるんだ!」
「…分かっている。」
義秀の呼び掛けに秀高が静かな声でそう言うと、秀高は馬首を返し、後方にいた諸将に向けてこう言った。
「良いか、坪内勢が潰走した今、意気盛んな敵はすぐにこちらに来る!信包勢と力を合わせ、これ以上今川勢を調子づかせるな!!」
「おぉーっ!!」
その言葉を聞いた秀高配下の諸将や旗本たちは、再び喊声を上げると槍を構え、攻め掛かってきた岡部勢のほか、今川勢を迎え撃つ準備を始めた。この時すでに秀高の目の前、僅か十五町先まで今川の先鋒が迫ってきていたのである。