1556年8月 稲生原の戦い<一>
弘治二年(1556年)八月 尾張国稲生原
尾張国稲生原…
この地は尾張の国の中部に位置し、北に流れる庄内川を隔てて北部が織田信長領、南部が織田信勝領として分かれていた。
また、この地の南西にある那古野城からは二刻で着く地で、清洲城からもほど近いこともあって、要衝の地として知られていた。
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この稲生原の地に早く着いたのは信勝軍で、信勝軍は川の南岸に本陣を構えると、那古野城から来た林通具率いる六百を合わせた約三千の軍勢で、北岸から来る信長軍を待ち構えていた。
「信勝殿、お初にお目にかかる。岩倉織田家家老・山内盛豊にござる。以後、お見知りおきを。」
信勝軍の本陣の陣幕内にて、岩倉織田家から援軍に来た武将、山内盛豊が床几に座り、同じく床几に座る信勝と対面していた。
「盛豊殿、援軍かたじけない。盛豊殿の軍勢は犬山勢と共に、左翼に陣取ってもらいたい。」
「ははっ、お任せを。」
盛豊はその指示を受けると、一礼して床几から立ち、その場を去って自身の軍勢へと戻っていった。すると、その陣幕に控えていた早馬に、信勝は指示を出した。
「良いか、右翼の勝家隊に伝えよ。右翼は左翼の突破を見たあと、敵勢を破って信長本陣に攻め込むようにいたせ!」
「ははっ!」
早馬の使者はその指示を聞くと、すぐに柴田勝家の部隊へと馬を走らせていった。すると信勝は、林秀貞・通具兄弟にこう言った。
「秀貞、それに通具。そなたらは本陣の前にて陣頭指揮を執り、敵前衛を相手に奮戦せよ。此度の戦、我が勢は包囲殲滅を図る。そのためにも我が前衛の奮戦が要だ。よろしく頼むぞ。」
「ははっ!お任せを!参るぞ通具!」
「おう!我が武働き、とくとご覧あれ!」
秀貞兄弟はそう言うと陣幕を出ていき、本陣の前に控える前衛の部隊と合流すると、先陣として信長軍の来訪に備えた。
「秀高、もうすぐ戦が始まる。そなたらは戦況次第で、劣勢の方へと加勢させる。それまでは、この本陣で待機するが良い。」
「はい。分かりました。」
信勝の指示を受け入れた高秀高は、その言葉に応えて戦の成り行きを見守った。それから数刻後、信長軍の軍勢が現れたのである。
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「あれが信勝の軍勢か。」
稲生原へと到着した信長は、馬上から前面に広がる信勝軍を見た。この時、信長軍の数は僅か千五百余り。この時点では数に劣っていた信長軍は不利であった。すると、その信長の心の動揺を読み取ったのか、同じく馬上から織田信隆が信長に声をかけた。
「信長、案じることはありません。私たち勝幡勢は敵右翼の勝家隊に当たり、勝家の猛攻を阻止して見せましょう。」
「姉上…分かりました。こちらから佐々兄弟と河尻秀隆をお連れくだされ。」
信隆は信長からの提案を受けると、信隆はそれに対して頷き、自身の手勢に佐々政次・孫介兄弟と河尻秀隆を加え、勝家隊の前面へと兵を進めていった。
「信盛、そなたは敵左翼じゃ。盛重に飯尾定宗・尚清父子、それに玄番様を加え、岩倉・犬山勢の猛攻を食い止めよ。」
「ははっ、お任せを!」
信長からの指示を受けた佐久間信盛は、信勝から離反してきた佐久間盛重に飯尾定宗・尚清父子、そして玄番と呼ばれている信長の大叔父・織田秀敏を引き連れ、岩倉・犬山勢へと向かって行ったのである。
「長秀、我が勢はこのまま待機し、気を見計らって中央突破を図る。母衣衆の頼隆や利家にそう伝えよ!」
「ははっ、お任せを。」
信長の指示を受けた丹羽長秀は、それを受けると信長の親衛隊でもある旗本の黒母衣衆・赤母衣衆に信長の指示を伝えた。この部隊こそ、前田利家や蜂屋頼隆、金森可近など織田家の飛躍を支える武将たちを擁する精鋭部隊であったのである。
「殿…この戦、勝てましょうか?」
ふと、馬上から池田恒興が信長に尋ねた。
「…勝てる。いや、勝たねばならぬ。そのためには、お主らの決死の覚悟が必要だ。」
「ははっ、お任せを。この恒興や母衣衆にお任せくだされ。」
信長の言葉を受けた恒興は、自ら意気を示して信長に応えた。
「…信勝よ、参るぞ。」
信長は静かにこうつぶやくと、法螺貝を持つ武士に合図を送った。そして法螺貝が戦場に鳴り響き、ここに火蓋が切って落とされたのである。
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合戦が始まって序盤は、大方の予想通り信長方が守勢に徹していた。一方、数に勝る信勝方は右翼・左翼にて一気に前線を押し上げ、信長の本隊へと迫っていたのである。
「申し上げます!柴田勝家様の家臣、毛受勝昌殿、敵将・佐々政次を討ち取りました!」
信勝の陣幕には、続々と味方の優勢を伝える早馬が来ていた。敵将討ち取りの方を聞いた信勝は手を叩き、その戦功を褒め称えた。
「そうか、勝家によくやったと伝えよ!」
「ははっ!!」
その早馬が陣幕を去っていくと、それと入れ替わる様にまた新たな早馬がやってきた。
「申し上げます!佐久間盛次様、佐々孫介を討ち取ったとの事!」
「そうか!よし、今の所は優勢であるな…祝着である!」
信勝はそう言って早馬を労い、早馬はその言葉を受けて去っていった。これらが意味するのは、すべて右翼である勝家隊の奮戦による優勢を示すものであった。
「…すげぇな。もうそんなに敵を討ち取ってるのか…」
そう漏らしたのは、陣幕に待機している義秀であった。
「…さすがは「鬼柴田」と言われるだけはあるね。」
信頼が義秀にそう言うと、信勝はその二人の方を見てこう言った。
「はっはっは、勝家は父の頃より戦の要であった。その勝家がこちらの味方であれば、いくら兄上とて苦戦するであろな。」
信勝が上機嫌で感想を述べた後、その次に入ってきた早馬は、それまでと違った報告を信勝にした。
「も、申し上げます!我が左翼、苦戦!」
「なんだと!?岩倉勢が押されておるのか!?」
信勝は、その報告に驚いた。左翼である岩倉・犬山勢の苦戦は、優勢である戦況をひっくり返しかねなかったのである。
「はっ、敵は佐久間信盛・盛重勢にて、既に犬山勢大将・中島豊後守様は…討死なされました!」
その報告を述べた後、早馬はその陣幕から去っていった。報告を受けた信勝はしばらく茫然としていたが、気を取り直し、秀高らの方を見てこう言った。
「そなたら…すまぬが、左翼の援護に回ってくれぬか?戦には出したくはなかったが…致し方ない。」
「心配しないでください。」
信勝の言葉を受けた秀高は信勝の手を取り、これまでの恩を込めてこう言った。
「これまで匿ってくれた信勝様の恩義に報いるため、我ら一同、信勝様のために戦ってきます!」
秀高の言葉を受けて義秀や信頼、そして三姉妹で唯一戦場に来ている華も決意した表情をして信勝を見つめていた。
「そうか…では、頼むぞ。秀高!」
「ははっ!」
秀高は信勝の言葉を受けると、義秀たちと共に陣幕を出て、左翼の救援へと向かって行った。
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「良い秀高?あくまで今回は味方である岩倉・犬山勢の救援。まずは盛豊殿と合流し、戦況の立て直しを図ろう。」
信頼がその道中で作戦を提示してくると、秀高はそれを受け入れた。
「あぁ。それが最善だろうな…俺と信頼の得物は、前で戦うのに向いていないからな。」
秀高が自身の得物である弓を持ちながらそう言うと、義秀が槍を掲げて秀高にこう言った。
「じゃあ、前での戦いは俺に任せてもらっていいんだな?」
「ちょっとヨシくん?あなた一人で暴れるつもりかしら?」
義秀が言い放った言葉に、隣でその言葉を聞いていた華は釘を刺すように言った。
「…全く、ヨシくんを一人にしたら危ないわねぇ…まぁ良いわ。ヒデくん、ヨシくんの付き添いは私がするわ。」
「しかし、いくら華さんでも今回は…」
そう言って秀高が華を制止しようとすると、華は右手を出して秀高が言おうとしていた言葉を止めさせた。
「これでも、薙刀部では全国大会に行ったことがあるのよ?それに、向こう見ずに戦うヨシくんのお守には、ふさわしいと思うわ。」
華こと有華は元の世界にいたころ、薙刀部の部長として在籍しており、その腕前は全国の中でもトップクラスであった。全国大会では連覇を成し遂げるなど、腕前を知っていた秀高にとっては、一つの安心材料となっていたのである。
「…分かりました。でも二人とも、くれぐれも無理はしないように。」
秀高は二人に念を押すようにそう言った。すると義秀らはその言葉を受けて意気を示した。
「へっ、華さんと一緒なら、負ける気はしねぇぜ!」
「ふふっ、ヨシくんも、随分意気込んじゃって…まぁ、私たちに任せなさい。」
その言葉を受けた信頼は、秀高と向き合って頷き、二人にこう言った。
「義秀、それに華さん。僕たちは後方から支援して戦います。くれぐれも、無理だけはしないようにお願いします。」
「えぇ。分かったわ。」
華はそう言うと薙刀の鞘を外し、戦う姿勢を整えて秀高の後を付いて行ったのだった。