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1561年5月 陣城内にて



永禄四年(1561年)五月 尾張国(おわりのくに)陣城内・旧沓掛城(くつかけじょう)跡地




「…見事な手際だな…」


「うん。さすがは元康(もとやす)さんだね。」


 街道を防ぐ様に構築された陣城へと攻め掛かってきた、松平元康(まつだいらもとやす)率いる七千の軍勢が、大胆不敵にも陣城の中へと入城した直後。その長城ともよべる陣城の一部として組み込まれている、旧沓掛城内に置かれた物見櫓の頂上から、その光景を見つめていた高秀高(こうのひでたか)小高信頼(しょうこうのぶより)は互いにこう言いあった。


「…しかし、こんな状況を目の前で見せられた敵はきっと、度肝を抜かされているに違いないな。」


「うん。つくづくこの作戦を考えた元康さんには、驚かされるばかりだよ。」


 信頼がそう言いながら、右手に持っていた書状を見ながらこう言った。その書状というのは、昨夜のうちに服部半三(はっとりはんぞう)が陣城へと打ち込んだ矢文そのものであった。




 元康が秀高に事前に伝えた作戦。それは元康の後方に控える朝比奈泰朝(あさひなやすとも)率いる今川軍先鋒が見ている前で、堂々と陣城の中へと入城する旨を伝えてきた物であった。


 そしてそれと同時にその矢文には、城内に入る軍勢の目安となる家紋や旗印も記載されており、秀高らはそれらの軍勢には矢一本も放たずに迎え入れたのである。




「…だが、味方の目の前で軍勢が離反するなんて普通じゃあありえねぇぜ?これは敵の計略か…それとも氏真(うじざね)が心底嫌われているかのどっちかだな。」


 と、その物見櫓の床に座り、胡坐(あぐら)をかきながら頬杖をついていた大高義秀(だいこうよしひで)が秀高らにムスッとした表情でそう言うと、秀高は後ろにいる義秀の方を振り向いてこう言った。


「…もしこれが元康殿の計略ならば、そもそも合図の鉄砲など撃たず、最初から実弾を込めて撃ってきていただろう。その後開いた門内になだれ込み、俺たちを討ち取りにかかるだろうな。」


 秀高は義秀にこう言うと、再び物見櫓から見える外の風景を見つめながら、言葉を続けた。


「…だが俺にはわかる。元康殿は決して、今川家には世話にはなったが、恩を抱くまでには至っていない。それは元康殿の、ひいては辛酸を舐め続けていた松平家中の総意だからだ。その想いを抱いているからこそ、危険を承知で戦の前に俺たちに接触してきたんだ。」


「…まぁいいさ。だがこれではっきりしたのは、氏真はこれで初っ端(しょっぱな)から出鼻を挫かれたってことだけだな。」


 義秀が立ち上がって背伸びをしながら言った言葉を聞いた秀高は、義秀の方を振り返って静かに頷いた。と、そこに物見櫓の梯子を上ってきた滝川一益(たきがわかずます)が秀高に報告に来た。


「殿、松平元康殿以下、今川から離反した面々がお目通りを願っております。」


「そうか、分かった。直ぐに行く。」


 秀高の言葉を聞いた一益は先に梯子を下り、続いて秀高たちも順に梯子を下って物見櫓から下りると、そのまま城跡の本丸付近に置かれた掘っ立て小屋形式の本陣の中に入った。




「お待たせしました元康殿。よく来てくれました。」


「これは秀高殿。この元康、今川の元よりやって参りましたぞ。」


 掘っ立て小屋の中に入ってきた秀高を見て、会釈をしながら挨拶した元康を見るや、秀高はそのまま上座の床几(しょうぎ)に座り、その両脇に義秀と信頼が座った。


「秀高殿、こちらが我らと共に行動を起こすことを決意された、北条氏規(ほうじょううじのり)殿以下、北条家の残党の方々にござる。」


「お初にお目にかかります。北条氏康(ほうじょううじやす)が一子、北条氏規にございます。」


 氏規は家康の紹介を受け、秀高に対して頭を下げて会釈をすると、それを受けた秀高は氏規の姿を見てこう言った。


「そうか…貴方が北条氏規殿か…」


「はっ。父をはじめ、兄弟たちの最期に立ち会うことも出来ず、こうしておめおめと生き延びて参りました。」


 氏規が秀高から視線をそらしながら、悔しさを滲ませつつそう言うと、秀高はそんな氏規に対して(なぐさ)めるように声をかけた。


「そんなことはないですよ。こうして今、氏規殿が生きているという事は、他の北条家の方々にとって支えになっているはずです。決して恥ずかしい事じゃありません。」


「…そのお言葉、(かたじけな)く思いまする。」


 氏規は秀高からその言葉を受け取ると、深々と頭を下げた。するとその氏規の後ろの床几に座っていた北条綱成(ほうじょうつなしげ)が、秀高に対してこう言った。


「秀高殿!(おそ)れながら我ら北条の面々、そのような慰めのお言葉だけを貰うつもりで参ったのではござらん!我ら一同、憎き氏真の首を上げるがために参ったのでござる!!」


(しか)り!我らが今一番になすべきことは、今眼前に控える今川の軍勢をどのようになすべきかという事かにござる!」


「…綱成殿、綱高(つなたか)殿。お控えあれ!」


 氏規の後方から声を上げた綱成と北条綱高(ほうじょうつなたか)に対し、氏規が後ろを振り返って二人を制止すると、直ぐに秀高の方を振り向いた。すると、その言葉を聞いていた秀高は、二人の意見を聞くと首を縦に振って頷き、得心し氏規にこう言った。


「…いや、氏規殿。お二方の言う通りだ。今は今川軍三万をどのように撃退するかが最優先。感情的な事は後にしましょう。さぁ、お二方も軍議に加わってください。」


「ははっ。」


 その言葉を受けて元康は返事をすると、氏規らと共に両脇に別れると、その中間に足軽たちが盾で机を拵え、その上に戦場一帯の絵図を広げると、その後に軍議が始まったのである。


「…よし、信頼、まず敵の布陣はどうなっている?」


「うん、斥候や伊助(いすけ)たち忍び衆の報告によると…」


 秀高から問われた信頼は床几から立ち上がると、指示棒を片手に持ってそれを絵図に当てながら今川軍の陣容を解説し始めた。


「まず、この陣城の前面、境川(さかいがわ)西岸には朝比奈泰朝(あさひなやすとも)鵜殿氏長(うどのうじなが)戸田宣光(とだのぶみつ)ら総勢一万余りが布陣している。だけど…」


「ん?そいつらがどうかしたのか?」


 と、その信頼の一言に引っ掛かった義秀が信頼に問うと、信頼は義秀の顔を見てその言葉の続きを言った。


「伊助の報告によると、この軍勢は渡ってきた川を戻り、知立(ちりゅう)方面に撤退する動きがあるみたいなんだ。とすると、敵は境川の東岸、つまり川の向こうに下がるみたいだね。」


「…まぁ、無理もあるまい。元康殿の動きを見せつけられては、敵も思う様に戦うことは出来ぬであろう。」


 と、その言葉を聞いていた森可成(もりよしなり)が信頼にそう言うと、その隣の三浦継意(みうらつぐおき)が信頼の顔を見てこう言った。


「信頼、では敵はこれからすべて、川向こうに下がるという訳か?」


「はい。既に敵は川向こうの一ツ木(ひとつぎ)に砦を築き、更に水野忠重(みずのただしげ)配下の豪族の城であった境城(さかいじょう)を接収し、この二つの拠点を前面に据えて僕たちを待ち受ける構えかと思います。」


 信頼は絵図を指示棒で示しながら説明すると、今度は別の場所を示して言葉を続ける。


「また、水野忠重は刈谷城に留まり、配下の高木清秀(たかぎきよひで)が川を渡河し、対岸の村木(むらき)まで進出し砦を構築。それと松平親乗(まつだいらちかのり)真乗(さねのり)親子が福谷城(うきがいじょう)まで進み、岩崎(いわさき)方面に進出する動きがあるよ。」


「…秀高殿、ご心配には及びませぬ。」


 と、その信頼の説明が終わったあと、その説明を聞いていた元康が、秀高に向かってこう進言した。


「福谷方面に進出した松平父子は同族であるとともに、我らの誘いに乗った同志にございます。合図を出せば、直ぐにでも秀高殿にお味方する手はずとなっております。」


「…さすがは元康殿だ。」


 秀高は元康の顔を見ながら感嘆してこう言うと、すぐさま信頼から指示棒を受け取ると、そのまま諸将に向けてこう言った。


「皆、良いか。この陣城は外見こそ立派だが防衛の面では不安要素が残る。よってこの陣城で迎え撃つことはやめ、このまま城外に出て野戦を挑む。では、これより皆に作戦を指示する。」


 秀高はそう言うと、指示棒を絵図に示しながら、居並ぶ諸将に向けて指示を飛ばし始めた。


「まず氏勝(うじかつ)は元康殿の家来を連れて福谷方面に向かい、松平親子を味方に加えた後は南下して知立に向かってくれ。」


「ははっ。承知いたしました。」


 その指示を受けた丹羽氏勝(にわうじかつ)が頭を下げて承諾すると、それを見た秀高は、今度は佐治為景(さじためかげ)安西高景(あんざいたかかげ)の方を見てこう言った。


「為景、高景。お前たちは各々の兵を連れて村木に向かえ。そこで久松(ひさまつ)勢と合流した後は、尾張水軍と共に刈谷城を包囲し、忠重の動きを封じてくれ。」


「ははっ。しかと、承りました。」


「そのお役目、我らにお任せくだされ。」


 為景と高景の指示を聞くと、秀高はそれに頷いた上で、残る諸将に向けてこう言った。


「この陣城には信頼と利久(としひさ)の部隊を置き、それ以外は全軍で城外に出て布陣する。その後は追って指示を下すので、各将はそれに従う様に。」


「ははっ!!」


 と、秀高の言葉を聞いて諸将たちが勢い良く返事をしたその時、その場に伊助が疾風のように現れると、その場に服部半三(はっとりはんぞう)を伴って現れた。


「殿!ただ今この半三殿より、驚くべき報せがありました!」


「何…驚くべき報せ?」


「…おぉ、半三。首尾よく行ったのか!」


 と、報告を聞いて(いぶか)しむ秀高の横目で、元康が喜んで半三に声をかけると、半三は元康の言葉に対して頷くと、懐から一つの密書を取り出してそれを秀高に献上した。


「秀高殿、これをご覧くだされ。」


 秀高は半三からその言葉を受け取ると、そのまま密書を手で取り、そのまま封を解いて中身を見た。すると、その密書の中に書かれていた内容を見た秀高は、思わずこう言った。


「…元康殿、これは本当なので…?」


「はっ。これで氏真は退路を断たれましたぞ。」


 元康が秀高に意味ありげにそう言うと、秀高はその内容の衝撃に未だ信じられない気持ちでいた。その内容という物こそ、まさにこの戦況を一変させるものだったのである…





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