1561年3月 三河からの接触
永禄四年(1561年)三月 尾張・三河国境地帯
小牧山にて、三河からの密書を貰い受けた数日後、高秀高は小高信頼や大高義秀と共に、伊助率いる稲生衆に護られながら、旧岩崎城周辺にある三河との国境地帯に来ていた。この場所が、密書を送ってきた人物との邂逅地点であったのである。
「…高家当主、高秀高殿にございまするか?」
三河との国境地点にある林の辺りに近づいた時、木陰から目の前に現れた人物が秀高に話しかけた。その言葉を受けた秀高は、ただ黙ってその問いに、首を縦に振って頷いて答えた。
「某、松平元康の家臣、服部半三保長と申す。主はこの中にてお待ちでござる。」
秀高に密書を送って接触を図ってきた人物・元康の家来である保長が林の中を差しながら秀高にこう言うと、秀高は黙って頷いて信頼らを連れて中へと入っていった。その木陰の中を秀高たちは進んでいくと、やがてその林の中で床几に座る人物を見つけた。その人物の姿を、秀高は覚えていた。その人物こそ、松平元康その人であった。
「…これは秀高殿、こうして会うのは寺部城攻め以来ですかな?」
「はい…お久しぶりです。元康殿。」
秀高と元康は互いに言葉を交わすと、元康の家臣の石川数正が秀高たちの為の床几を用意し、秀高は数正に向けて会釈をすると、そのまま床几に向けて腰を下ろし、信頼や義秀も、それぞれ床几に腰を下ろした。
「それにしても、まさかこうしてお会いできるとは、思いもよりませんでした。」
「私もです。しかし…元康殿はこうして私と会っていていいのですか?」
秀高は元康に向けてこう言うと、周囲を見回しながらこう言った。
「元康殿の主君、氏真殿にとって私は父の仇。その敵と会っていることが知られれば、元康殿の身の上が危ないのでは?」
秀高が元康を見つめながらこう言うと、元康はそれを聞いて高らかに笑いながらこう言った。
「はっはっは。何を言われるか。秀高殿もこの某によって、命を落とすかもしれないのにこうしてここに来られた。それはこの某に信用を置いているからではありませんかな?」
元康が秀高を見つめながらこう言うと、秀高はふっと微笑んだ後に元康の顔を見ながらこう言った。
「ならば、お互い命を落とす危険は無い、という事ですね。」
「如何にも。」
秀高の言葉に元康は手短に応えると、元康の側に付いていた本多重次が元康の視線を受け、元康の代わりに本題を切り出した。
「…早速ながら、今日お越し頂いたのは、密書に書かれていた通りにござる。我ら松平家一同、今川家より独立すると同時に秀高殿と同盟を結びたく思う。」
「…元康殿、その用件は密書の通りですけど、既に氏真殿の尾張侵攻は目前に控えているのに、その前に三河で旗揚げするというのですか?」
「いえ、その辺りは少し事情が複雑にござる。」
元康は秀高の言葉を否定すると、自身たちが置かれている状況を秀高に説明し始めた。
「実は岡崎城には今も、今川の城代である山田景隆が当家の監視をしており、周辺の鵜殿氏長や水野忠重も我らの監視をしております。この最中で今川家に反旗を翻せば、我らは瞬く間に全滅するでしょう。」
「確かに…ではどうするんですか?」
秀高からどうするかを尋ねられた元康は、秀高の顔を見つめながらその解決法を語った。
「されば、太守の尾張侵攻の際に、こちらは秀高殿を攻めると見せかけてそのまま寝返り、今川家からの独立としたいのです。」
「戦場で寝返るって訳か。」
と、秀高の後ろにいた義秀が言葉を発すると、元康は義秀の方を見ながら頷いて答えた。
「如何にも。それと同時に岡崎に居残る我らの家臣を以って、岡崎城代の景隆を討ち取り、岡崎城・ならびに安祥城、そして同族が支配する深溝城で独立の狼煙を上げます。そうなれば、尾張領内に侵入した今川本隊は孤立するでしょう。」
「…なるほど、今川勢をすべて尾張の中に引き込んだ上で、元康殿が寝返って今川からの独立を果たすという訳ですか。」
今度は信頼が元康の話を聞いた上で、元康に向けてこう言うと、元康はその言葉を放った信頼の方を向き、首を縦に振って頷いて答えた。
「その通り、ですがこの合戦で今川を裏切るのは、我らだけではございません。数正。」
「ははっ。」
数正は元康から話を振られると、懐から一つの巻物を取り出し、それを秀高へと献上した。秀高がその巻物の封を解いて中を見てみると、その中に書かれていたのは、元康をはじめとする。数十名ほどの武将の名前と血判が押された連判状であった。
「そこに書かれている者達は既に我らが工作を施し、太守の尾張侵攻の際に共同で寝返って反旗を翻し、その後は某を当主として認める旨を決めた者達にございます。」
その元康の言葉を耳で聞きながら、秀高はその連判状に署名された諸将の名を見ていた。よく見ると、その中には遠江の豪族たちの名前も見受けられ、元康の工作能力の高さを知ると同時に、今川家の影響力低下を肌で感じ取ったのだった。
「よって、戦の際は我らが率先して先陣を請け負い、秀高殿の方へ攻め掛かりますゆえ、秀高殿の方はお味方の諸将に伝えおき、攻撃せずに我らを迎え入れていただきたい。」
元康が秀高に対してそう言うと、その決意の込められた連判状を見た秀高は元康の方を向きながら、即座にこう言った。
「分かりました。そこまでのお覚悟ならこちらも答えない訳にはいきません。ではこうしましょう。」
秀高はそう言うと、信頼からある物を受け取り、それを元康に差し出した。見るとそれは、今川家迎撃の際に築かれる陣城の見取り図であった。
「我らは今川軍が出陣したとの報を聞けば、すぐさま境川に分断される丘陵地帯の付け根から沓掛城跡を抜け、鎌倉街道と東海道を分断し、大府の辺りまで陣城を築く。松平勢他、寝返りを希望する諸将は鎌倉街道方面から攻め寄せていただきたい。そうすれば、鎌倉街道の門を開け、諸将を中に引き入れる。これでどうだろうか?」
「ふむ…もしそうなれば、今川本陣は知立城辺りになりましょうな…しかし、この刈谷城の水野勢はどうなさるつもりか?」
元康が陣城の絵図を見つめながらそう言うと、それに答えたのは、信頼の隣に座っていた義秀であった。
「それに付いては心配ねぇ。刈谷の水野勢は、対岸の坂部城の久松定俊勢と、大野・常滑に根を張る佐治為景配下の水軍が知多湾まで進出して刈谷城を監視するぜ。そうなりゃあ、刈谷城もうかつに動けねぇだろう。」
「なるほどな…それならば忠重の横槍も入る事はあるまい。」
元康は義秀の説明を聞いた上でそう言うと、元康は秀高の方を向きなおし、姿勢を正してこう言った。
「では秀高殿、然らばそのように動きますゆえ、当日は何卒よろしくお頼みしますぞ。」
「はい。元康殿も、くれぐれもお気をつけて。」
秀高はそう言うと立ち上がり、立ち上がった元康に近づいて互いに握手を交わした。ここに秀高は、元康と密約を交わし、来る今川軍侵攻に備えることが出来るようになったのである。
「しかし、あの元康もなかなか肝が据わってやがるな。」
その会見後、那古野城へと帰る道すがら、義秀が後方を振り返りながら、馬上から秀高にこう言った。
「まぁ、そりゃそうだろう。元康は幼いころに父を失い、今川の人質になって今まで耐えてきたんだ。あれくらいの事なら造作もないさ。」
「でもこれで、氏真の尾張侵攻は確実になったね。」
その反対で馬に乗りながら、同じように那古野城へ進む信頼が秀高にこう言うと、秀高はそれに頷いた上で信頼にある事を指示した。
「信頼、稲生衆に命じて三河と遠江の情勢を探らせ、今川の動きを逐一探らせるように指示してくれ。」
「分かった。」
信頼が秀高に対して手短にこう返事をすると、今度は義秀に対してこう指示した。
「義秀、恐らくこの様子だと今川は二ヶ月以内に出陣してくるだろう。それまでの間、各地の郡代に備蓄米を集めさせ、城主には足軽たちに動員をかけるように促してくれ。」
「分かったぜ。直ちに各城主に通達しよう。」
義秀からその勇ましい返事を聞いた秀高は頷き、そのまま那古野城へと帰還すると来るべき今川軍迎撃の準備を進めた。
そして今川軍出陣の前触れがあったのはそれから一か月半後、夏の陽気が見え始めた五月初旬の事であった…。




