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1560年11月 駿府の北条残党



永禄三年(1560年)十一月 駿河国(するがのくに)駿府(すんぷ)




「ふざけるな!!」


 今川氏真(いまがわうじざね)武田義信(たけだよしのぶ)上杉政虎(うえすぎまさとら)による第二次善得寺会盟だいにじぜんとくじかいめいの内容は、その日のうちに氏真の本拠地である駿府中に知れ渡った。その日の夜中、駿府内にある一つの武家屋敷からこのような声が上がっていた。


「あろうことか我らの仇敵でもある上杉と同盟を結ぶだと…?氏真は一体何を考えておるのか!!」


 この屋敷の中には、三人の武将たちが円を描いて座っており、その中で一人の武将が怒っていた。すると、その怒りの言葉を聞いていたもう一人の武士が宥めるように声をかけた。


「落ち着かれよ。今更怒ったところでどうにもなりますまい。」


「…そなたはどう思うのか。氏規(うじのり)!」


 と、その武士が目の前に座っているこの屋敷の主に声をかけた。




 この屋敷の主でもあるこの若武者の名は北条氏規(ほうじょううじのり)。数ヶ月前、小田原城(おだわらじょう)にて腹を切った北条氏康(ほうじょううじやす)の忘れ形見でもあった。


 彼は小田原城落城の際は駿府に逗留していて難を逃れ、氏真やその祖母の寿桂尼(じゅけいに)の庇護下で匿われていたのだ。そして目の間で怒っていたこの武士こそ、氏規の(しゅうと)でもあり、地黄八幡(じきはちまん)渾名(あだな)で畏れられる闘将・北条綱成(ほうじょうつなしげ)であった。




「綱成殿、今の我々は非力。あまり声を上げては今川家臣に睨まれましょう。」


 氏規は声を上げた綱成に自制するように宥めた。この綱成も、もとは玉縄城(たまなわじょう)の主であったが、北条家滅亡の際に息子の北条康成(ほうじょうやすしげ)に勧められ、自身の幼子を綱成に託して自らは腹を切ったのであった。その息子の無念を知っているからこそ、綱成はそれを無下にした氏真の行動に怒っていたのである。


「…だがな、この俺も綱高(つなたか)も、小田原滅亡の際に子供たちを失っている。それを知っておきながら、此度の氏真の行動を見て腹が立たぬのか!!」


 と、綱成は自分を宥めて来た武将の方を見て、氏規にこう言った。その武将の名は北条綱高(ほうじょうつなたか)。かつては綱成と共に北条五色備ほうじょうごしきぞなえの一角を務めていたが、小田原滅亡の際に彼もまた、息子や弟を戦で失っていたのである。


「…何も怒っていないという訳ではありません。」


 と、氏規は綱成にこう言うと、薄暗い部屋を照らす蝋燭(ろうそく)の灯りを見つめながら言葉を続けた。


「この私とて、氏真様の行動は目に余るものがあります。この我らを駿府に逗留しておきながら、自身の父の敵討ちの為に政虎と同盟を結ぶなど、この我らをコケにしていると言って(はばか)りないでしょう。」


「ならば…!!」


 と、綱成が怒りに任せて言葉を言おうとするのを、氏規は手で制して二人にこう言った。


「…ですが、今の我々はいわば客将。兵も国も持たぬ者達です。この我らが氏真殿に不満を持てば、我らはあっという間に討ち果たされるのが目に見えています。今はただ、悔しさをこらえる他ないのです。」


 氏規は下を俯きながらこう言うと、目の前の綱成も歯ぎしりをしてその場に音を立てて座り込んだ。綱成も自身が置かれている状況は痛いほどわかっているので、どうしようもない苛立ちを隠しきれずに、拳を握り締める事しかできなかったのである。


「ご主人様。」


 と、襖の外からこの屋敷に仕える下僕の声がした。


「ただ今門前に、来客がお越しになっておりますが?」


「何、来客だと…?」


 と綱成がそれを聞いて(いぶか)しむと、氏規は下僕に対してこう言った。


「分かった。直ぐにここに通してくれ。」


「はい。畏まりました。」


 そう言うと下僕はその場を去り、門前に来ていた来客を中に招き入れた。やがて下僕に案内された来客が襖を開かれると、その先にいた人物の姿を見て綱高が驚いた。


「あ、あなたは…!」


「お久しゅうござる。ようやく再会出来ましたな。」


 そういうとその武将は綱高に誘われ、その中に入ってきたのである。その姿を見るや、綱成も驚いて声を上げた。


「お前…元忠(もとただ)ではないか!今までどうしていたのだ?」



 多目元忠(ためもとただ)。北条家の始祖・伊勢宗瑞(いせそうずい)が関東に下向した際に従った武士である御由緒家(ごゆいしょけ)の一家・多目家(ためけ)の末裔で、五色備では黒備(くろぞなえ)を率いていた。北条家滅亡後から今まで消息が不明であったが、滅亡から数か月後にこうして姿を現したのである。



江戸城(えどじょう)の陥落後、某は足柄郡(あしがらぐん)で隠遁する松田盛秀(まつだもりひで)殿の下で密かに過ごしており、盛秀殿が大森勝頼(おおもりかつより)に討ち取られた後、遠回りをしながらこうして参った次第にござる。」


「そうか…よくぞ参ってくれた。ところで、綱景(つなかげ)はどうした?」


 と、綱成は同じく江戸城で籠城していた遠山綱景(とおやまつなかげ)の安否を尋ねた。


「風の噂では、綱景殿は江戸城を落ち延びた後、一族が昔過ごしていた美濃(みの)へと落ち延びていったそうにござる。」


「…では、江戸城は守将であった富永直勝(とみながなおかつ)の自害を以って開城と。そういう事ですな。」


 綱高が元忠にこう尋ねると、元忠はただ黙って頷いた。それを聞いていた氏規は元忠を労うように声をかけた。


「そうか。でも、そなたが生きていてくれてよかった。今後は亡くなった者達の分までも、どうかその力を貸して欲しい。」


「はっ。元より北条家に忠節を尽くすと誓ったこの身。喜んで北条家に捧げましょう。」


 元忠が氏規の言葉を聞くと、瞳に涙を浮かべながらも氏規に向かって頭を下げて会釈し、それを見ていた綱成と綱高もどこか目頭が熱くなっていたのだった。


「ご主人様、松平元康(まつだいらもとやす)殿がお越しになられておりますが?」


 と、その空気の中に先程の下僕が、松平元康の来訪を報せに来た。氏徳はその言葉を聞くや、下僕にこう言った。


「何、元康殿が…客間の方に通してくれ。」


「はっ。」


 下僕はそう言うとその場を去り、門前で待機していた元康と、それに付いて来ていた本多重次(ほんだしげつぐ)を屋敷の客間へと案内した。やがて氏規も綱成らを連れて客間に入り、ささやかな膳を用意して元康をもてなしたのである。




「…この駿府には、尾張の動向を報せに?」


 と、氏規が元康に話しかけると、元康はそれに答えて話し始めた。


「はい。太守様に尾張領内での動向を報告するように命じられておりましたので、その報告までに参った次第にございます。」


「そうか…いや、久々に元康殿に会えると思っておりましたが、元康殿は三河岡崎城(みかわおかざきじょう)の城主。やはりお役目で来られていたのですな。」


 この松平元康と北条氏規は、共に駿府で人質生活を送っており、その頃から互いに親交があった。それから互いに状況が変わったために昔ほどの親しい付き合いは出来ないでいたが、互いに手紙の往来を交わすなどの交信は続いていたのである。


「いえ、それがしも氏規殿の身を案じ、こうして参った次第にございます。」


 元康は氏規の顔を見ながらこう言うと、徐に箸を置いて氏規を見つめながらこう言った。


「…しかし、氏規殿や北条家の面々にとっては、此度の太守のなさりようは据えかねる思いがある物と拝察いたします。」


「だったらどうだと言うので?」


 と、その言葉を聞いて綱成が元康に詰め寄るように言うと、元康は綱成の方を向いてこう言う。


「寿桂尼様や太守の庇護を受けている方々にとって、仇敵でもある政虎との同盟は受け入れがたいもの。しかし方々には力がなく、内心鬱屈したものを抱えていると思いましてな。」


「…元康殿?何を考えておいでで?」


 氏規が元康の言葉を聞いた上でこう言うと、元康は夕方に氏真と面会した時に言われたことをその場の一同に伝えた。


「…氏規殿、いま太守が目指しておることは、ここにいる一同全てが知っていること。もし万が一尾張侵攻が発令されれば、あなた方北条家の面々は厄介払いとばかりに、我らと共に尾張侵攻の先鋒を命じられる事でしょう。」


 その言葉を聞いて氏規や綱成らは言葉を無くしてしまった。いくら駿府で庇護を受けているとはいえ、上杉との同盟が成った今では、政虎ら関東諸将の仇敵である北条家の血縁など目の敵にされており、氏真はこの機に尾張侵攻の矢面に立たせて、彼ら北条残党を死なせようとするに違いなかったのである。


「…その際に、あなた方は太守に命じられるがままに尾張に侵攻し、新進気鋭の高秀高(こうのひでたか)の前に命を散らすを良しとするのですか?」


「…元康殿、まさかそなたは…」


 氏規がそう言うと、元康は空気を変えるように姿勢を正すと、立ち上がって氏規にこう言った。


「いや、氏規殿。話過ぎてしまいましたな。もう夜も遅いので、某はこれにて。」


 元康はそう言って氏規に会釈をすると、重次を連れてその客間から出ていった。そしてその場に残された綱成は、元康の言葉を聞いた上で氏規にこう迫った。


「氏規、もしさっきの元康の話が全て(まこと)であれば…その時は、腹をくくらねばなるまいな。」


「…えぇ、そうですね。」


 氏規は綱成にこう言うと、目の前のお膳の盃を口に当て、それを一息に飲み干すと床を見つめながらその場で考え込んだのであった。




「殿!先ほどの発言はいかなるつもりか!」


 その一方で、氏規邸から自邸へと帰る道の途中で、馬に乗る元康に重次が話しかけた。


「如何なるとは?」


「おとぼけなさるな!!あれでは北条の方々に、今川へ反旗を翻せと言っておるようなものではないか!!」


 すると、元康は重次の言葉を聞くや高らかに笑い飛ばし、馬上から重次にこう言った。


作左(さくざ)よ、わしはそうは言ってはおらんぞ。あくまでもどうするのかと存念を尋ねたまでだ。」


「しかし…!」


 重次がなおも言おうとすると、元康は馬上から前を見据えながらポツリと小さな声でこう言った。


「もはや、今川に義理を尽くすのもあと少しであろうな…」


 元康はこう言うと、そのまま駿府内の自邸へと帰っていった。元康は氏真が結んだこの同盟が生んだ歪を直に見ることが出来、それと同時に今川家の将来を予感してその先が長くないことも感じ取っていた。


 こうして氏真がやや強引に結んだこの同盟は、東海に安定をもたらすどころか、また新たな火種を生み出し、その火種がこの先の情勢に大きな変化を与える事になるのである…。





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