1560年11月 交錯する善得寺
永禄三年(1560年)十一月 駿河国善得寺
永禄三年十一月上旬、周りの木々に紅葉が染まり始めた頃、ここ駿河東部の古刹、善得寺で一つの会見が行われようとしていた。
「…義信殿、案ずることはあるまい。」
善得寺の本堂の中、広間の中に座る人物が話しかけていた。この広間の中にいたのは、駿河国主である今川氏真であり、氏真が話しかけた人物こそ、甲斐の国主であり、武田信玄亡きあとの武田家を継いだ、武田義信であった。義信はどこか気持ちが沈んだような表情をしており、氏真から話しかけられると、氏真の方を振り向いて口を開いた。
「誠に政虎殿は武田家の家名を保ってくださるのですか?」
「うむ。政虎も甲斐源氏の名門である武田家を根絶やしにしようとは思ってはおらぬはずだ。交渉の余地は十二分にある。」
氏真が義信に話しかけると、義信は用意されていたお椀を取り、その中のお茶を飲み干すと一息つき、平静を取り戻して氏真に言葉を返した。
「…ならばよいのですが、恐らく父が取った信濃の大半の地域は諦めなければなりませんか。」
「そうであろうな…政虎の元には村上義清ら北信の豪族や、信濃守護の小笠原長時も匿われていると聞く。その者らが治めていた土地は返すのが筋であろうよ…」
「申し上げます。」
と、そこに氏真の家臣であり、この交渉の折衝を行っていた朝比奈元長が現れて氏真に報告した。
「ただ今門前に、政虎殿のご一行がご到着なさいました。」
「そうか。丁重にこちらにお連れせよ。」
氏真の指示を聞いた元長は頭を下げると、その場を去って行って、門前に控える政虎らを出迎えに向かって行った。
「…氏真殿は義信と共におられるのか?」
その善得寺の境内の渡り廊下にて、本堂へと歩きながら上杉政虎が先導する元長に話しかけた。
「はっ。既に我が殿は待たれておりまする。」
すると、その元長の話を政虎の後方で聞いていた宇佐美定満が、政虎に話しかけた。
「…殿、誠に今回の話を受け入れるので?」
「うむ。こちらも甲斐源氏を滅ぼすのは本意ではない。もし和議に応じてくれるならばこちらも申し分ない。あとは信玄が奪った領土を返還してくれればよいだけだ。」
その言葉を聞いた定満は深く頷き、納得すると政虎と別れ、付き従ってきた家臣たちと共に別室で待機するために襖の奥へと入っていった。そして政虎は単身、本堂の中に入るとその場にて着座していた氏真と義信と顔を合わせた。
「お初にお目にかかる。上杉弾正少弼政虎にござる。」
「…駿河国主・今川氏真である。こちらは武田義信殿。」
氏真から紹介された義信は黙って政虎の姿を見ると、そのまま会釈して頭を下げた。それを見た政虎は義信に会釈し返し、そのまま中に入って二人の目の前に座った。
「…まずは、はるばるこの駿河までの来訪、誠に有難く思いまする。」
開口一番、氏真が政虎に声をかけると、政虎は境内から見える富士山の遠景を見つめながら言葉を返した。
「いえ、氏真殿のお招きに応え、尚且つこうして霊峰・富士を目に納めることが出来るとは思ってもおらなかった。」
政虎はこう言うと、視線を義信の方に向けると、早速本題を切り出した。
「…それにしても義信殿、わしはそなたの父とは宿敵の間柄ではあったが、同時にどこか戦を通じて不思議な友情を抱いていた。」
「不思議な…友情ですか?」
義信が政虎の言葉を聞いた上で聞き返すと、政虎はそれに頷いて答えて言葉を続けた。
「うむ。互いにそれぞれの立場を通じ、信じる道を貫いて戦っていた者同士、ぶつかり合って分かり合う感情を抱いていた。そしてどちらかが勝った時、残された家の処遇を勝者に委ねることもどこか託していた節があったのだ。」
政虎は庭先の景色とその先の富士山を見つめながらそう言うと、義信の顔を見つめなおしてこう言った。
「そして信玄亡き今、わしは武田家をつぶさず、後世に残すことで信玄の遺志に応えようと思ったのだ。」
「政虎殿…」
義信は政虎の想いを知ると、政虎に向けて頭を下げて頼み込んだ。
「何卒、武田家の事、お頼み申し上げます。」
「うむ。義信殿、任されよ。」
政虎は義信の頼みを聞くとそれを受け入れ、改めて和議の条件を氏真を交えて話し合い始めたのである。
「…さて、信玄が奪った信濃の領地であるが、村上・小笠原ら信玄に追われた諸将に領地を返し、信玄に服属した豪族たちも領地を返還した上で存続させたいと思うておる。」
氏真は政虎からこの言葉を聞くと、やはり政虎の主眼は追われた信濃諸将の復権を題目においていると確信した。それを聞くと氏真は義信と互いに目を合わせ、代わって氏真がこう言った。
「その件は義信殿も同意しておるが、一つ懸念があります。」
「懸念とは?」
氏真は政虎からその言葉を聞くと、氏真はその懸念事項を政虎に語った。
「諏訪の支族の高遠や仁科の事にございます。かの家は一族が途絶え、信玄の子供たちが養子に入っております。もし信濃諸将の復権をするのであれば、彼らの地位の保全もどうかお願いいたします…。」
政虎はその事を聞いて少し考えこんだ。確かに信玄は高遠や仁科の外にも、信濃の豪族たちに養子を出しており、もしこれらを排除すれば、信濃の古き勢力の回復という自身の信念に反すると考えていたのである。政虎はその事を考えた後、決心して氏真に返答を伝えた。
「承知した。その者達の相続を認めさせたうえで存続を許す。だが、武田の影響力をはじく為にも、彼らには武田家との縁を切ってもらう。義信殿、それでよいか?」
「…ははっ。それならば、この私の申すことはありません。」
その返答を聞いた政虎はそれに頷いた。これによって信濃の諸豪族は独立した状態となり、信濃守護である小笠原長時が各地に目を見張らせるようになったのである。
その後、政虎と氏真、そして義信はそのほかの事項について話を進め、それを纏めると右筆に命じて代筆させ、それを書状にまとめた。その項目というのは、以下のとおりである。
一、武田家は信濃の所領を手放し、甲斐一国の所領安堵とする。
一、武田家の子供たちが継いだ信濃の諸家は、相続を認めるが親元の武田家とは縁を切り、各諸家の祭祀を守る事。
一、武田義信は鎌倉府の公方である足利藤氏を認め、その傘下大名として鎌倉府に忠節を尽くすこと。
一、今川家は鎌倉公方を認め、鎌倉公方から呼び出しがあった時はこれに応える事。
一、今川家は上杉政虎と軍事同盟を結び、武田家も上杉家と和議を結び、同時に軍事同盟も締結する。
これらの項目はすなわち、義信率いる武田家が鎌倉府の傘下に加わると共に、今川家と武田家が上杉家と同盟を結ぶことの証明であった。やがて右筆が書状を書き上げてそれを政虎に提出すると、それを見て氏真に書状を見せながら言った。
「氏真殿、この文面と内容で宜しいか?」
「はい。これで問題ありませぬ。義信殿も異存ありませんな?」
「はっ。これでよろしゅうござる…。」
三人は文面の内容を確認し合って互いにこう言うと、短刀を少し抜いてそれを親指の腹に当て、それをそれぞれの宛名の下に血判として押し当てた。こうして結ばれた協定は、後の世で「第二次善得寺会盟」とも呼ばれ、それと同時に上杉・武田・今川三国による東海・関東地方の覇権が固まったことを表す物でもあったのである。
「殿、如何でしたか?」
その会談が終わった後、一足早く本堂を後にした政虎は、控室から出てきた定満に声をかけられた。政虎は定満の姿を見るとこう話し始めた。
「…うむ。概ねこちらの要求通りになった。これでしばらくは東海・関東で戦乱は起きるまい。」
「…しかし、今回の会談は氏真から働きかけてきた物と聞きまする。氏真が強引にでも当家と結ぶ目的とは…」
「決まっておろう。」
定満と玄関に向けて渡り廊下を歩いていた政虎は、一言そう言うと立ち止まって定満の方を向いた。
「…奴の狙いは尾張の成り上がりよ。」
「高秀高を討つと…?」
定満が咄嗟にこう返すと、政虎はそれに頷いて振り返り、渡り廊下から外の風景を見つめながらこう言った。
「今、奴の主眼は父の仇でもある秀高討伐。その前に当家と事を構えるのは望んではおるまい。それに相手が結びたがっているのであれば、喜んで結んでやるのが道理という物だ。」
政虎はそう言うと、再び歩を進めながらこう言った。
「今後我らが目指すは、鎌倉府の威光に従わぬ奥州諸将の鎮撫だ。早くても十年ほどはかかるこの大業の間、成り上がりには構っておられんからな。氏真の敵対心に任せておこうではないか。」
「ははっ…」
政虎の言葉を聞いた定満は、ただそれに返事する事しかできなかった。既に政虎は次なる大志を抱いて前を見据えており、その序曲でもあるこの盟約の欠点など、一切見えていなかったのである。
それを知っていた定満だからこそ、どうにかして政虎に進言しようと思っていたが、政虎の願望は止められないことを知っていた定満は、ただ黙ってそれに従うほかなかったのである。その政虎は意気揚々と善得寺を後にし、一目散に越後へと帰還していったのであった。
一方、本堂に残っていた氏真は、同じく残っていた義信に語り掛けていた。
「義信殿、これで甲斐武田家の存続は為りましたな。」
「はっ。未だ信じられぬ気持ちでいっぱいにござる…。」
義信はその盟約の書状の写しを手にしながら、未だ信じられぬ気持ちでその書状を見つめていた。それと反対に氏真はこの盟約に満足しながらこう言った。
「まぁ、義信殿は甲斐の存続が為せ、こちらは豪族たちの不満を抑えることが出来る。これでいよいよ、念願の尾張侵攻が出来るという物だ。」
「氏真殿…まさか…」
義信はその言葉を聞いて驚き、氏真の顔を見ると、氏真はどこか狂気じみた笑みを浮かべ、その盟約の写しを見つめながらほくそ笑んでいた。それをみて義信は戦慄を覚え、氏真の本心がどこか透けて見えたような気持がしたのである。
氏真にはもはや、父である今川義元を討った高秀高への復讐の念しかなく、その為にはいかなる相手とも同盟を結び、復讐戦への障害を無くそうとしていたのだ。
だがこれこそが、定満が危惧していた盟約の欠点でもある。この復讐戦に血眼になっている氏真の足元で、そのくすぶりが徐々に表れ始めようとしていたのである。




