1560年9月 獅子と虎が消えて
永禄三年(1560年)九月 尾張国那古野城
「武田信玄が…死んだ?」
甲斐の虎、川中島にて散る。この報せは、瞬く間に諸国を駆け巡った。ここ、尾張那古野城にその一報が届いたのは、川中島の戦いから三日後の十三日の事であった。
「うん。伊助の報告によれば、武田勢は川中島で上杉勢に負け、ほとんどの将兵が討たれたそうだよ。」
と、高秀高の書斎において報告していたのは、検地の作業を一旦切り上げて報告に来ていた小高信頼であった。その報告は秀高にとっても、また信頼にとっても予想外の出来事であった。
「ちょっと待て信頼、武田勢は川中島で啄木鳥戦法を敷いていたんだろう?後続の奇襲隊が間に合ったんじゃないのか?」
秀高が信頼に向かって川中島の戦況を尋ねると、信頼はそれにばつが悪い表情をしながら、伊助より手に入れた川中島の布陣図を広げると戦況を説明しだした。
「…伊助からの報告によれば、後続の奇襲隊は足止めの甘粕景持・新発田長敦勢に完全に食い止められ、渡河地点の雨宮の渡しを渡る事すらできなかったそうだよ。」
「…嘘だろ?武田勢は二万で、上杉勢が二万二千だと?上杉勢は一万三千じゃなかったのか?」
と、信頼の説明を聞きながら、秀高は両軍の戦力比を見て驚いていた。すると、信頼に従って報告に来ていた舞が秀高にこう言った。
「それが、どうやら北条家滅亡の影響で動員兵力に余裕が出来たようで、上野方面の上杉勢も加わったようです。それで九千ほど軍勢が増えたんです。」
「そうなのか…それじゃあ別動隊の突破は無理だろうな…。」
秀高がその事を聞いて頭を抱えると、信頼が続けてその当時の戦況を語った。
「…八幡原に布陣した武田本隊八千に対して上杉勢は一万二千。鶴翼陣形の両翼の武田勢は壊滅して、開戦してから一刻余りで武田本陣は包囲され、そのまま殲滅されたそうだよ。…それで大将の武田信玄の首を取ったのは、荒川清実という武将だって。」
信頼は秀高にそう言うと、ある一枚の書状を差し出した。そこには、その川中島の戦いで討死した武田家の諸将の面々が書かれていた。
「…何だこれは、こんなに討死したって言うのか?」
秀高が驚いたその内容というのは、余りにも信じられないものであった。元の世界でも討死した武田信繫や山本勘助、諸角虎定をはじめ、親族衆の武田信廉に穴山信君、譜代衆の飯富昌景に内藤昌豊など、八幡原にいた旗本本隊がすべて討ち死にしたことを示す物であった。だがしかし…
「ん?武田義信の名前がないが?」
「…それが問題なんだよ。」
と信頼が秀高の言葉に応じて答えると、秀高から討死した面々の名前が書かれた書状を受け取り、それを懐にしまいながら言葉を続けた。
「伊助のその後の報せだと、八幡原から敗走した義信は、跡部勝資らと共に落ち延び、川中島から後退した飯富虎昌ら生き残った別動隊六千と合流し、そのまま甲斐へと敗走したらしいんだ。」
「…それで信頼さんと話を合わせてみた結果、試算ではこの一戦で、甲斐へと敗走した武田軍の敗残兵は約七千弱。残りの一万三千は上杉軍によって討ち取られたという考えです。」
その舞の試算を聞いた秀高は、徐に立ち上がると書斎の棚に組み込まれている戸棚の戸を開き、そこから一つの書物を取り出した。その書物こそ、秀高が領主時代から信頼らに命じて編纂させた、元の世界での歴史が事細かに書かれた秘伝の書であった。
「…北条家は滅び、そして武田家も信玄を失ったことで弱体化は免れない。この二つを成し遂げたのが政虎とはな。」
下座に控える信頼らに近づき、書物の中に書かれた項目を照らしながら、信頼の目の前に座った秀高は声を小さくして語りかけた。
「…そうだね、元の世界では信玄亡き後の武田家を織田信長が、北条家を豊臣秀吉が滅ぼしたけど、その流れが無くなったこの世界では、武田・北条無き東日本の覇権を全て、上杉政虎が握ったことになるよ。」
その言葉を聞いた秀高は手にしていた書物を閉じ、それを右隣りに置くと腕組みをした。
「…今気がかりなのは、武田・北条という盟友を失った今川家だ。氏真はこの状況になってどうするつもりなんだろうか…」
「殿、失礼いたします。」
と、その秀高がいる書斎の襖の外から呼び掛けてくる人物がいた。その声の主は秀高の側近である津川義冬であった。義冬の声を聴いた秀高は、顔を上げてそれに答えた。
「あぁ、義冬か。どうかしたか?」
「はっ、ただ今大高義秀様ご夫妻と三浦継意様がご登城なされ、殿に面会を願っています。」
その報告を聞いた秀高は、目の前の信頼と一瞬視線を合わせて見つめ合った後、直ぐに顔を上げて言葉を返した。
「分かった。その者達には館のはずれの離れに通してくれ。あと玲と静も出来れば離れに呼んできてくれ。」
「ははっ。かしこまりました。」
義冬は秀高の下知を聞くと、直ぐに立ち上がってその場を去っていった。そして秀高たちも、場所を変えるために立ち上がり、離れへと向かって行った。
那古野城の本丸の一角、板塀に囲まれた場所にその離れはある。本丸館とは中庭を挟んで反対側にあり、離れの周囲には数本の杉の木が植えられていた。
「…まさか、甲斐の虎が討死するとは、思いもよらぬことにございますなぁ…」
その離れの中、八畳ほどある一室の中で秀高ら八人が円を描くように座っていた。その中で秀高が座る場所の後方一面には、戸棚が用意されており、ここには鳴海城から運んできた信頼編纂の書物がすべて置かれていたのである。
「そうね。信玄が亡くなったんじゃ、残された義信では政虎の相手は難しいわね。」
と、継意の言葉に対して、秀高の隣に座る静姫が答えた。すると、その言葉を聞いて義秀が言葉を発する。
「…なぁ信頼、北条も無くなって信玄も死んじまった。氏真はどうするつもりなんだろうな?」
「…これは僕の推測だけど…」
と、秀高同様に氏真の動向が気がかりに思っていた義秀が、信頼に対して存念を聞いた。すると信頼は秀高の前で言おうとしていたことを、改めてこの場の一同に向けて話した。
「政虎がなぜ、北条と武田を敵視したのか?それを考えたことがあるかい?それは北条も武田も、彼らが追い払った在地の諸将の頼みを聞いて兵を挙げたんだよ。」
「そうねぇ。政虎は義に厚い武将と聞くわ。武田や北条に追われた者達の頼みを聞けば、見過ごすことなんてできないでしょうね。」
と、信頼の言葉に華が付け加えるように述べると、信頼はその言葉に頷きながらも話を続けた。
「でも今川はどうだろうか?政虎からすれば今川には何の敵意もなく、ましてや先代の義元の時に信玄との和議の仲介をしてくれたこともある。かえって今川に対して、政虎は何も思っていなんだ。」
「とすると…氏真が考えることは…」
秀高が信頼の言葉を聞いてこう言うと、静姫とは正反対の位置に座っていた玲が口を開いた。
「上杉家との…同盟?」
その玲の一言を聞いて一同は驚き、皆が玲の方を振り向いた。その中で継意が玲に対して反論をする。
「まさか?それはありえますまい。氏真の正室は北条氏康の愛娘。正室の立場を慮れば、上杉と同盟を結ぶなど…」
「…いや、あり得るな。」
と、継意に対して秀高がポツリとこう言うと、皆の視線を自身に集めた上で語り始めた。
「氏真にとって目下の課題は、未だ収まらない領内の混乱の回復だ。聞けば領内は折からの不作の影響で、不満に思う民衆と豪族が一揆をおこす手前だと聞く。そのような状況で妹が嫁いでいる義信からの出兵の催促を受けても、氏真は黙殺するしかできないと思う。そしてそれと同時に、政虎にとっては今川家に対して何の感情も抱いていないとなると、氏真は刃を交える前に上杉との同盟を模索するだろうな。」
「でも、氏真の元には寿桂尼によって氏康の五男の北条氏規がいますよ?北条家の縁者を養っておいて今川と同盟などと…」
と、秀高に対して舞がそう言うと、秀高は舞の方を向いて言葉を続けた。
「いや、氏真は周囲の状況よりも目下の問題を優先するはず。たとえ氏規や寿桂尼が何と言おうと、領内の混乱を収めたい氏真は押し切るはずだ。」
「なら、今川と上杉の間者の往来を見張る?」
と、秀高に対して静姫が提案するように言うと、秀高は静姫の方を向いてそれに頷き、信頼に対してこう言った。
「信頼、もし今川と上杉が同盟を結べば、囲まれた武田がどう動くか分からない。俺は伊助に今川と上杉を探らせるから、お前は出来る限り領内の検地を早く進めてほしい。状況がどう動くか分からない以上、臨機応変に動けるようにしたいんだ。」
「分かった。今から領内の水田も稲刈りを終えてくる頃だから、終わったところから検地を進めていくよ。」
信頼が秀高の考えを聞いた上でこう言うと、その中の義秀が秀高に向かってこう提案した。
「秀高、俺の方の兵制改革も、ある程度の方策は固まりつつある。あとは城割する場所の選定だけだ。近いうちに報告できると思うぜ。」
「あぁ。兵制改革も早めに終わらせて、万が一に戦になった際に備えておきたい。頼むぞ。」
秀高は義秀にそう言うと、その場に座る一同の方を振り向いてこう言った。
「皆、これから数ヶ月の間に大きな動きが起こるだろう。たとえどんなことが起ころうと、こちらは臨機応変に対応していく。皆、その時は苦労を掛けるかもしれないが、どうか一緒に頑張って欲しい。いいか?」
「ははっ!!」
と、その場の一同を代表して継意が答え、神妙に頭を下げて会釈すると、その場の一同も会釈して秀高に頭を下げた。こうして秀高たちは信玄亡き後に始まる、東日本での大きな動きに備えるべく、各々の職務を果たすことを決めた。そして、東日本の情勢に大きな変化があったのは、それから二ヵ月後の事である…