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1560年4月 長尾景虎の使者



永禄三年(1560年)四月 尾張国(おわりのくに)那古野城(なごやじょう)




 高秀高(こうのひでたか)が来訪者のことを報告されていた同じころ、その来訪者たちは那古野城へと続く一本の道を馬に乗って進んできていた。その者達こそ、長尾景虎(ながおかげとら)の主命を受けてはるばる尾張へと下向してきた宇佐美定満(うさみさだみつ)と、それに同行する公家の近衛前久(このえさきひさ)の両名である。


「定満殿、しかしこの尾張という国は素晴らしいのぉ。」


 その道すがら、馬に乗りながら周囲の景色を見渡していた前久が、先に進む定満に話しかけた。


「ほう?それはどういう事にて?」


 定満が後ろを振り返り、前久に言葉の意味を尋ねると、前久はその道の両脇に広がる田畑で農作業に精を出す農民の姿を見ながら、定満に話した。


「この国に入ってからというもの、農民たちは農作業に精を出し、またほとんどの場所で田植えを活発的に行っておる。今まで通ってきた駿河(するが)遠江(とおとうみ)三河(みかわ)とは比べ物にもならぬ風景じゃ。」


 前久の言葉を聞きながら実際にその風景を目にしていた定満は、その言葉にうなずいて前久にこう言った。


「如何にも。しかも農作業のみならず、新たな試みとして植林や特産品の開発を行っている様にて、なかなかこんな風に民衆が生き生きとして農作業に従事できるのはそう簡単にできる事ではありませんな。」


「…もしかすれば、その新たな尾張の国主・秀高という御仁は英邁の誉れ高い名君であるやもな。」


 定満に向かって自身の思いを吐露した、前久のこの言葉を聞いて定満はそれに深く首を縦に振って頷いた。定満にしてみても、農民たちが活気あふれる表情を見せながら田植えや農作業に勤しむ光景を見て、秀高という御仁はどれほど民衆から慕われておるのだろうかと思案していた。


 それぞれが尾張に入ってからの光景に驚きながら、その馬の脚は那古野城へと続き、それから数刻後、太陽が高く上がった正午過ぎに那古野城へと到着したのであった。




「面を上げられよ。」


 那古野城の主・高秀高の声が本丸館内の評定の間の中に鳴り響く。その声を受けて、来訪してきた定満らはゆっくりと頭を上げて互いに顔を見合わせた。その場には三浦継意(みうらつぐおき)のほか、小高信頼(しょうこうのぶより)に報せを受けて登城してきた大高義秀(だいこうよしひで)の姿もあった。


「秀高様、お初にお目にかかります。長尾景虎が家臣、宇佐美定満と申しまする。こちらは関東征伐の折、景虎殿と共に行動してくださった公家の近衛前久殿にござる。」


「近衛前久じゃ。秀高殿、何卒良しなに。」


 定満の紹介を受けて、秀高はそれに頷いて応えた。秀高は二人の素性を(あらかじ)め信頼から聞いており、特に五摂家(ごせっけ)の筆頭格である近衛家の当主・近衛前久とこうして顔を合わせる状況に緊張していた。


「わざわざこの尾張までお越しくださるとは…定満殿、単刀直入に尋ねますが、その用向きというのは?」


「…されば我が主・景虎は此度、上杉憲政(うえすぎのりまさ)殿を奉じて関東を乱した宿敵・北条氏康(ほうじょううじやす)とその一族郎党を悉く討ち果たしました。」


 その定満の口上を聞いて、秀高と継意にはその来訪の目的というのが概ね見当がついていた。しかし二人はそれを定満に悟られないよう、表情を変えずにその話を聞いていた。


「しかし、我が主が北条を討ち果たしたは(ひとえ)に、北条を討ち関東の秩序を取り戻さんがため。その願いが叶って北条を討ち果たした今、我が主は関東の秩序を回復しようと試みておられます。」


「関東の秩序の回復…ですか。」


 秀高がその単語を口に出すと、定満はその言葉に反応して頷いた。


「如何にも。そこで某がここに参ったのは、御当家におわす三浦継意殿を御一族の旧領・相模三浦郡一帯の領主として招き入れたいという我が主のご意向を伝えるためにこうして参ったのです。」


 その言葉を聞いて秀高と継意は、やはりその目的で来訪してきたかと互いに視線を交わして確認した。またその目的を聞いた信頼も自身の思惑通りの要求をしてきたと考えていたが、唯一義秀が声を上げて定満に話しかけた。


「ちょっと待てよ!そんなことを頼まれて、はい分かりましたって言う訳ねぇだろうが!」


「…これは我らの一存にあらず。我が主・長尾景虎よりのお誘いにござる。」


「お誘いっていう事は、簡単に言ったら家臣になれって事だろうが!」


 義秀が定満に向かってこう詰る様に言い放つと、それを聞いていた前久が義秀を説得するように話しかけた。


「畏れながら、お誘いしているのは長尾家の家臣になるという事ではございません。相模三浦郡の領主として復帰なさらぬかと言っておるのです。」


「領主も家臣も、結局は景虎が上に立つんじゃねぇか!それのどこが違うって言うんだよ!!」


「義秀、いい加減にしろ!!」


 と、詰め寄った義秀に向かって秀高が叱る様に言い放つと、義秀は秀高の顔を見た後に歯ぎしりしながら着座した。義秀が着座したのを見た後、言い詰められていた定満に向かって詫びを入れた。


「申し訳ない。私の家臣が無礼を働いた。許してくれ。」


「いえ…余りの突然の申し出に、心の整理がつかないのは当たり前の事にて、こちらとしても申し訳なく思います。」


 定満が秀高に向かってそう言った後、定満は拳を床において姿勢を低くすると、そのまま秀高を見つめながら頼み込むように言った。


「しかし、そこをどうか、我が主の意向も組んでいただき、何卒良き返事をいただきたく思いまする。」


「…定満殿、宜しいかな?」


 と、その定満に向かって、下座ですべてを聞いていた継意が話しかけた。定満は継意に話しかけられると、姿勢を正してそれに耳を傾けた。


「定満殿は、なぜ我が祖先が北条早雲…いや、伊勢宗瑞(いせそうずい)と申した方が良いか。なぜ、宗瑞公に負けたと思われるか?」


「…畏れながら、三浦家が負けたのは宗瑞の知略によって負けたのではないかと。」


「…確かにそれも一つの要因であろう。だがわしは違う。」


 定満の言葉を聞いた継意はきっぱりと否定すると、継意は定満を見つめながらこう言った。


「わしにはな、先祖は三浦という先祖代々の地に胡坐(あぐら)をかいていたのではないかと思うのじゃ。先祖は宗瑞公から三浦半島を守ろうという使命に燃える余り、その地元の領民の苦しみや思いを知らず、ただ伝統に縛られた結果民衆に見放され、新しい領主を求めて宗瑞公を認めたのではないかとな。」


 継意のこの言葉を聞くと、前久は扇を口元に当てて継意を見つめ、定満は表情を一つも変えずに聞き入っていた。


「今、その末裔のわしがのこのこと三浦半島に帰って、民衆たちが受け入れてくれるとは到底思えぬ。ありがたい申し出ではあるが、その話、丁重に断らせていただきたい。」


 継意のきっぱりとした言葉を聞いた定満はその言葉を受け止めた上で、確認する様に継意に向かってこう言った。


「…では継意殿は、三浦の地に帰る気はないという事ですか?」


「…如何にも。」


 と、継意が決意を込めて言った言葉を聞いた秀高が、定満に向かって(おもむろ)に口を開いた。


「…定満殿、これはあくまで俺の意見なんだが、確かに景虎殿の理想は素晴らしいと思う。だが、北条家を滅ぼしてからの、景虎殿の理想と現実は、かなり乖離しているように思えるんだ。」


「殿…」


 継意が秀高の言葉を聞いてこうポツリと言うと、その秀高の目の前にいた前久が意外な言葉を聞いて驚いていた。


「北条家を滅ぼし、関東管領(かんとうかんれい)家の復権をするというのは、俺にしてみれば元通りの状態になっただけだ。俺はそれで本当に関東の戦乱が静まるとは到底思えない。きっと近いうちにその中で(いさか)いが起き、その対処に当たるという事がきっと起きると思う。そんな危険な土地に、継意の当主として送り出すわけにはいかない。」


 その言葉を聞いていた定満は、一息ため息をつくと、秀高に向かってこう言った。


「…分かりました。そこまで言われるのであればこちらも無理強いは致しません。その旨、帰って我が主に伝えさせていただきます。」


「すまない。景虎殿によろしく伝えてくれ。」


 定満はその言葉を受け取ると、一礼した後にそのまま立ち上がってその場を去っていった。すると、その場に残っていた前久が秀高に向かってこう告げた。


「秀高殿、なぜお受けにならなかったのです?三浦半島はその石高をもってしても継意殿に釣り合う土地。事情があるとはいえ引き受けても問題はないと思われまするが?」


「…前久殿、確かに普通の大名ならば引き受けるだろう。だが俺は違う。」


 前久に向かって秀高がそう言うと、秀高は視線を前久に向け、毅然とした表情をして前久に言った。


「俺は家臣の意思を尊重し、家臣の自主性を重んじたいと思う。それがどんなにいい話であってもだ。」


「…なるほど、さすがは今川義元(いまがわよしもと)を討ち、尾張を手中に収めただけはある。」


 前久は扇を口元に当てながらこう言うと、扇を閉じて秀高にお辞儀をすると、秀高にこう言った。


「秀高殿、今日はここでお暇致しますが、またここに来させていただきまする。その時は、何卒良しなに…。」


「…分かりました。前久殿、その時はこちらも盛大にもてなしますので、どうぞお気兼ねなくお越しください。」


 秀高の言葉を聞いた前久は深々と頭を下げ、その後立ち上がると定満の後を追ってその場を去っていった。


「継意、本当にあれで良かったのか?」


 定満らが去った後、秀高は下座にいる継意に語り掛けた。すると、継意は去っていった方向を見つめながら秀高にこう言った。


「はい。元より心は決まっておりましたからな。しかし…」


 継意はそう言うと、眉をひそめてその言葉の続きを述べた。


「これで、殿は景虎殿の怒りを買うことになるでしょうな。」




「…そうか、継意は来ないと言ったか。」


 その数日後、鎌倉(かまくら)の市街地に陣営を張る長尾景虎の本陣の中で、尾張より帰還してきた定満の報告を聞いて景虎が眉をひそめながらこう言った。


「殿、秀高は殿の考えを元通りと申し、継意の意向をそのままくみ取って毅然と断ってまいりました。」


「ふん、成り上がり者が…」


 景虎はきっぱりとした口調でこう言うと、床几(しょうぎ)から立ち上がって苛立ちながらその場所を歩き回った。


「既に伊豆(いず)の北条残党も片付き、逃げ延びた北条氏邦(ほうじょううじくに)も討ち取った。どこも戦乱の気配もないというに、下手に出れば調子に乗りおって…!!」


 景虎は静かに怒りながらそう言うと、徐に刀を抜き、本陣の中にはためいていた本陣旗の柄を一刀のもとに切り捨てた。切られた本陣旗がそのまま地面に落ちると、景虎はそれを見つめながら定満にこう言った。


「…定満、そう言えば美濃(みの)の片田舎に、織田(おだ)の縁者がいたそうだな?」


「はっ。織田信隆(おだのぶたか)殿と申し、織田信長(おだのぶなが)の遺児を保護しているそうです。」


 定満からその事を聞くと、景虎は刀を鞘に納め、座っていた床几に腰を下ろして定満にこう指示した。


「信長の肩を持つなど性に合わぬが…今更そうは言っていられぬ。定満、直ちにその者に尾張安堵の書状を送り、こちらとの往来を密にして連絡を取り合うのだ。」


「はっ。かしこまりました。」


 定満が景虎にそう言うと、景虎はその言葉を聞いて頷き、再び立ち上がって定満にこう言った。


「関東管領就任式と、藤氏(ふじうじ)殿の古河公方(こがくぼう)就任式が終わり次第越後(えちご)に戻る。信玄(しんげん)坊主が信濃(しなの)で不穏な動きをしておるそうだ。今度の戦いで決着をつける!定満、お主はいち早く越後に戻り、その準備を進めておくのだ。」


「ははっ。」


 景虎は定満にこう言うと、前久を連れてその陣幕を後にしていった。そこに残った定満は座りながら視線を倒された本陣旗に向け、今後の事を考えながら見つめていた…





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