二 煙草 二
十一月五日 午後九時 埼玉県久喜市
『リョウくん、今運転中じゃないの?』
「今コンビニで休憩中だからへーき」
『あーそっかそっか』
コンビニの駐車場に停めた車の車内で、賀集涼一の携帯は彼の恋人である和泉ひとみと繋がっていた。
『ごめんね、リョウくん。一緒に行けなくて』
「気にすんなって。俺も、なかなか動けなかったし」
『後で、二人に謝らなきゃね』
「そうだな」
この日の朝、涼一は冬陽から連絡を貰っていた。そのときの電話で修二の死を知らされ、彼の実家がある桐生へ一緒に行かないかという誘いを受けた。
だが、その連絡で聞かされた親友の突然の訃報にショックを受け、誘いに対して「考えておく」という曖昧な返事をしてしまったのだ。
ちなみに、ひとみの方にも同様の連絡が来たようで、こちらは冬陽の恋人である霧島叶恵からのものだったそうだ。この連絡にひとみは、「いきなりで受け入れられない」と桐生への誘いを断っていた。
涼一の重い腰を上げさせたのは、修二の死に対する純粋な疑問。彼の死因については「一日の夜に病死した」としか伝えられておらず、病名も聞かされていなかった。
そのことを詳しく聞きたい思いが当初のショックに勝り、修二に線香もあげなければならないと日暮れとともに発ったのだ。
冬陽はすでに桐生にいる。合流したら色々と話を聞かせてもらうつもりだ。
そろそろ車を走らせようと、コンビニで購入したホットコーヒーを飲み干して、涼一は一度外に出た。そのまま、暖かい呼気で尾を引きながらゴミ箱に空き缶を放る。
その間もひとみとの会話は途切れない。
『リョウくんは今向かってるんだよね?」
「ああ。今、久喜だよ」
『やっぱり、あたしも明日行く。お線香だけでもあげたいし』
「そうか? なら、合流したら冬陽に伝えとくよ」
『うん、ありがと』
その会話を区切りに、涼一は通話をスピーカーに切り替え、携帯をドリンクホルダーに無理矢理差し込んだ。
髪を掻き上げ、眼鏡を押し上げる。そして、そのまま車を発進させた。
『ねぇ、リョウくんは覚えてる?』
「なにを?」
『高校の頃さ、よく修二君に写真撮られたよね』
「ああ、あったな。まぁ、あいつらほどじゃなかったけどな」
修二がよく被写体にしていたのは冬陽と叶恵だ。だが、涼一とひとみも、その二人に負けず劣らず修二の被写体にされてきた。五人はいつも一緒にいたのだから無理もない。
『高校、楽しかったよね』
「最初に会ったときだよな。まさか、ひとみがゲーム好きだったとは思わなかったよ」
『あのときは、隠そうかどうか迷ってたんだけどさ、リョウくんがずーっとゲームやってるから、どうしても気になっちゃって』
「めちゃくちゃ見てきてたもんな」
入学式の後に行われた、二時間ほどのホームルーム。そこで新入生は、親睦を深めるために最初の交流を重ねる。
だが、涼一はそれには参加しなかった。知り合いが一人もいない空間が心細かったのだ。
かと言って、必死に友達を作ろうとする姿にはある種の情けなさを感じてしまっており、結局、一匹狼を気取って自分の席で黙々とゲームをプレイしていた。
そのときプレイしていたゲームこそがひとみの好きなタイトルでもあり、涼一は終始、ひとみに見詰められていた。
その視線に耐えきれなくなり、涼一の方から声をかけたのが二人の出会いだった。
それから、涼一とひとみはゲームを理由に連絡先を交換し、休日には二人で会い、いつの間にか付き合いだした。
いつの間にかというのは、二人の仲睦まじい様子から、誰もが「二人は付き合っている」と認識していたことが起因する。
付き合っていないことが周りに知れたとき、「逆になんで付き合わないのか」と指摘され、周りの空気に押し流される形で結ばれることになった。
そのような経緯のため、互いに好意を持っており今でも交際を続けているが、告白等は一切行っていない。
「そういや、修二がよく言ってたな」
『なんて?』
「え? 目の前でいちゃつくなって」
入学当初、涼一とひとみの席は隣同士で、その二席は、修二の席の目の前に位置していた。
『それ、カナちゃんにも言ってなかったっけ?』
「言ってた言ってた」
修二の席は、休み時間は目の前で涼一とひとみ、授業中は黒板への目線上で冬陽と叶恵の甘い空気を見せつけられる。その二組に対し、修二はよく冗談混じりの苦言を呈していた。
『ところで、そっちは雨降ってる?』
「雨? 昼は降ってたみたいだけど、もう止んでるな」
車を走らせている間、涼一はひとみと会話を続けた。たとえ会話が途切れても、通話を切ることもせず、無理矢理にでも話を続かせた。
とにかく、会話がなくなることは避けたかった。もし会話がなくなり、通話も切ってしまえば、あとに残るのは孤独と静寂だ。そうなれば、頭の中で悶々と修二の死について考え、周りが見えなくなり事故を起こしてしまう恐れがある。
それを避けるためにも、無理矢理ひとみとの会話を続けて、気を紛らわせる必要があった。
もっとも、車の運転を避けて電車やバスなどの公共機関を利用することが一番安全なのだが、それに気付いたときにはもう、家から遠く遠く離れてしまっていた。
そのため、少しでも危険を減らそうと、涼一の車は高速道路ではなく一般道を走っている。
「お。羽生に突入」
『そういえばリョウくん、着替え持ったの?』
「着替え?」
『向こうで一泊くらいするでしょ? さすがに車でとんぼ返りはキツくない?』
「ああー、忘れてたな。まぁ最悪、今着てる服もう一回着ればいいか」
『……明日行くとき買っていってあげる』
電話の向こうで、ひとみの声が少し低くなる。話し声にため息も混ざっていた。涼一に対して呆れているのだろう。
「悪いな。あ、充電なくなりそうだな」
『大丈夫?』
「ああ。丁度コンビニだし。充電器買ってくるから一瞬電話切るよ」
『うん。待ってるね』
今夜の運転はいつもより精神をすり減らす。涼一はコンビニが現れる度に休憩を挟み、通常の倍以上の時間をかけて群馬県へと向かっていた。
大学入学と一人暮らしを機に親から譲り受けた車も、こんなに長い時間走らされたことは初めてだろう。
『リョウくん、今どこ?』
「館林抜けるところ。まだまだかかりそう」
『合流したら一回休みなよ?』
「そうするよ」
館林市、太田市を抜けて桐生市へと涼一は車を走らせる。この頃になると、コンビニを見つけても中には入らず駐車場で休憩するようになっていた。
東京を出発して何時間経ったのか。もう何度目のコンビニなのか。
目的地は、もうすぐのはずだった。
高い建物もなく明かりも少ない田舎道。すでに星たちは姿を眩ませ、一等星だけが弱々しくその存在を主張する。
「悪ぃ。トイレ行くから一回切るわ」
移動もいよいよ終盤に差し掛かり、涼一は久しぶりにコンビニの中に足を踏み入れた。トイレを借りるついでに、少しだけ買い物もした。
コンビニを出て、涼一は一度大きく体を伸ばす。固まっていた体がほぐされ、ポキポキとどこからか小気味良い音が聞こえた。
「はぁ、あと少しか」
振り返れば、コンビニの店内が見える。レジにいた若い男の店員は、涼一が見ていることにも気付かず暇そうに携帯を弄っている。
不意に、店員の顔に笑みが浮かんだ。
目線は相変わらず携帯に落ちている。恋人からの連絡か、それとも面白い画像やニュースを見ているのか。外からでは判別がつかない。
涼一の二つ目のため息は、空中に散っていく。先程よりも空の青は薄い。星は完全に消え失せていた。
不謹慎ながら、ここまでの道のりは楽しかった。夜中のドライブ、誰にも邪魔されない恋人との時間。
だが、ゴールは友人の死だ。終着点に近付けば近付くほど、それを意識せざるを得ない。
段々と下がっていく涼一の顔を上げさせたのは、背後の物音だった。
「……あ? おぉ? 瑠璃じゃん」
物音の正体は、コンビニの扉が押し開けられる音だった。そして、その中から高校で同じクラスだった瑠璃が姿を現した。
「中にいたのか? 声かけてくれればよかったのに」
先程、涼一はコンビニ内を二周した。適当にうろつき、結局は飲み物一本しか買わなかったが、店内に瑠璃がいたことは気付かなかった。
「あ、それかバイトか?」
瑠璃は手ぶらだ。買い物か料金の支払いでもなさそうに見える。それならば、夜勤のバイトを終えたところと予想できるが、そうだとしても手ぶらであることが涼一は気になった。
「なんで無視? 俺なんか悪いこと言った?」
涼一の言葉は、瑠璃の耳に届いているはずなのだが、瑠璃は微動だにしない表情筋で涼一を見据えている。
──もしかして、こいつも修二の家に?
涼一は、鎌をかけるつもりではないが、瑠璃が知らない前提で修二の話を伝えた。
「……なぁ、瑠璃。修二のこと覚えてるか?」
修二の名を口に出すと、瑠璃はわずかに顔を動かして反応を示した。
「あいつ……死んだらしいよ。それでさ、俺今からあいつの実家に行くんだけど、一緒に来るか?」
修二の名に対し、わずかな反応を示した瑠璃は、涼一の誘いに、小さな頷きで答えた。その反応だけでは、元から修二の死を知っていたのか、それとも今知ったのかはわからない。ともかく、修二の実家に来る意思はあるようなので、涼一は瑠璃を連れていくことにした。
「おっけー。じゃあ乗ってくれ」
後部座席のドアを開け、瑠璃を乗せる。
「もしかして瑠璃さ、もう修二が死んだこと知ってた?」
高校を卒業して以来、久し振りの再会だというのに、瑠璃は一言も喋らない。車に乗り込むときも、物音一つ立てなかった。
瑠璃は修二の死を知っていて、そのショックで様子がおかしくなっているのではないか。
涼一はそう思い、修二の死について聞いてみたが、肯定も否定も返ってはこなかった。
「冬陽と叶恵はもう向こうにいるんだよ。それに、ひとみも明日来るって言ってたからさ、合流したらみんなで線香あげてやろうぜ」
運転席に乗り込むと、涼一は携帯を手に取った。偶然、瑠璃と合流したことをひとみに伝えるためだ。もちろん、それ以外にも、ただひとみと話していたいという理由も持ち合わせていたが。
だが──。
「あっれぇ……。なんで電源点かねぇんだ。充電切れたか?」
電源ボタンを何度押しても、涼一の携帯はうんともすんとも言わない。軽く叩いてみても、電池を取り替えた充電器を差してみても、状況は変わらなかった。
「くっそぉ。これじゃひとみと連絡できねぇじゃん。……あ、瑠璃、お前の携帯貸してくれねぇ?」
そう聞くと、バックミラー越しに瑠璃が首を横に振った。携帯を持っていない、もしくは貸せないという意思表示か。
瑠璃の仕草を、涼一は携帯の不所持と捉えた。
「マジで? しゃーねぇ。合流したら冬陽か叶恵に貸してもらうか。あー、ひとみに謝らねぇとな」
ため息混じりにエンジンをかける。唸るエンジンに、涼一は肩を縮こまらせた。
ひとみへの連絡手段を失った涼一は、車を走らせている間、瑠璃に話しかけ続けた。無視されようとも構わずに話題を振り続けた。
瑠璃はやはり終始無言だったが、目線はバックミラー越しに涼一を捉えており、時折首を振るなどの反応はあった。
だが、コンビニから十分ほど走ったときだ。涼一は、思わずバックミラーを二度見した。
「あれ? 瑠璃、いるよな?」
返事がないのは最初からだが、今は気配すら感じられなくなっていた。
「あれ、瑠璃? ……嘘だろ?」
速度を落とし、注視したバックミラーは、誰もいない後部座席を映していた。
すぐに路肩に車を停め、涼一は後部座席を覗き込むが、瑠璃の姿はない。椅子の下に隠れているわけでもなかった。
「どういうことだよ……」
車は止まらずに走っていた。当たり前だが、ドアも窓も閉まっている。仮に飛び降りたとなれば、ドアか窓が開けっ放しになっているはずだった。
「おい、どこいったんだよ」
幻覚を見たとでもいうのだろうか。一言も喋らない、無表情を保ったままの瑠璃の姿に思わず頷きそうになる。
だが、コンビニで会ったとき、確かに入り口のドアを開ける音を、涼一は聞いている。開いたドアが閉まるのも、その目で見ていた。
それすらも幻だったとは思えない。
──そんなわけあるか。仮に幻覚だったとして、死んだ修二ならともかく、どうして瑠璃なんだ。
どうにかして、目の前の異常に理由を付けようとするが、幻覚であろうとなかろうと瑠璃が消えた事実は変わるわけもない。
車を降り、涼一はその周辺を捜索する。完全に夜は明け、辺りの見通しは良好だ。人の動きがあれば、すぐに認識できる。
──どっかに放り出されたか?
かなり無理矢理な推理だが、走行中に車外に投げ出され、はずみでドアも閉まったと、涼一は結論付けた。
そして、どこかで倒れている可能性を考慮し、車をUターンさせようとした、そのときだった。
「あん? なんだ?」
足が動かない。
「運転、しすぎたか……?」
──疲れからくる症状、だよな?
動かない足に、焦りを覚える。
修二の実家まで向かわねばならない。同時にいなくなった瑠璃を探さなければならない。そして、急に通話を途切れさせてしまったひとみに謝らなければならない。
すべてを終えるためにも、一刻も早く瑠璃を見つけ、冬陽達と合流しなければならなかった。それにもかかわらず、両足は自分のものではないかのように動いてくれそうにない。
「くそ。どうなってんだよ」
焦りに任せ、涼一は自分の太ももを殴る。鈍い痛みが、目の前の現象を現実であることを突き付けてきた。
何にせよ、このままでは追突されかねない。ハザードランプを点け、エンジンを切ろうと、涼一は腕を伸ばした。
「あれ?」
指は、確かにハザードランプのスイッチを押し込んだ。
だが、それを最後に両腕も動かせなくなってしまった。
困惑。突然の事態に思考が停止する。
すると突然、両腕両足が別の生き物の様に激しく痙攣し始めた。
「うおわぁぁぁぁっ!」
制御ができない体に自然と悲鳴があがる。
「くそっ! なんなんだよ……なんなんだよ!」
涙が溢れて、視界が歪む。冷や汗を拭けず、顔が濡れる。
悲鳴が治まったのは、痙攣が止まったときだった。それでも、安らぎは訪れなかった。
「はぁはぁはぁ……え? ちょ、ちょっと、何だよ! やめろ!」
自分の意思とは関係なく体が動き出した。いつの間にか、首から下は制御を失っていた。
制御を失った涼一の体は車外に出る。「やめろ、やめろ」と独り言が繰り返される。その言葉に反し、体は行動をやめようとはしない。
一人で、歩きながら「やめろ」と連呼している様子は、間違いなく不審者だ。
──そんなこと、言ってる場合じゃねぇ。
冷静になろうとするあまり、頭に下らない発想が浮かび、それを瞬時に掻き消す。
不審者として通報されていれば、涼一は助かったのかもしれない。がむしゃらに大声をあげていれば、誰かに気付いてもらえたのかもしれない。
そのことに気付いたときには、もう遅かった。この後に何が起こるのか、予感したときには。
「なにする気だよ! やめろよ、やめてくれよ!」
車の後ろまで来ると、膝をつき、手をつき、四つん這いの姿勢になった。
眼前には、凶器がぽっかりと口を開けている。
吹き出される臭いを、肉体そのものが拒絶する。
恐怖と絶望の涙が止めどなく溢れ出してきた。
「やめろ……やめろやめろ。助けてく……」
鼻から下が制御を失い、顎が外れるほど口が大きく開かれた。口の端が、裂けそうなほどに張り詰めた。
口の中に、排気口が侵入した。
エンジンは止められていない。排気ガスが、暴力的な勢いで涼一の体内に侵入する。息などできない。苦しみに襲われる胸。そして──。
──熱い熱い熱い痛い痛い痛い熱い痛いぃぃぃぃ!
歯が焼ける。激痛など、可愛い表現に思える地獄。死を望むほどの苦痛が、脳を打ち付ける。
脳内で、血管がはち切れんばかりに悲鳴をあげる。
制御のできない体は、身を捩ることはおろか、痙攣することさえ許してくれなかった。