84、彼らの気晴らし 1(新しい生活)
晴天の下、短く刈られた草の上にどさりと尻を付き、ホークは小さく畳んだ紙をポケットから引っ張り出す。
「これ、捨てるかな」
小さく呟き、自分で出来る限り奇麗に書いたつもりの文字や簡易的な地図を眺めた。
声が聞こえた気がしたのだ。
見上げた先には大きな滝があった。
ドラゴンの巣と呼ばれながら、そこにはドラゴンなど住んでいないと知られている滝。一説では、その地域で一番大きな滝であることから、その大きさを表して「ドラゴン」と例えたとか、大きな滝の轟く音が幾つにも重なったドラゴンの咆哮に似ているという事からそう呼ばれるようになったという。
白い飛沫が煙のように立ち上る滝壺。辺りを見ても人影はなく、横にいた騎獣は警戒心があるのかないのか、大きなあくびをかいていた。
(そういや、あの魔族どっから出てきたんだ?)
滝の周辺を適当に眺めていたが、滝の落ちる絶壁の根元の何かが目の端に引っ掛かり視線が一点で止まる。
なんの変哲もない岩場に見えた。
だが、よくよく注意してみれば何か人工的な角が目に付いた。
(なんだ?)
滝に近づき、その根元の岩場を見つめる。そうして目を凝らしていると、魔術の気配を感じた。
ホークは、自分が人より魔術や魔法の類の気配に敏感なのを、僅かながらに自負していた。赤い眼の恩恵だろうとも、何となく自覚していた。
好奇心のままにその岩場の魔術の気配を辿ると、行きついたのは「あの場所」だった。
あの時、滝の裏に偶然見つけたあの祠。奥の祭壇から声が聞こえ、その中には薄く光る玉があった………と思う。
一人残され他に人がいなく、聞いたのが自分だけ。何となく忘れるのは惜しい気がして、カザリットの部屋に戻った際忘れないようにメモをした。
———『カエセ』
———『クラッテヤロウ』
『クラッテヤロウ』とは「食らってやろう」なのだろう。だが『カエセ』とは何だろう。何を返すのか。何を食らうのか。
言葉の示す意味も良く分からなかったが、あの祠が何を祀っているのかもよくわからない。
落ち着いたときに調べてみようかとも思ったが、いまはもう、それへの興味も大分薄らいでしまっていた。
今は新しい環境に慣れることが最優先であり、メモした言葉に心が引かれることはない。『クラッテヤロウ』という言葉には、嫌な意味で心をざわつかせる響きがあった。
もしかしたら、ラツィラスやジーンに会うより少し前の自分なら、興味を掻き立てられて、再度あの祠を一人で尋ねてもいたかもしれない。移動にどれだけの時間がかかろうともだ。よくわからない魅力にひきつけられ、祠の中へ手を突っ込み、あの玉をつかみ取っていた気がする。
だが、あの二人に会わなければそもそもあの場所にもいくことはなかったのだ。だから、あの二人とあった時点で、あの場所に自分が行きついていた時点で、自分はあの祠とは縁がなかったのだろう。
(けど、………けど)
ホークは紙を掴む指先に力を入れる。このままくしゃくしゃにして、先ほどまとめた雑草の類と燃やしてしまえばいいのに、と頭の隅で思うも、その手はそうはしなかった。
いつかとても暇になったら、その暇つぶしに使えるかも。もしかしたら、あれが必要になる日が来るかも―――と躊躇いが生まれ、使い道の良く分からないソレへのメモを捨てられないでいた。
「はぁ」とため息が漏れた。
(今は絶対いらないってのは分かるんだよなー。どっかに埋めてでも置くか?)
捨てるのは何となく憚れる。だが、大事にしまっておきたいものでもない。
「変な感じだよなー」と呟いて、紙を見つめたままこの後の一日へと思考は移っていた。
今日はこの昼の掃除と、その後の小休憩を済ませたら街へのボランティア活動があるのだ。この施設での生活自体は悪くないが、ホークはこの「ボランティア活動」とやらが一番嫌いだった。自分にいやな目を向け、明らかに他の子たちと違う扱いをしてくる大人がいるからだ。
(あーあ。働かぬ者食うべからず、か。だるいなー。他は結構アタリなのに。………そうそう完璧ってわけにはいかないか)
ラツィラスの執事とやらが見つけてくれたこの孤児院に来て、早二週間が経った。
入った当初———最も今もだが―――施設の子供たちから、たまに「ニセモノ」という言葉が聞こえていた。それは聞き間違いの類ではなく、口の動きなどから読み取れる疑いようのない事実だ。
だが、大半のその言葉には悪意はないようで、他の呼び方を知らないからそれを使っているという感じだった。
ここには自分を含め二十七人の子供が暮らす。大なり小なり偏見を持つ者もいるので、差別的な目で見られるのは仕方がないことだ。寧ろラツィラスとジーンといた時の方が特殊だったと思うべきだ。
偏見の目で見られようとも、ここには自分に分かりやすく絡んでくるようなものはいない。それだけで十分だ。
ここを支える五名の大人たちも、性格はそれぞれだが心根は穏やかで寛容な様子だ。自分の生まれた環境と、商人と過ごした期間に出会った者たちを含め、世の中にはいろんな人間がいるのだと改めて思い知らされた。
(あいつらに会ってから、周りの人間の種類が変わった気がする)
ホークはどさりと後ろに倒れ込み、空を背景にメモを見つめ続けた。
「おい。さぼりか?」
玄関前の掃除を担当しているヴィオンがやってきて、腰に手を当ててホークを見下ろした。
ヴィオンはこの施設に来て一番よく絡む相手だった。一個上で、下にはヴィオンと三つ年の離れた妹のレーンがいる。ホークの事は妹のついでとでも思っているのか、お兄さん風を吹かせつつ、それでいて同い年の友人のような接し方だった。
そんなヴィオンの空気は、ホークにとって意外と居心地の良いものだった。ホークがここにきて一番に声をかけてくれたのも彼だ。単純にツボが合うんだろうな、とホークは感じていた。
「終わったんだよ!」
「見りゃわかるだろ」とホークは唇を尖らせる。
ホークは裏庭担当だ。雑草が生えてれば抜き、枯れ葉が積もっていれば集めて袋に詰める。やることと言えばそれくらい。季節的に落ち葉が多い時期でもないので、早々にやることが無くなってしまったのだ。
「へー。本当か?」
ヴィオンはわざとらしく花壇のレンガに指を滑らせ、埃を確認するようなしぐさをして見せた。
「ほらみろよ、こんなに」
ふっと指先を拭けば、当然だが乾いた砂ぼこりがふわりと散った。
「おい、屋外だぞ。埃なんて積もりたい放題だろ! そんなとこ拭いてたららちが明かねーよ!」
身を起こして抗議の声を上げるホークに、ヴィオンはけらけらと笑って「冗談冗談」と返した。
「で、何だよそれ。宝の地図か?」
ホークがずっと手にしている紙へ、ヴィオンが興味深げに目を向けていた。
「なんだろうな。宝………っぽくもある………俺も良く分かんね」
「へー、面白そうだな」
ヴィオンは紙をのぞき込む。
なんだか見せてはいけない気がしてホークは手を引こうとしたが、紙の端を引っ張られ、とっさに紙をかばって引かれるままにヴィオンの方へと寄せてやった。
ヴィオンはじっと紙の内容に目を凝らし、眉を寄せて首を傾げる。
「………難解だな。字汚すぎだし、地図っぽいこれも全然わかんねぇ。これとか木の群なのか家の群れなのか………お前読めるか?」
「なあ?! 汚くて悪かったな!! 俺の字だよ!」
ヴィオンは「嘘だろ?!」と目を丸くした。そして深刻な顔をする。
「この孤児院の最低記録更新かもな。メアルでもこれよりきれいな字かけるぞ」などとぼやく。
「んなわけあるか! メアルってあの二歳のガキだろ!」
「おにーちゃん? さぼってるでしょー?」
ホークの言葉尻にかぶさるようにして、庭先から不快気な声が聞こえてきた。レーンだ。
ヴィオンが苦笑を浮かべる。
「おいレーン! 来てみろよ! ホークの字凄いぞ!」
「え? 字が何? 掃除は?」と返しながら、表からレーンがやってくる。
ホークは紙をポケットにしまい込む。
「字を見せてよ」「見せない」の押し問答を繰り返しながら、三人はキャーキャーとさわぎつつ掃除を切り上げていく。
ホークにとってこの環境は悪くなかった。
まだちゃんと話せていない顔ぶれもあるが、それもそのうち時間が経てば少しずつ関わっていけるだろうと、前向きに考えることが出来た。
(あれも、きっとすぐに返しに行ける)
「なあメアル、名前書けるか?」
夕食後、ホークは興味本位でメアルにペンを持たせてみた。
二歳になったばかりのメアルは、指を銜え不思議そうな顔でホークを見つめる。
言われたこともよく分かってなさそうないたいけな瞳に、「なんだよ、やっぱりヴィオンの冗談か」とホークは胸をなでおろした。が、ペンを受け取ったメアルはすっと背筋を伸ばし、大胆な腕の動きで「メアル」と大人顔負けの達筆な文字を書いて見せたのだった。
その様にホークは言葉を失う。
***
「なんだよ、あれ」
放課後の稽古後、ジーンはあの件について、やっと口を開くことが出来た。
昨日のあの出来事。アルベラがシスターに襲われた。それを止めにはいった自分の主であり友人である少年の、見慣れない空気。
直ぐにでも聞いても良かったはずなのになぜか聞くことが出来なかった。気づけば今日が始まり、学校が終わっていた。
自分のもたついた空気を感じ取っていたのか、ラツィラスはたまに様子を見るような目を向けてきたが、自分から「どうしたの?」などと聞き出そうとしてくるようなことはなかった。
やっと言えた、と胸のつっかえが一つとれたようなジーンの表情に、ラツィラスはくすくすと笑みを零す。
「もー。ジーンってば、相変わらず妙なところでむっつりだなー」
(………むっつり)
ジーンは不快気に眉を寄せる。そのムッとした表情を見て、ラツィラスは更にくすくすと笑った。
十分に笑ったのち、からかうような笑顔を浮かべたまま「いやー」と自身の髪をなでつけた。
わざとらしく斜め上に視線を向け考える仕草をし、
「なんだったんだろうね、アレ」
と、あっけらかんとした笑顔をジーンへ向けた。
ジーンの中にまた一つイラつきが積もる。
随分と他人事な言葉だ。
ずっとタイミングを探していて、やっと切り出せたというのに、この主ときたら「まいったなー」と零しながらいつも通り暢気な笑みを浮かべるばかり。真面目に答える気があるようには到底思えない。
ジーンは軽い調子の王子様の胸倉を、勢いのまま掴んでいた。
「………そのニタついた顔、ぼこぼこにしていいか?」
「えぇ?!」
ラツィラスは肩を揺らす。笑顔は僅かに強張る。
「どうしたのジーン君。いつもの穏やかな君らしくないよ。落ち着こう。ね?」
やけに据わったジーンの目を見て、ラツィラスは両手を体の前に持ち上げ、「どうどう」と馬をなだめるように声をかける。
だがそれもまた逆効果だった。
ラツィラスの、いまだ剥がれ落ちない笑顔もセリフも、どちらも気に入らなかったのか、ジーンは表情を変えずに掴んだラツィラスの胸倉を引き寄せた。
「おい、とりあえず歯食いしばれ」
「えぇぇぇ………。な、なに? どうしてほしいのかな? 言ってくれれば僕頑張るけど」
「お前、まだふざけてるだろ?」
ジーンの拳は、自身でも気づかない間に肩の高さに持ち上げられ、構えられていた。
初めはただの脅しのつもりだったが、そういうポーズをとってみると、自分でも冗談か本気かよくわからなくなってくる。ジーンはほんの一瞬悩むが、「ここまで来たら、まあいいか」という気分になった。
「あ、今『別に殴ってもいいか』って思ったでしょ?!」
顔に出ていたのか、ラツィラスは見事にその心情を読み取った。
「………? ああ。良く分かったな」
「『ああ』って!」
「なんだ、喧嘩か?」
少し離れた場所から、剣の師匠ハドルテの声が聞こえた。
ジーンがバツの悪そうな顔をする。
ラツィラスが嬉し気に顔を向けると、訓練所の入り口で足を止め汗を拭っている師匠の姿があった。
「ハドルテ、いいところに」
「おい、ジーン!」
名を呼ばれたジーンが、渋々と顔を上げる。
「………はい」
「折角喧嘩するなら剣を使いなさい!」
「はい!」
「いやいやいやいや!」
助かったと思ったのもつかの間。
なんでも教え子達の訓練に結びつけてしまうハドルテに、ラツィラスが救いを求める隙は無かった。苦笑を浮かべ、ラツィラスは冷静になる様にジーンへ言葉を投げかける。
「本当に、僕にも分からなかったんだよ」
「へぇ」
「あんな風に本気で怒ったのは初めてだったし」
あの後、ラツィラスの必死の説得により、二人は争いごとを起こすことなく城の訓練場から学園へと戻ってきていた。
厩に馬を帰し、鞍を外して片付ける。
壁に寄せておいてある木箱を椅子にし、桶の水を飲む馬を眺めながらジーンとラツィラスは話し込んでいた。
喧嘩をせずに立ち去る二人を、ハドルテはやや残念そうに見送っていたのを思い返し、「他人事であれば大笑いできたのに」とラツィラスは苦笑いを浮かべる。
「お前、またニヤついてるな」
ジーンが目を据わらせて睨みつけた。ラツィラスは身を引いて、体の前で両手を振る。
「勘弁してよ! こういう顔だって知ってるでしょ!」
「冗談だよ」
「なら冗談って顔で言ってよ。そんな顔で言われたら本当に殴られるかと思うじゃない。………あーあ、トラウマだな。人に胸倉掴まれたのなんて初めてだよ―――」
自分が何気なく発した言葉に、ラツィラスは思いついたように悪戯に目をクルリと輝かせ、人差し指を立てて楽し気にジーンへ顔を向けた。
「まさかこんな初めてをジーンに持っていかれるとはね!」
「さっきの今でよくそんな冗談言えたな」
ジーンは冷たい視線を返し、胸の前で拳を握りしめる。
「………ご、ごめん」
ラツィラスは相変わらずの笑顔のまま、身を小さくする。
「お前、そういう気色悪い冗談は二度というな」
軽蔑を込めた視線に、ラツィラスは心底反省した様に「うん。ごめん」と項垂れた。
自身の持病のような、発作のようなものを再認識し、ラツィラスは困った笑顔を浮かべる。
楽しかろうと悲しかろうと、怒っていようと困っていようと、やっぱりこいつは笑うんだな。とジーンは肩を落とし息をつく。実際そういう顔なのだ、そういう表情筋の持ち主なのだ、仕方ない、と自分に言い聞かせた。
「それで、おまえ、ただ怒っただけであんなになるわけ………、ないよな。ていうか、お前もあんな風に怒るんだな」
「そりゃ僕だって普段怒ること位………………………」と言いかけ、あそこまで怒ったことはあまりないかと思い直したのか言葉を切る。
「ちょっとイラってするくらいなら幾らでもあったよ」
言い改めた返答に、ジーンは皮肉を込めて返す。
「日常で怒る必要、無いもんな。王子様は怒る前に周りがお膳立てしてくれるから」
「もう、とげのある言い方だな」
「少なくとも、俺はお前が他人に対して表立って怒ったところを見たことない。あれが初めてだったよ。………なあ、あれも寵愛か? それとも魔法か?」
「………どっちだろうね。どっちもあり得るけど、けど、魔力の消費は感じなかった………気も、する。調べてみないと何とも、だよね」
そもそも、王族は力に恵まれている。赤い眼ともなれば更にだ。人より魔力の保有量が多いので、多少の消費にはあまり気を払っていないのだ。だからあの時、細かい魔力の操作より怒りを優先していたラツィラスは、自分のそれにどんな類の力が働いていたのかなど意識していなかった。
「自分でもはっきり分からないんだな。………本当、厄介なやつ」
ラツィラスは困ったように微笑む。
「確かにね、僕は怒る機会なんてなかなかないよ。だって、皆良くしてくれるもの。………王族だからね。気持ち悪いくらいに快適な人間関係だよ。王様、様様だね。僕より一回りも二回りもある大人だってへりくだってくれる環境だよ。ホント凄いよね」
こういった話になると、ラツィラスの言葉には自身に対する皮肉が端々に現れる。
仕方がないものは仕方がない、と日々自分で言っているが、まだまだ割り切れるものではないのだろうな、とジーンは毎回、ほんの少しだがこの生意気な主が哀れになってしまう。
「………だからかな。あんなに本気で人を殺したいと思ったことはなかった。そういう風に思わせる『無礼者』、今まで現れたことなかったしね」
後半の言葉を、誤魔化すように冗談めかす。
「だから、『自分が』なのか『相手が』なのか、とにかくあんな風になるなんて知らなかったんだ。なんだろう。ただ怒っただけじゃない………殺してやるって思ったからかな」
「ふうん」
ジーンは脚に肘をつき、手に顎を乗せる。
ラツィラスはちらりと隣の友人をみる。
ジーンは話を聞きながら、変わらずいつものむすりとした顔で馬を眺めていた。
「怖かったかい?」
試しにそう尋ねると、ジーンは静かに顔を向けてきた。
「ジーンも、僕を怖いと感じた?」
いつもの微笑みの中に、少し悲しそうなものを見てジーンは考える。
視線を自分の足元に移すと、飼い葉がまばらに落ちているのが見えた。それを片足で意味もなく蹴る。
「………ああ。怖かった。気持ち悪かった」
「そんな、気持ち悪いって………」
本当の事だ。
あの時の驚き。脚の竦む空気。
ジーンの目元が若干険しくなり、瞳の中の金の筋に光が走る。
ラツィラスから見たそれは、怒っているというより拗ねているようだった。
「それで、何もできなかったのが悔しかった」
「………なんだ。そっか。悔しかったんだ。………ジーンらしいね」
「なんだってなんだよ。思い出すと今でも腹が立つ。なんで俺がお前にビビらないといけないんだ。こんなへらへらなよなよして、剣の稽古もすぐサボろうとするやつに」
「ちょっとちょっと! へらへらなよなよって、僕の事そんな風に思ってたわけ?!」
「そうだろ、もやし王子」
「あー、不敬! それ次言ったら罰則ね! 確かに稽古はサボろうとするときもあるけど、出てる日の方が多いんだから! 大体、あの時僕にビビったのは、ジーンの鍛錬が足りてない証拠なんじゃない? 僕思うんだけど、鍛錬ってかけた時間より質だと思うんだ。どんなに時間をかけたって、真面目に、常に自分の本気を出し切ってやらなきゃ、今の自分の限界は越えられないんだよ? あの時僕に怯えたのだって、ジーンの鍛錬不足が招いた結果だったとしたら、僕をぼこぼこに殴りたいだなんて、ただの八つ当たりもいいところじゃない! 君は騎士を目指してるんでしょ? 階級試験もあと一~二年に迫ってるっていうのに情けないなぁ。そんなんじゃいつまでたっても『見習い』が外れないよ? もっと本気で一生懸命、心と体を磨かなきゃ!」
ラツィラスの声は先ほどよりもトーンが明るくなっていた。そして明らかにその物言いが冗談めかして上から目線のものとなる。実際、立場的にはラツィラスの方が上なのだが、普段の鍛錬で言えば明らかにジーンの方が真面目に取り組んでいる。それはお互い同じように認識しているはずなので、ジーンからしてみれば「どの口が」と感じて当然のセリフだ。
「言わせておけば好き放題だな!」
ジーンは手に顎を乗せたまま声を荒げる。ラツィラスはそれにケラケラと笑った。
ジーンは相手が王族であることも気にせず、拳を握りやや強めに、すぐ悪ふざけを挟む友人の腕を小突いた。
「ふん」と顎を上げ、見下ろすように睨みつける。
「今はそれで大目に見てやる。二度とお前なんかにビビらないからな」
ラツィラスは「もう」と苦笑する。
「負けず嫌いだな」
「ん? おや。君らこんなところにいていいのかい?」
二人の話がついた時、厩を管理している用務員のおじさんがやってきた。
「夕食は食べたのかい? そろそろ時間だろう?」
「あ………」とどちらともなく声が漏れ、急いで木箱から飛び上がる。
「もう! ジーンがもっと早く切り出さないから」
「お前がすぐふざけるから時間が無駄になったんだろ!」
夕闇の中校舎へと駆けていく少年達を見やり、用務員のおじさんは羨まし気にほほ笑む。
「いやはや。若さかな」
彼は毛の薄くなった頭頂部をぺんぺんと叩くと、馬達の様子を見に馬屋へと入っていった。
***





