60、魔族の里 2(魔術研究科と魔徒 1/2)
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この街の時計台は夜の一二時の鐘を最後に眠り、朝六時の鐘を目覚めとともにならす。
まだ辺りは暗く日も昇ってない中、エリーと同室の使用人、ニーニャはその日の始まりの鐘より早く起こされた。
最近十八歳になったばかりの彼女は、相変わらず背も低く顔つきも幼い。
「ふぁ~………おはようございます………。エリーさん、なんですかぁ?」
目も開き切っておらず、呂律も回りきらず、ニーニャは眠たげに体を起こす。
「ごめんなさいね、ニーニャ。気にしないでいいから、そのままそこに座ってて」
化粧を済ましたエリーが、ニーニャの周りで荷物をまとめている。
眠たげに目をこすろうとしたニーニャの顔をお湯で絞ったタオルで拭いてやり、寝ぐせでひっちゃかめっちゃかの、長いピンクベージュの髪を丁寧に解して櫛ですいてまとめる。
ぼーっとする中、なぜエリーがこんなにも自分のお世話をしてくれるのか、ニーニャには心当たりがなかった。
しばらく睡魔に負けてうとうとしていると、最後の仕上げとばかりに上を向かされ、目薬を差された。一瞬、ニーニャの視界の色が鮮やかな緑に代わり、すぐ元に戻る。
今のは瞳の色を変えるときに使われる魔術道具だったはず。緑に視界が変わったということは、自分の瞳の色は今緑ということだろう。
この色替えの目薬を以前にも何度か使用したことのあるニーニャは、上を見上げたまま頭が目覚めていくのを感じ、「つまり、まさか」と目を見開いていく。
勢いよく立ち上がり鏡を見れば、エリーの手際よい身支度により、自分の姿はこの屋敷のお嬢様そっくりなものへと変えられていた。
「あああ、あああああ………」
ニーニャは愕然と立ち尽くす。
そんな彼女の前に、エリーが両手を合わせ、顔の横に添えて微笑んでいた。
「さ、行きましょう。オジョウサマ♡」
部屋を出て、エリーは自分たちの生活部屋の戸に何かを掛ける。一体なんて書いてあるのかとニーニャが覗き込もうとしたら、その襟首をつかまれ、真っすぐアルベラの部屋へと引きずられていく。
まだ他の使用人たちの姿はない。もう少しすれば朝日が地平線を照らしだすころだ。そうなれば料理人と数人の使用人が朝餉の支度で一階をうろつき始める。
ニーニャの予想通り、いつもの時間通りに一階から人の動く物音がし始めた。
「さ、これを着て、これをかぶって。———うん、ばっちりね。じゃあ改めて、行きましょう」
エリーがすたすたと前を行き、ニーニャが青くした顔を深いフードで隠しながらそれについていく。
自分は今、一体何に加担させられているのだろう、と気が重い。
「あらお嬢様、姉さん、どちらへ?」
一階に降り、扉の前、キッチンとダイニングルームを行き来していた使用人から声を掛けられる。
「おはようスターリア。王都へ、キリエ様の所に」
「あら、急ね」
「ええ。昨晩から水コウモリの調子が良くなくて………。お嬢様、今すぐにでもキリエ様に見てもらいたいんですって。必要なら、そのまま王都の動物病院にもよれるしって」
ニーニャはとりあえず首を縦に振っておく。
「そうでしたか。では朝食は?」
「王都の屋台で食べるからいいわ。奥様にはまだお伝えできてないの。悪いけどお願い」
「わかりました。私たちは大丈夫でしょうが………事前報告でないのは、ちょっと痛いですね」
それはつまり、お嬢様的によろしくないということだ。無断で早朝から王都に向かったともなれば、何かしらのペナルティーはあるだろうと。
「そうね………お嬢様、本当にいいの?」
突然言葉を振られ、ニーニャは慌ててエリーの服を引っ張る。
「あらあら、すみません。早くいきましょう。じゃあ、行ってくるわ」
「はい。では、お気をつけて」
扉を閉め掛け、エリーは思い出したように室内へと顔を覗かす。
「あと、ニーニャは体調が良くないみたいだからそっとしておいてあげて」
「あら、そうなんですか。確かあの子、今日はお休みだったはず。ついてないわね」
「ほんとにねぇ。………必要なものは大体部屋に揃えておいたから、大丈夫だって言ってたわ。ゆっくり寝たいから、部屋には近づかないようにお願いしておくように言われたの。扉にも一応書いといたから、よろしくね~」
ぱたん、と扉を閉める。
エリーとニーニャの部屋の戸。ニーニャの筆跡をまねたエリーの字で、「療養中。そっとしておいてください」と書いたメッセージボードが小さく揺れる。
エリーに厩へと押される中、先ほどの会話と、自分が出てくる前の部屋の様子を思い出しニーニャはハッとする。
(だからあんなに、水や果物や氷枕が………)
足の速い馬を連れてきて、エリーは「さて」とほほ笑んだ。
「折角だし、王都に行きましょうか」
「ふぁ、ふぁい………」
満面で、しかしどこか怒っているようなエリーを前に、ニーニャは諦めたように涙目で頷いた。
***
(うーん。首の後ろとか肩が違和感。変なポーズで寝ちゃったからなぁ)
ぶら下がった形で寝ていただけに、あまり首には良くない姿勢だった気がする。アルベラはゆっくり、体を解すように鳥の足の中もぞつく。
降りる途中、以前に一度見たことのある、石造りの小さな塔が目に入る。アルベラがそれの上を通り過ぎる際目で追うと、塔の下にシカの首が備えられているのが見えた。木々の影に、その首を備えたであろう人影も偶然とらえる。
(あれ、人が供えてたの? それとも人の形の何か?)
一瞬木々の影に潜むものと目が合ったような気がした。
そのものはこちらを見上げ、笑むように白い歯が覗く。
アルベラはそれを見えなくなるまで見届ける。多分相手も、じっと、木々の影から身動きせずに、上空を通り過ぎていくこちらを見つめていた。





