410、ブレントの行方 2(スーの活躍、蟒蛇の悪夢)
『残念だったな。俺の方が早かったようだ』
外から身の震えるような音がし、スーは窓から離れようとした。だが、感じ取った流れに彼女は咄嗟に体を強張らせ足に力を入れる。直後に窓から吹き込む突風。床に背中から倒れこむアルベラ。
自分が敵いもしない何者かの侵入に驚いたスーは、恐怖と混乱から夜の空へと飛び立っていた。バサバサと夜風を叩きながら彼女の頭に慣れ親しんだ数人と大好きな一人の姿が浮かぶ。一方はアルベラと共にいるいつもの数人、一方は傍いるととても落ち着く黄緑髪のヌーダ。悩むまでもない。今自分に必要なのは強者だ。
『いい? スー、ここがニーニャの部屋。――ここがエリーの部屋。ガルカの部屋が……男性棟だから少し離れてるんだけど……。うーん……こんなに連れまわして大丈夫? ――スー、どう? ちゃんと覚えられてる?』
それは動物に詳しいキリエの助言によるものだった。アルベラにより数回、そしてニーニャにより定期的に、スーは何かあった時の避難所として訪れるべき場所を教えられていた。
「『誰か』、『誰か』」
あそこに行かなければ。この音を届なければ。
先ほど吸収した音をこぼしながら、スーは真っすぐに使用人が控える学園の宿舎棟へと向かった。
「よーし! じゃあ今週も無事終えた働き者の我らを存分に褒め称えようじゃないか!」
皮の胸当てをし、腰に短剣を下げた女性が酒のつがれたジョッキを持ち上げ声を上げる。
「もー……なんでまた私の部屋……」とその隣のメイド服の女性が不満をこぼした。
更にその隣。不満をこぼした彼女とは少々異なるデザインのメイド服を着て、眼鏡をかけた女性がピシャリと「『私たちの部屋』でしょエマ」と訂正する。
「もぉー! そうねメアーリ。で、あなたはなんとも思わないの? そろそろ皆の部屋に上げてくれたっていいじゃい! ね!」と同室の彼女、エマは唇を尖らせる。
「仕方がないじゃない。姐さんは腕相撲に勝たなきゃ部屋に上げてくれないっていうし、ブライアは本当にあるかもわからない機密書類で『見たら首が飛ぶ』とか脅すし、高潔なアイラーノ様の部屋に私たちのような下賤なものが足を踏み入れるなんて失礼でしょ?」
「高潔と思ってるなら普段の態度を改めなさいよ! 学園内ではあんなに猫を被っておいて!」
貴族から言わせると平民の使用人ごとき、であるというのに、貴族からの罰を恐れてもいないようにひょうひょうと自分を揶揄うメアーリにアイラーノは肩を震わせた。
「あらまぁ。アイラーノ様ってば。男爵家の長女ともあろうお方がそんな簡単に感情的になって。本当に可愛らしいんだから」
「メアーリ……あたってば本当に……人から散々巻き上げておいて……」
「ふふふ。アイラちゃんてば、勝てないのに何で勝負に乗っちゃうのかしらね。本当に可愛いんだから」と二人に挟まれて座るエリー。
「ちょっと、姉さんまで――」
「――よーし! 場も盛り上がってきたことだしカンパーイ!」と胸当ての女性。
「勝手に完敗してるんじゃ」と声を上げる騎士を無視し、他の四人も「カンパーイ!」と声を上げジョッキをぶつけあった。
「あんたたち、今に見てなさいよ! 乾杯!」と無視された騎士は豪快に酒を飲み干す。
「あらまぁ……アイラったらまたそんなに飲んで。自らメアーリのカモになりに行くようなものなのに……」
この中で一番若い使用人、エマは呆れた。
「なあなあ姐さん! 今日も一戦良いだろ!? 今日こそ連敗記録を止めてやる!」
「ふふ、いいわよ。けどどうかしら? 私も負ける気がしないの」
細身で肌の白いエリーと、褐色で筋肉質の女性ブライアが床に寝そべり肘をついてこぶしを握りあう。初めて腕相撲をしあった日、この部屋のテーブルを壊してしまったことから二人が腕相撲をするときは床で行うのがこの会でのルールとなっていた。
「始まったわね。私は姐さんに五千リング」とメアーリ。
「私も姐さんに五千!」とエマ。
「ふん! 今日こそブライアが勝つ気がするわ。ブライアに一万よ」とアイラーノ。
「え……?」
「え……?」
エマとメアーリに「信じられない」という目を向けられ、アイラーノは「な、何よ!」と反発する。
「ま……まぁ、どっちにかけるかはアイラの自由だけどさぁ……。けどほら、そろそろ賭けになるならないを無視して、本当に勝つと思う方に乗ってもいいんだよ?」
エマの言葉にアイラーノは返す。
「何言ってるの? 私は本当にブライアが勝つと思って彼女に賭けてるの」
彼女の自信満々な言葉に「……ぶっ、ふーーー」とメアーリが噴き出す。聞いていたブライアは堪らず口を挟んだ。
「おいおい! 二人こそ今に見てろよ! 初日以降私に一銭も賭けてこなかったこと忘れてないからな! アイラーノ、今日こそ勝つ! だから安心して見てろ!」
「ええ! 信じてるわ、ブライア!」
傭兵のブライアに騎士のアイラーノ。剣が仕事の二人は、この数か月合わせ稽古をする機会も多かったらしく、いつの間にか他の三人も知らぬ信頼関係が育まれていたらしい。
エリーは皆のやり取りを聞きながら――いや、負け続きのアイラーノのあの期待のまなざしを見て少々心が揺らぐ。
(うーん……、ちょっとは苦戦する振りでもした方がいいかしら……?)
――だんっ!
「エリー姐さんの勝利!」
「くぅ~~~……ごめん、ごめんよ~、アイラーノ!」
「気にしないで。今日はいい勝負だったじゃない。いつもの鍛錬の成果を感じたわ! あなたは確かに成長してるのよ!」
「ヤッター! 五千リングゲットー!」
「アイラーノ様のお恵みに感謝ね~♪」
結局今日もあの二人に稼がせてしまった。エリーは心の中でこっそりアイラーノに詫びる。
(けどお嬢様の護衛として私も甘くみられるわけにはいかないし……あら?)
窓の外にチラチラと光を反射する何かがいた。「鳥が報せでも運んできたのだろうか」と思ったエリーだが見覚えのある青色に「まさか」と立ち上がった。
鱗に光を反射させるそれは窓の外にぶら下がり、身を揺らして窓を叩いた。
他の四人も気が付き、やり取りを中断し窓の方を見た。そこには既にエリーが立っていた。彼女は窓を開け片手を外に差し出した。
「姐さん?」「お呼び出しかしら」とメイド服の二人。
「なにかあったの?」
とやってきたアイラーノに、エリーはにこりと笑んだ。
「お嬢様のお呼び出しみたい。私はここで退散するわ」
振り返った彼女は腕に青色の蝙蝠を抱えていた。
エマが「あ! 噂のお嬢様のペット!」と興味を示す。エリーはスーの頭を片手で覆う。
「ごめんなさいね。この子についてはまた今度。それじゃあ皆、いい夜を♡」
ひらひらと手を振ってエリーは部屋を後にした。
何もない様子を装ってはいたが、彼女の心臓は不安から鼓動を早くし始めていた。
「『お嬢様の部屋に集合してくれ』」
それはビエーの声だった。エリーの腕の中、スーが窓から入ってきたときに発した声を繰り返す。
「何かあったのかしら」
エリーは部屋を出て人目が無くなると血相を変えて駆けた。
戦闘要員ではないニーニャは呼ぶべきではないだろうが、あの魔族は……すでにこの伝言を知っているのだろうか。気にはなるが、ガルカの元へ声をかけにいく時間は惜しい。だがもしもの時に備える必要もある。エリーは宿舎の外に出ると木の陰で足を止め抱えていたスーを顔の前に持ち上げる。
「スーちゃん、こいつの所にも行って」
エリーがガルカの魔力石を見せるとスーは了解したとばかりに口を開く。
「『お嬢様の部屋に集合してくれ』」
「そうそう。上手になったわね。お礼は後で上げるから、お願いね」
エリーは両手でスーを包み、鳥を放つように空へ投げる。スーはしぶしぶという様子で夜空へと飛び立っていった。
(やっぱり魔族のもとに行くのは動物の本能が拒むのかしら? けどあの様子ならまだ行ってないみたいだし良かったわ)
もしもがあれば戦力が多いに越したことはない。エリーも走り出す。人目のない場所を選びながら全速力で、アルベラの部屋がる棟に入ったらできる限りの速足で。音を殺し速やかに主の元へと向かった。
***
「ふぅ……うぅっ……ぐ……――」
ずるずると皮膚の裏側を撫でられているような感覚にアルベラは身悶えした。
何かを払いのけたいのに体は思うように動かない。
誰も来ることのない真っ暗な部屋。慣れ親しんだ自分の部屋だというのに、誰も来ず声も上げられずで、そこが拷問部屋にでも変わってしまったかのようだった。月明りも途絶え、まるで地下にいるようだ。
首に手を当てようともそこに何かが絡みついてるわけでもない。
くるしい。もうやめて。出てって。
内側に潜む何かがその願いを聞き入れてくれることもなく、彼女が苦しむのをあざ笑うかのように彼女の体内を這い続けた。
やめて。やめて。もう嫌だ。苦しい。辛い。怖い。怖い――
ふと彼女は、自分の頬が涙に濡れる感覚に気付く。
それだけではない。少しずつ、今まで忘れていた表側の皮膚の感覚が戻ってきていることに気付いた。
内側に蛇が這う音も、気づけば小さく遠のいていた。
終わったのだろうか。だがやはり体は重く、気持ち悪さに胃が収縮しているようだった。吐き気を堪えながら身を起こせば、酷いめまいに襲われた。
だがこのまま床を這って行けば扉までたどり着けるかもしれない。
大きく揺らぎ、霞む視界。目を閉じても変わらないんじゃないかと思いながらも瞼を持ち上げ、彼女は良く知る部屋をぼやける視界と勘に頼りながら這った。
誰か――お願い、誰か――
扉にそろそろたどり着いてもいい頃なのに。そう思い目を凝らせば、いつの間にか彼女は何もない暗闇の中にいた。広さという概念も無いようなそこにただ一人。
突如感じたのは絶望だった。
そしてまた聞こえてきたあの音……
嫌だ――
ずるずる――ずるずる――
もう嫌だ――
それは自由の利かない身を、恐怖に押しつぶされそうなちっぽけな存在をあざ笑うかのようにやってきて、その体を締め上げた。
お願い、お願い――もうこんなの――
真っ暗が続く視界にあの大きく半透明な蛇の頭が現れる。蛇はニタリと笑うと有無を言わさず己の口をこじ開けその身を捻じ込み始めた。
「う……うぅ……」
またあの苦しみを耐えろというのか。
恐怖と共に目に涙が溢れる。
――こんなの、いっそのこと殺し
***
「――!!」
視界が明るくなった。
全速力で走ったかのような荒い呼吸に襲い掛かる吐き気と眩暈。
「お嬢様?」
(エリー……)
ほんの数秒前まで抱えていた恐怖が遠のく。
首を捩じる動作も怠く、瞳だけ動かして横を見ればそこにはやはりエリーがいた。
「良かった! やっと目を……。今日は後の休息日、今は昼の二時です。お嬢様は昨晩部屋に倒れていて、スーちゃんがビエーちゃんのもとに行ってその後私を呼びに」
「貴様、何があった。この気配はなんだ」
視界が陰り視線を正面に戻すと、天井を背にガルカの顔が現れた。エリーとは反対側からベッドに乗り上げたのだろう。
「貴様から貴様の物ではない匂いと魔力の気配がしている。部屋には何の痕跡も無いようだがいったい誰が昨晩――」
「あんたっ――」とエリーの手がガルカの頭を押し返し、入れ替わるようにエリーの顔が視界に入ってきた。
「あ、あのぉ……」
と、エリーの奥からニーニャの震えた声。
「お、お嬢様は今はまだ辛そうなご様子ですし、お二人とも今日はこれくらいにしておいた方が……」
(ありがとうニーニャ、その通りよ)
アルベラは安心したように重たくて仕方ない瞼を閉じる。左右から「くっ、」と悔しそうな声が聞こえた気がした。
「お嬢様、何かお食事は必要そうですか?」とエリー。
「……い、い。――けど、水が」
「はい」
口元にガラスだろう冷たい感触が現れる。吸い飲みが充てられたのを感じ、アルベラは薄く口を開く。少量の水が流れ込みは止まり、流れ込みは止まり、要らなくなったところでアルベラは口を閉じた。体内が潤い少しすっきりした気がした。
「もう大丈夫ですか?」
「ええ」
悪夢から抜け出した安心感から、また新たな眠気が襲ってきていた。
アルベラは目を閉じたまま、眠りに落ちてしまう前にと口を開く。
「ニー、ニャ」
「は、はい!」
「……手を、つないで」
「は、はい?」
アルベラの右手が柔らかく温かい手に包まれる。
「起きるまで……傍に、いて。うなされてたら……絶対に、起こし……て……」
すー……とアルベラは眠りに落ちていった。
ニーニャは二人の鋭い視線に刺されながら冷や汗を流す。
「あ、あの……お、お二人ともそんな目で見ないで下さ……」
「あらあら、ニーニャったら、そんな目ってなーに?」
「はっ。ただ見ているだけだが何だ?」
「う、うぅぅぅぅ……で、でもぉ……」
これが針の筵というものか……。ニーニャはアルベラの手を握りながらぽろぽろと涙をこぼす。





