408、地下水路にて 5(もう一つの脱出談)
日の沈みかけた門を馬に乗った二人の女性が通り抜ける。一人は主人、一人はその従者だ。彼らは夕日を背に東を向くと、迷うことなく馬を走らせた。
それを王都を囲う防壁の上から眺める青年が一人。
「行ってらっしゃい」
頭を覆うフードの下。長いまつ毛に縁どられた瞳は煌々と赤く輝いていた。二人の背を見送って微笑むと、彼は壁に背を預け自分の目を両手で覆う。両手で作った暗闇のなか自分の手のひらを赤が照らす様を、それがゆっくりと消えていく様を見つめていた。
「二十時に間に合えばいいけど」
学園指定の門限をこぼし、アルベラは背後に沈みかけた夕日を振り返った。この方向は彼女の故郷の町へと続くものだが、別に家へ帰ろうとしているわけではない。用があるのは家への途中にあるあの塔だ。
視線を前に戻せば目的の雑木林が黒い長毛の奥にどんどん近づいてくる。
彼女が乗るのは真っ黒な大きな背中。コントンの上。人目につかないようコントンは舗装された道から外れた場所を駆け、アルベラはその上でうつ伏せに寝そべるように身を低くして黒く長い霧のような毛の中に姿を隠していた。
風になびくアルベラの髪は水路に流されたのち、くすんだ金色に戻されていた。気を失ったビエーはエリーがおぶり、アルベラはブレントと共にセキレイ園へ一度戻ったのだ。そして気を失ったビエーを園に預け、園長への挨拶もそこそこに、急いで馬を借り王都を発った。関門を抜け東の平原へと出ると、今度はエリーに自分の乗っていた馬を預けて追わせ、アルベラ自身はコントンの背に移り今に至る。できるだけ早く塔につくためにアルベラが思いついたのがこの方法だった。
(ビエーが目を覚ましたら先に学園に戻っておくよう伝えたし、どうせ帰りには馬車を回収しに戻るし。もし彼がまだ寝てても馬車に乗せて帰れば大丈夫。けど、こっちは明日も休日で外泊してる生徒も多いとはいえ寮に持ち込んだら何があるか分からないし……スカートンはまだしもユリが反応することがあれば面倒だし……鼻が利くヒーロー様もいるみたいだしね……今日中に片付けておかないと)
『アルベラ、アルベラ、イイニオイ、オイシイニオイ、アスタッテ様ノイイニオイ♪』
(コントンは私がこの状態でかなりご機嫌みたいだけど……)
コントンのご機嫌のためにこのままにしておく手はないな、とアルベラは謝罪の気持ちも込めコントンの背を撫でる。
気付けば風のように木々の合間を抜け、石塔を中心に開けた空間が視界の中近づいてきていた。同時に肉の腐敗臭も濃くなっていく。
――バウ!
『ツイタ! アスタッテ様!』
コントンが伏せ、アルベラはその背から飛び降りる。アルベラが地面に着地するタイミングでばさりと空を叩く翼の音と大きな風が起こった。
よろけたアルベラが「ちょっと!」と怒りを込め振り返ると地面に降り立ったガルカが翼を閉まっていた。
「転ばないだけ成長したな」
とあざ笑う魔族を一瞥し、アルベラは塔のそばへと行く。
(最近誰かがお供え物をしたみたいね)
他の動物に食い荒らされた、鹿の腐った頭部。そしてその周辺にもウサギや馬、鳥といった何かしらの頭部の骨が散乱していた。それを見ればこの付近にも魔族が住み着いていることが見て取れる。それはこの平原、王都、ディオール領――『そのどれもにいることだろう』と前にガルカが言っていた。
(匂いがついちゃう。早く終わらせよう)
アルベラが塔に手を触れる。
なんてことはない。小さな風が起こり、アルベラの髪や服が小さく持ち上がって終わりだ。
あの真っ黒な霧が渦を巻き起こすことも、塔が光り輝くこともない。ただアルベラ自身が、何かが自分の中からなくなったという感覚を感じるのみ。快感も不快感もなく、有ったものが無くなったらしいという漠然な感覚だ。
「終わったな」
「ええ。早く帰りま……」
足元を見てアルベラはぎょっとする。
古い石作りの塔の根本。小さな隙間から一匹の蛇が顔を出していた。何を考えているのか分からない小さな丸い目にアルベラを映し微動だにしない。
とびかかってくる気は無いようで、小さな頭部だけを外に出しアルベラを見上げていた。
「どうした」
「い、いえ。行きましょう」
叫ぶほどではないが突然の蛇は心臓に悪い。アルベラは塔から手を放し、そっとその場から離れた。
「お疲れ様。今日もお勤めかい? ベーラ様」
借りていた馬を返し、セキレイ園で待機していた馬車を回収し、エリーと共に学園へ帰ってきたアルベラへ声をかけたのはラツィラスだった。今しがた学園の門を通ってきたであろう彼は、馬の上から声をかけると二人の傍で地に降りる。アルベラの髪は紫に、瞳は緑に戻っているが服はローブに覆われている。他の生徒たちから見たらただの外出用の姿に見えることだろう。
「ええ、ご想像の通りです。――殿下」
「ん?」
「今日もお祈りですか?」
「うん」
二コリとラツィラスは答える。
アルベラは「そうですか」と呟くように返し、顎に手を当て数秒の間を開けたのち再度尋ねた。
「もしかして地下水路にいたりしましたか?」
ラツィラスは目を丸くする。
「どうしたの急に」
また数秒、アルベラは考える。
「……今日、いろいろあって王都の地下水路に潜る羽目になりまして」
「ふふふ。またどんな羽目にあったらそんなところに? 聖女様の命令かい?」
アルベラは慎重に目の前の王子様を観察する。知らないのだろうか。彼ではないのだろうか。
「聖女様の命令ではありませんが、例のお勤めの最中偶然迷い込むはめになったんですよ」
「へぇ。君が無事にこうして戻ってこられたようでなによりだよ。と言っても王都の地下水路ならこの国の他の水路に比べたら段違いに安全だろうけど。けど気を付けて。悪い人たちが網目を縫って忍び込んだりすることもあるみたいだし」
「――殿下」
「……?」
「今日そこで私と会いませんでしたか?」
ラツィラスはふっと笑って目を細めた。夜の庭園を照らすために灯る石が美しくその横顔を照らしていた。
「いいや。僕は今日、君と会ってなんかいないよ」
自室に戻ったアルベラは戻り際に買ってきた屋台料理を食べながら考えていた。先ほどの王子様の返答に、地下水路でこちらを見ていたあのフードの人影。
相手が相手なら、先ほどのあの庭での微笑に魂を抜き取られてしまっていたかもしれない。
(なんて嘘くさい笑顔……)
そしてさらに記憶をさかのぼり、アルベラが気になっていたのはあの水路から流れ出ていた血――
「ニーニャ、ビエーを呼んできて」
「公爵家のお嬢様に露店の食事をとらせてるなんて……お屋敷には絶対報告できない……」とアルベラの食事を心配しながらも、言われるがまま紅茶の準備をしていたニーニャは肩を揺らす。
「ひゃ、はい!」
ぱたぱたと部屋を出ていったニーニャを見送り、アルベラはソファーで寝そべる体たらくな奴隷に尋ねた。
「ねえ、エリーとブレントさんが水路に入っていったあと、水路から血が流れてきたじゃない?」
エリーは初耳だと「あら、そうだったんですか?」と呟く。
ガルカはちらりとアルベラを見ると「そんなのもあったな」と興味なさそうに爪をいじっていた。
「あれ、あの時はタイミング的に先に行ったエリーかブレントさんの物か、入ってすぐの兵士達の物かと思ってたんだけど」
「まぁ、お嬢様! もしかして私のことを心配してくださって――」
顔を寄せてくるエリーの頬をぐいっと押し返しアルベラは続けた。
「けど、エリーもブレントさんも無傷だったじゃない? で、先に行った兵士たちは、確かに仲間割れで負傷者もいたけど、タイミング的にはもう少し時間がかかってからでしょう? 中に入って、進んだ先で金貨を見つけて、集めて、仲間割れ――。どう考えても私たちがあの血を見た辺りって、まだ彼らが水路の中を奥へ進んでる最中か、金貨を見つけて拾い出したあたりな気がするの」
「ほう――貴様のスカスカな頭で良くそれに気づけたな」
「は……? ちょっと、まさかあんた気付いてて言わなかったわけ?」
「気づくも何も、目にして匂いを嗅いだんだ。あの血がそこの化け物の物でもあの雑魚たちの物でないことくらいすぐに気づく」
化け物呼ばわりされたエリーがフォークを放ち、ガルカはそれを自身の頭すれすれで指二本で防ぐ。
「じゃああの血って?」
「貴様も見ただろう。あの場所には俺たち以外にも誰かがいたんだろ」
***
薄暗い水路の中、魔術や魔法が禁じられた場所でラツィラスは息をひそめていた。
「これで全部か。――来い」
よく知る――と言いたくもないが、一応血を分けたその人物の声にラツィラスは意識を集中する。
そこはアルベラたちが流された場所よりも幅があり天井が高い水路。城の敷地の地下に位置する場所だった。ランプが灯された場所には小舟が二つ浮かべられていた。数人が船から降り、代わりに重たいものが船へと乗せられていく。赤い瞳は、水路の突き当りの影で息を殺しその様子を見つめていた。
スチュートの姿は見えないが先ほどまで確かに気配はあった。彼は従者たちと共に、先ほど船から降りた人々を連れて水路からは立ち去ったようだ。残った者たちは生者達の代わりに置き去られた荷物を船に乗せていた。
――ボチャン!
「おら!気を付けて運べって言ってんだろ!」
「す、すみません!」
バシャバシャと数人が水の中に入り、先ほど落としてしまったものを何とか引き上げて船へと乗せていた。
ラツィラスは自分の足元へ目を向ける。川上であるあちらから、ゆっくりと真っ赤な血が水と共に流れていた。
耳は小舟に荷を積む彼らのやり取りへ向たまま、目はなぜかあの血の行く先に引き付けられていた。何かの気配を感じて、何かを見届けなければと、彼は事前に魔術を施し夜目が利く視線であの血の行く先を追っていた。見えるぎりぎりの距離を保ちながら、釣られるようにその流れを追う。
こんなことをしている場合ではないだろうに、と思っていたラツィラスだったが、突然と見えなくなってしまった赤い流れに目を見張った。どういう事かは分からないが、別の水路と合流する地を境に薄れるでも流されるでもなく、あの血が流れる水が丸ごと消えてしまったかのように見えた。
二つの小舟に二人の番人が残され、他の者たちが梯子を登っていくやりとりが聞こえる。
(……ここに、こんなT字路は無かった)
癒しの教会の敷地。彼が小さい頃に知った「地下水路への入り口」へ戻る道はいつの間にかなくなっていた。代わりに全く見知らぬ水路が続いており、奥から聞こえてくる水の流れる音もなんだかつぎはぎのようで不自然だ。
ラツィラスは足音に気を付けながら水の流れが変わったT字路へと進んだ。水の合流地点は、今は前からそうであったかのように水と水がぶつかり合い同じ流れとなって川下へと流れていく。
さっきの現象は一体……。
周りを見渡し、自分の両手を見下ろし、魔力を封じる魔術が機能していることを確認する。
(……)
数秒の思考後、ひとまず今は運よく目撃できたあの現場を見届けようと先ほどの場所へ戻ろうとした。角から角へと移るだけの簡単な移動。
(……!)
待て待て、と心の中で声を上げ、自身が立てる音も気にせず駆けていた。それはもう手遅れだとわかったうえでの行動だった。
先ほどの角に立ち、隠れることもせず水路の先を眺める彼はため息をついた。
「……まいったな」
先ほどまで船の浮いていた場所は一回り狭く古めかしい水路へと変わっていた。
(まさかこっそり入った水路で迷子になるなんて……ばれたら大ごとだな)
気まぐれで忍び込み、あの現場に立ち会えたまでは幸運だと思ったのだが。――いいや、だがこうしてこの現象に気付けたのは幸運だった。あの血を追わず、この現象に気付かないまま帰り道とは全く異なる水路に足を踏み入れていたら、脱出の難易度は今よりさらに上がっていただろうから。
(これが誰かの仕業なら、この現象が止まるのを待つか、元に戻るのを待つか……。こんな大掛かりな技、どんな大魔法使いでも一日保つのは難しいだろうし)
とりあえずむやみやたらに移動するべきではないだろう、とラツィラスは壁を背にその場に座り込んだ。小さなカバンの中から昼光石を取り出すと、つぎはぎとなった水路の流れを眺めながらどうするかと考えた。
「で、少したって水の音と景色が戻ったのを確認して出てきたってわけ。いやー、焦ったよー」
「お前……! なんでそう勝手するんだよ!」
能天気に本日の珍事件を報告する主人にジーンは声を荒げた。
「今回は運よく出られたからいいものを……ギャッジさんかなり焦ってたんだからな!! 自分の立場わかってんだろ!!」
ジーンはいつも通り紳士な様子で第四騎士団の訓練場を訪れた有能な執事の姿を思い出す。普段の彼は言葉を噛むことも舌を無こともそうないのだ。そして走って服や髪が乱れようとも瞬時にそれを直すので、それを人目につかせることもない。そんな彼が今日ジーンのもとを訪ねた時、僅かに髪の乱れを残し、上着の裾に皺を残していたのだ。心なしか視線も少々落ち着きがないように見えた。
「ごめんごめん。次は気を付けるから。神の思し召しってやつ? 今行ったら何かあるかもって思って」
「そう言って入った洞窟で子持ちの魔獣と遭遇して追い回されたことあったの忘れたのか!? そのはた迷惑な自信をいい加減なくしてくれ!」
「わぁ、懐かしいなぁ。けど実際あの魔獣は雌雄のない種だと思われてたから卵生であることも含め凄い発見だってカザリットが言って――」
「んなのどうだっていいんだよ!」
がたん、と乱暴に椅子を動かす音と、「ふー……」という深いため息。ラツィラスが親友に目を向けると、ジーンは椅子に座り天井を仰いでいた。顔には先ほどまで頭を拭いていたタオルが被せられている。あれで怒りを冷ましていのだろうか、それとも自分の顔を見たくないくらい呆れているのだろうか、とラツィラスは少々申し訳なくなる。
「せめて俺かギャッジさんに一報送っといてくれれば良かっただろ……」
「本当そうだよね。焦っててつい」
「何が『つい』だよ……護衛対象が勝手に動き回ったら護衛する側が何人いたって足らないだろ……」
さっきの怒気はどこへやら。ジーンはこの一瞬で空気が抜けたのかのように脱力しそう言った。まるで拗ねてるようだ。
「……ごめん、ジーン。僕も君たちにはちゃんと感謝してるよ。地下水路でのスチュートの件も、本当なら別の日にこちら側の人を送って調べてもらう予定だったし」
「けど勝手に動いてんじゃねーか」
「そうだね。気を付けるよ。……僕に何かあったら君は酷く責められるだろうし、今日みたいに直接関わってなくても無理やり罪を擦り付けられて責任を取らされかねないしね」
「――そうだな……」
(うーん……)
勝手をし過ぎてしまったようだ、とラツィラスはタオルを被った友を眺め考える。謝罪はした。次から気を付けるとも伝えた。とするとあと自分にできることは何があるだろうか、と相手の動きを待ちながら考える。
(水路から出るなり鳥が十二羽も飛んできたもんな。ジーンはわざわざ訓練を抜けて……護衛で教会までついてきていた近衛隊に、ギャッジにアンネにリトゥーブにユナも……皆いろいろ探し回ってくれてたみたいだし……)
「――それで、あいつにはどこまで話したんだ?」
ジーンがタオルを下ろして不機嫌な目をラツィラスに向けていた。
「あいつって、アルベラの事かい?」
「ああ」
「何も言ってないよ。地下水路で僕が彼女に会ったか聞かれたから、今日は君に会ってないよって伝えただけ。スチュートの事は……まぁ程々にだけど、あの人の事は彼女には話さないことに決めたから。――この件に関して、僕は君やギャッジ達以外の人の手は借りなくていいと思ってる。だからジーン、君もそのつもりで頼むよ」
「……ああ。俺はもともと協力者を増やすのは反対だったし」
「ふふ、なんだ、そうだったんだ」
「だから――もう二度と今回みたいに人の仕事を増やすようなことをするなよ」
また怒りが再燃しかねない瞳にぎろりと睨まれ、ラツィラスは「わかったよ」と肩をすくませた。
「けど、アルベラはなんでまた地下水路になんて迷い込んだんだろうね。それについては今度ちゃんと聞いておかなくちゃ」
くすくすと笑うラツィラスに、「本当お前らは……なんでこう好き勝手……」とジーンが疲れをにじませた声で文句を垂らす。





