403、一仕事後の夕食 4(楽しい香水)
夕食を済ませたアルベラは学園寮へと戻った。
『ビエー、あなたは部屋の外でまってなさい』と聞こえてきたお嬢様の声に、部屋の隅の椅子に座ってうとうとしていたニーニャははっと目を覚ます。
顔を上げればいつの間に来ていたのか、ガルカがソファーで仰向けに寝転んでいた。その金色の瞳が扉を見たついでにニーニャへも向けられすぐに興味なくそらされる。
(ガルカさんいつの間に……)
ニーニャは扉の横に待機し、主人が入ってくるのを待った。
「――帰ったわよ」
「お嬢様、お疲れ様です」
ニーニャの気の抜ける笑顔に迎え入れられたアルベラは、どこかむすっとした表情をしていた。「おや? お嬢様の機嫌がわるいぞ?」とニーニャは感じ取り、「何かありましたか?」と笑顔で尋ねる。それもこれも夕食時のビエーの生意気な発言がまだ尾を引いていたからだが、それを素直に話すアルベラではなかった。答える代わりに緑色の瞳はほんのりと灯りをともした。
(これは……よくわからないけど、憂さ晴らしに使われる前に早くこの場を去ったほうがいいかもしれない……)
とニーニャが思ったのものの事は遅く――
小さな瓶がニーニャの顔の前に取り出されるとともに、シュッと短い音を上げ複雑な甘みと酸味を感じる香りが空間に広がった。
「……ふぁ? ななな、なんですかいきなり!?」
ニーニャは今までの経験からあわてて鼻を抑える。
「どうからしら? カザリットからお土産でもらったんだけど」
「カ、カザリット様……というと確かジーン様のご親戚の? ふ、ふふ……」
「ええ。しばらく王都を離れて離れてたんだけど、最近戻ってきたみたい。そのお土産。……そうそう、エリーは今そっちで飲んでるから帰りが遅くなるかもね」
「そ、そう……うふふ、なん、ですね……ふふ、ふふふ」
そんなつもりがないのに、なぜか緩んでしまう表情にこぼれ出てしまう笑い声。ニーニャは思い通りにいかない自分の顔を両手で包み込む。
「お、お嬢様……ふふ……こ、これは……は、はは、ふふ、ふ……」
ニーニャの様子を前にアルベラは「ふむ」と腕を組んだ。
「笑いの効果みたいね。――眠気も痺れもない、か。これはまだ持ってないわね。カザリットったら、いいものくれるじゃない」
「お、お嬢様……また私を実験に……ふふ、ふふふふ……あははは、ひ、ひどい、ひどいですぅ~、あは、あはは、あははははははは! ふふふふふ」
「ニーニャ、今どんな感じ? 笑ってるのは顔だけ? それとも心の底から面白いの?」
「ははは、もう、よくわかりません。っぷ、あははは……見るもの全部面白くて……ふふ、ふふふ……!」
「気分まで上げる効果か……薄めて使ってみようかしら」
「お、お嬢様……あの、これ、どれくらいしたら消えます、か、はは……ははは」
「そうね……今までの経験からすると香りが弱まるのと一緒に効果が切れていくのが多いけど……、早いので数十分、長いので6時間前後かしら」
「6……!? あはははは! 6時間もこんなに笑ってたら死んじゃいますぅ~、ははははは」
「私がニーニャを見殺しにするわけないでしょ。ちゃんと死にそうになったら回復薬を飲ませてあげるわ」
「お嬢様のいじわる~! あはははははははは」
笑い転げるニーニャを眺めながら、アルベラは「なんでこの子自分の魔力で打ち消そうとかしないんだろう」と考える。今までの経験から魔法での効果は魔力で抗うことができると知っているはずなのに、忘れているのかそれができないほど思考が ”笑い” に支配されてしまっているのか。後者であればこれは結構恐ろしい効果なのでは、とアルベラはもらった香水を眺める。
「――あははははは……ふふふふふ……」
「たっだいま戻りましたぁ、おっじょうっさまぁ~♪ て、あら、ニーニャ?」
ほろ酔いで気分がよさそうなエリーが帰宅すると、楽しそうに笑い転げるニーニャと、それをしゃがみこんで眺めるお嬢様の姿にエリーは目を丸くした。
「お嬢様ったら酷い! 私を置いて行ったと思えばニーニャと浮気だなんて!」
「あぁー、もう、うるさい。そんなことはいいから……ほら、ニーニャ、そろそろ落ち着いて体の中の魔力に集中しなさい。中から外に膜を広げるように……」
「ふふ……膜だなんてお嬢様ったらもう……♡」
――ぱしゃん、とエリーの顔目掛け水を放つ。
「ほら、魔力の波を体の外へ送って」
「あぁん、これってもしかして顔――ごぼごぼ……」
さらに余計なことを言いそうなエリーの口元を丸ごと水で覆いアルベラは落ち着いてきたニーニャの背をさする。
「お疲れ様。もう今日は切り上げていいから。ほら、そこの変態も……いや、エリーはまだいいわ。あっちの話を聞かせなさい。……あと、戻るときはビエーにも声をかけて下がらせて」
徐々に笑いから解放され、涙目で呼吸を整えるニーニャ。彼女は身勝手でマイペースなお嬢様に猛抗議の視線を向け頬を膨らませている。まるでリスのようだとアルベラはその頬を指でつつく。
「……お嬢様ってば……本当に……ほんとうに……!」
「ほらほら、今日のことはお給金に上乗せしておくから」
「………………………………お嬢様のいじわるっ!」
「お給金の事絶対忘れないでくださいね!」と言い残しニーニャは部屋を出ていった。廊下でビエーに声をかけ、ともに付き人用の宿泊棟へと去っていったようだ。
「さすがニーニャね。かなり気が晴れたわ」
アルベラはしゃがんだまま、どたばたとニーニャが去っていった扉を見つめた。
そのあとアルベラはラーゼンについて貴族との会議や領地内の視察に連れまわされたガルカの愚痴とエリーの土産話を聞いた。ガルカの話からは父は相変わらず元気そうだということと、母も屋敷で変わらず立派な『公爵夫人』を勤めていることを確認した。エリーの話からは、『酒の実』にいた白い生き物はやはり聖獣だったことが確認できた。聖獣の名前は『キューイ』というらしい。羽毛を持つドラゴンで、随分人懐っこいようだ。エリーが触れることも許したそうだが、鼻をムズムズさせよくくしゃみをしていたという。その話を聞き、アルベラは「やはり体臭か……?」と思ったが口にすることはなかった。
その後土産話も十分となったところでアルベラは二人を解散させた。ソファーで寝ようとするガルカをエリーが腕力をもって退室させ部屋は静かになる。
自室の浴室で汗を流すと、アルベラは髪を乾かしベッドに大の字で倒れこんだ。
この給食日の労働は少なくとも中期休暇までは続くはずだ、とアルベラは考える。それまではあのドレス事件以上の問題はユリとの間に起こらない。多少の嫌がらせはあれどちょっとした嫌味を言ったりつま先をひっかけたり程度の小さなものだ。
(ユリはその一つ一つを聖女に報告するような性格ではなさそうだし、とにかく無難にやり過ごしてこの労働から抜け出して……)
考えている間にアルベラは心地良い眠りについていた。小さな寝息が聞こえ始めると、コントンが影から顔をのぞかせる。
『アルベラ ネタ』
と見たことをそのまま呟き首を傾げた。「人間たちはよくこうしている」という見よう見まねで、コントンは布団を咥え、それをアルベラの上に不器用にかぶせ一人散歩へと出かけるのだった。
***
「そろそろ本格的に中期テストに備えないとかぁ」
学園での日々と週二日の孤児院でのお勤めをこなすこと早ひと月。中期休暇も目前と迫っていた。
週末の授業を終え、アルベラは制服から私服へと着替えていた。
「もうそんな時期ですか。月日が経つのは早いわぁ」
と寝具を整えるニーニャを手伝いながらエリー。
ニーニャは「中期テストですか? まだひと月先ですよね。もうですか?」と尋ねる。
「ほかの使用人の方から聞きましたが、二週間前から準備される人も多いようですが」
とニーニャ。確かにそうだ。卒業したいだけ、必要最低限の点数を取るだけなら一~二週間の準備でも足りるだろう。特異な科目や苦手な実技があれば普段からの修練は欠かせないが、体術や魔法、魔術系の実技に関してはアルベラは日ごろからエリーとの朝練があるため心配していない。心配なのは座学の方だ。
(前世で一度成人してるとはいえ、かえってそれが混乱するんだよな。世界の法則があちらと違うから混乱するときがあるし……計算なんかは基本が同じだから助かるんだけど……)
アルベラは脱いだ制服をエリーに奪われる前にとニーニャに押し付け人差し指を立てた。
「いーい? 二週間前から準備をする人たちには四日も休息日があるの。私は休息日が勉強に充てられるなんて思えないもの。あの聖女のことよ。きっと試験前だろうと変わらず『罪滅ぼしの善行は行うべき!』だのなんだの絶対言うに――」
「――『試験前だからと言って贖罪のお時間を疎かにするのはいかがなものかと思いますわ』とのことです」
後の休息日(日本での土曜)の午前。癒しの聖女の使いで養護施設へアルベラの様子を見に来ていたパンジーが淡々とそう伝えた。それは数日前に聖女に充てて送った手紙に対しての返答だった。
(あの性悪……学生の苦労も知らないで……)
笑顔に怒りの影がかかるお嬢様。
「ですが……」と口もとに手を当て、自分の言葉を隠すようにパンジーは続ける。
「聖女様は施設で試験勉強をすることは禁止されておりませんでした」
「――!?」
どんな風の吹き回しか。聖女側の人間であるパンジーが、気づかいからか聖女のいじわるな対応をあんまりだと思ってか、アルベラに抜け道を示す。
(怖い顔していいところもあるじゃない……)
と目を丸くするアルベラにパンジーは視線をそらし「こほん」と咳をした。
「では私は少し様子を見たら教会へ戻りますので」
「はい、ありがとうございます」
何もなかったようにすたすたと去っていくまっすぐな細く白い背。アルベラはいつの間にか神や仏に感謝を表すように胸の前で両手を組みその背を見送っていた。





