399、ピクニックとおふざけ 4(池の水)
「マディソン? ……お、おい、どこだよ、マディソン!!」
ケイリーが声を上げる横で、アルベラの頭の中は真っ白になっていた。翳していた手のひらから血の気が引いていくのを感じる。ぐわんぐわんと耳鳴りのような感覚と思考の鈍りはすぐに自覚した。
「――!」
しっかりしろと自分に言い聞かせ、アルベラは己の防壁を叩きつける触手を見やった。
(マディソンが持ってかれた?)
どこに? 目の前に広がる水面の底に?
彼はいつまでここにいたか、彼が引きづりこまれてどれくらいたったのか。アルベラは動きがのろくなった頭を何とか働かせ考えた。だがその思考は散らかってまとまらない。
(――飛び込む? けど水の中で魔獣を相手にできる自信はない。――ていうか”いつ”? さっきまではまだここに……私が防御するのと同時? 魔法を展開する瞬間? 意識がそちらに集中した隙をついたっていうの? 本体を叩くには? ケイリーをここから抜け出させて――けどそれじゃあマディソンがもたない――)
連撃はアルベラの防御の手を緩めさせる隙を与えない。
バシャバシャと鳴りやまない激しい水音の中、ケイリーはアルベラの足元で怯え身をこわばらせていた。
(駄目だ。いま魔力を攻撃にあてたら壁が破られる)
アルベラは足元の”気配”を手繰る。
(コントンは――やっぱり、いない……!)
あの頼もしい番犬は、神の匂いが近づくや否や、音もなくその場を離れてしまっていた。普段なら微笑ましい彼の奔放さが今この場面では悔やまれた。
となると――
アルベラは息を大きく吸い込んだ。
「エ――」
「お嬢様!!」
「エリー!」
丁度名を呼ぼうとした人物が駆け付けていた。姿が見当たらない。防御が薄くならないよう気を付けながらアルベラは辺りを見回した。
「上です! そのままもう少し耐えてください。こんな魔獣私が引っこ抜いて差し上げます」
「エリー、マディソンが! マディソンが引きずり込まれた!!」
『殿下、加勢いたしましょうか』
ラツィラスが懐に忍ばせていた通信機からそんな声が聞こえてきたのは、アルベラへ向け池の中の魔獣が連撃を始めてすぐだった。その声はラツィラスにしか届かないくらいの音量に潜められていた。
まだ魔獣が現れて数分も経ってない。護衛として、その反応はやはり優秀だと言えた。
(けど……)
聞こえた言葉と共に赤い瞳があたりに視線を走らせる。そこに素早くも既に駆け付けている二人の姿を捕らえた。エリーとビエーだ。彼らの反応速度もなかなかな物。
(あの二人がいるなら騎士の助力は必要ないか)
感心しつつラツィラスは小声で答える。
「まだいいよ。様子を見て加勢が必要と感じたら手を……」
「――マディソンが引きずり込まれた!!」
「……」
アルベラがエリーへと放った言葉。それがラツィラスの元にも届いた。
前方左右から攻撃を受ける水の防壁の中、言われてみれば少年の姿が一つない事にラツィラスは気づく。
――一体いつ? 早く水中から引きずり出さなければ。
そう思考し、ラツィラスの体は東屋へと踏み出していた。
『殿下?』
通信機の声が何をするつもりかと問う。
「大丈夫。この子達を見守ってて。――二人とも、絶対にここを離れないでね」
身をすくませているシャロウとチェルシーを身を潜めた護衛達に任せ、ラツィラスはアルベラの元へ駆け寄った。
東屋の屋根の上、エリーが魔獣の触手を幾つか捕らえていた。魔獣はエリーを強敵と捉え、アルベラへの連撃の手数がぐんと減った。
いくつも放たれてる触手。だというのにそれらの中に子供を掴んでいるような物は無い。
(早くあいつを地上に引っ張り上げないと)
「このロリコン触手がぁぁぁ……さっさと諦めて出て来いやぁ……」
エリーの唸るような声と、東屋の屋根から柱にかけて木材が軋む音が聞こえた。アルベラの位置からエリーの姿は見えないが、いくつもの触手が東屋の屋根へ向け弦のように張っているのを見るに、エリーは押されてはいないのだろうと予測した。
事実、エリーは魔獣に押されてはいなかった。自分に放たれた触手を片っ端から掴みとり束にして、魔獣を陸に引っ張り上げるのも時間の問題だった。だがその力に、エリーの足元を支える東屋が悲鳴を上げていた。
このままでは先に東屋が崩れてしまう。そして、そうしている間にもマディソンの蘇生が間に合わなくなってしまう。
(まずい――)
「アルベラ!」
聞こえた声にアルベラは振り返る。
「で、ケブ! 何で戻って来たんですか!?」
防壁の向こう、絶え間なく揺れる水の向こうにラツィラスが居た。
「いいから、防御はこのまま続けるんだ。久しぶりだけど、”コレ”見てわかるよね」
ラツィラスが両手の指先を合わせている。正しくは親指と人差し指と中指。その真ん中には三角形の空間ができていた。
それはアルベラが見るのは随分と久しい、ラツィラスの「補助」の力だった。
「君と僕であの子を助けるんだ。落ち着いて、魔力に集中して。準備が出来たら君は今すぐこの水を――」
(……207……208……209)
触手を掴んでいたエリーは、マディソンが捕まったという報せから頭の中時間を刻んでいた。
自分がここへきて三分は経過していた。となるとマディソンはそれ以上前に水に引きずりこまれたこととなる。なら既に五分は経っているはずだ。
なんの防御の術も持たない子供なら、当然もう意識はなく呼吸も止まっているはずだ。その状態で蘇生が叶う時間はいったいどれほどのものだったか――
(早いに、越したことは無いんだけど)
半分以上の触手はエリーが掴んだというのに、保険をかけているのか警戒からか、魔獣はアルベラへの攻撃をなくすことはしなかった。
ビエーは、エリーが触手を抑えている間に池へ飛び込んだはずなのだがまだ出てくる様子はない。
(私の魔法じゃ池ごとなくなっちゃうし、姿が見えない魔獣だけを狙うのは……)
「このロリコン触手がぁぁぁ……――!?」
打てる手を思考するエリーの目の前、池の水位が突然に上がった。
(違う――)
水が量を増したと感じてすぐ、量が増したわけではなく池の水が丸ごと宙に浮いたのだとエリーは気づいた。
水はエリーの目の前を通り過ぎ、その頭上程で動きを止めた。
水が無くなった池の底では魚が跳ねまわっていた。その中にひと際目立つのがあの魔獣の本体だ。牛程のサイズはあるヒトデのような形をした体が必死に地を掴んでいた。その背には手を焼いたあのいくつもの触手。
そのそばにはマディソンをわきに抱えたビエーの姿があった。彼は捕まったマディソンを見つけるとすぐに保護の魔術を展開し彼の身柄を確保しにかかっていた。触手からマディソンを奪い取る事に成功するも、魔獣に行く手を阻まれ水の中足止めを食らっていたというわけだ。
水が無くなると、それはアルベラへの攻撃をやめ自身の身を守るように放っていた触手で本体を覆った。しかしエリーが掴んだ半分以上は取り戻すことができない
「ビエー!」
「ビエーちゃん!」
とアルベラとエリーが叫ぶ。
二人の呼びかけよりも先に、陸となったそこでビエーは動いていた。魔獣へ距離を詰め腕を振るう。風が放たれそれは刃となって魔獣の体を両断した。
「おみごと!」
ラツィラスがそう言うのとアルベラが水の防壁を解いたのは一緒だった。
後ろに立つラツィラスをちらりと見やり、アルベラはいろいろとある言いたいことを飲み込んでまだ残っている自分の仕事に取り掛かる。
(どいう事だ?)
ビエーは頭上に浮かぶ大量の水を見上げる。
一流と呼ばれる殺し屋たちの手を搔い潜っただけでなく、その全員を生け捕りにしてしまったあのお嬢様。
(いくらやんちゃとは言え、あのお嬢様にこんな魔力はなかったはず。まだ何か裏の手を隠してるのか?)
「ビエー」
噂をすればだ。
「水を戻すからそこからどきなさい」
「おおせのままに」
ビエーはマディソンを抱え東屋の方へ向かう。
ぬかるみから抜け岸へ上がると、この出来事に園の者達だけでなく通りがかりが野次馬となって集まっていた。
シャロウとチェルシーと共にいた園長はマディソンの姿を見つけビエーの元に駆け付ける。
マディソンは水を飲んでしまっていたが、ビエーが張った保護により呼吸は安定していた。ただ体が少し冷えてしまっている。
「乾燥と保温はできるか?」
「はい! ありがとうございます!」
マディソンの事は園長へと預け、ビエーは丁寧に池の水を戻すアルベラを見た。
防御を保ちながら生き物以外の水をすべて持ち上げる所業。そして今はそれを顔色一つ変えず――いや、少々きつそうではあるのだろうか? 眉間にしわを寄せてはいるが、水が飛び散る事がないよう無理の無いペースで穴の中へ水を注いでいた。
(うう……。魔力は辛くないけど……やっぱりお祈りの影響か体の中がビリビリする……)
アルベラは以前補助を受けた時には無かった痺れる感覚に眉を寄せていた。
(なるほどな。補助の力か)
ビエーはアルベラの後ろで祈るかの様に手を合わせている人物を見つける。
「ビエーちゃんナイスよ!」
エリーは親指を立てる。アルベラに言われマディソンの様子を見にやって来たのだ。
「よかったわぁ~。最悪な事になってなくて」
「あいつはなんだ? それに……辺りでこそこそ見てる奴ら……騎士か?」
「ふふふ。お嬢様のお友達、とその護衛ね」
「護衛……もしかしてあいつ」
「あの金髪王子か?」とビエーは小声で尋ねる。
「あらぁ、よくわかったわねぇ」
「護衛の奴らの感じがあの王子さんと同じなんだよ」
「あらあら、そっちでバレちゃうのね。ふふふ」
「なるほど。ならあの魔力も納得だ」
「よねぇ、あの魔力嫉妬しちゃうわぁ」
「お疲れ、ベーラ」
アルベラが池の水を戻し終えラツィラスが補助の魔法を解く。
「そちらこそお疲れ様です。で……ケブ」
慣れない名にやりずらそうなアルベラを見てラツィラスはくすくす笑う。
「ケイリー……ケイリー。いつまでそうしてるつもり?」
「……っ!」
いつからかアルベラの腰にくっついたままだったケイリーははっとした。彼は慌ててアルベラから離れると、顔を真っ赤にして両手をわたわた動かした。
「あ、ああああああ、ありがとうございました! ベーラ様!」
と礼を言い、マディソンと園長の元へ駆けて行った。
「失礼します」
ケイリーが去り声をかけてきたのは街の警備兵だった。騒ぎを聞きつけてきたようで、事の顛末を知りたいようだ。
街中に魔獣が出た場合はその特徴や出現地を役所へ知らせる決まりとなっている。そのための聞き取り調査であることも説明を受け、アルベラは簡単に説明を済ませた。
「ところでなんなんですか、『ケブ』って」
警備兵が去り東屋の辺りに人が居ないのを確認しアルベラは尋ねる。
「ふふ、お昼にケブバを食べてね」
「あぁ……ケブバでしたか……」
お昼ご飯から取った名だなんてチェルシーが聞いたら……それでもきっと彼女は絶賛しそうだなとアルベラは想像し苦笑を漏らしていた。
(ていうか、そんな事はともかく……なんでこの王子様は)
「にしても、君に頼んで正解だったよ」
ラツィラスは元に戻った池を眺める。
そう、まさに聞きたかったのはその件だ。とアルベラは視線を鋭くする。
「何言ってるんですか。あんなの私を補助せず自分でやった方が早かったでしょう?」
「え? ……ふふ、知ってる? 水の使い方はきみの方が緻密で繊細だ。ジーンも君が集めた水の方がおいしいって言ってたし僕もそれには同感。勿論威力なら負けないけど。魔力の器さえ大きければ、君はきっと近々か水魔法の達人になれてたね」
「そんなの魔力さえあれば皆そうでしょう。それに、どうせ人並みの器ですよ」
「ふふふ。魔力だけが達人の全てじゃないでしょ。僕らまだまだ伸びしろがあるわけだし、磨きようによっては凄い力になるんじゃないかな」
「一緒に並べていただきありがとうございます。けど凡人に過度な期待はしないでください。夢見て落とされた時が怖いですもの」
その時人々のざわめきが聞こえてきた。アルベラはその声につられ視線をずらす。
どうやらマディソンが目を覚ましたらしい。彼は身を起こし苦しそうにせき込んでいた。園長が無理をしないようなだめ、ほかの園の大人たちは帰る準備に取り掛かろうとしていた。
「よかった」とラツィラスがこぼし、「ええ」とアルベラが頷く。
「ははは。なんかいろいろ懐かしいな」
「何がです?」
「ジーンがザリアスの所に来た頃池に落ちて溺れかけた話とか、ミクレーがでるって噂の池に行ったら君がいた話だとか」
「後半のはともかく……あの騎士様にも泳げない時期があったんですね」
「だね。びっくりしたよ。ジーンてば興奮して池を沸騰させちゃってさ。あれを機にまずは水泳から練習させたってザリアス言ってたよ」
「池の生き物たちが可哀そうな話ですね」
「だねぇ。あの二人あの頃暫く魚のボイルばっかり食べる羽目になってたんだけど、僕もザリアスからおすそ分けを貰ってさ」
「王子様が魚のおすそ分けって……」
「ふふふ、訓練の休憩中に一匹だけだよ。僕はお腹もすいてたし丁度良かったけど、ザリアスもジーンもうんざりした顔で魚を見てて面白くて」
「俺とザリアスがなんだって?」
特に悪口を言っていたわけでもないがアルベラもラツィラスも咄嗟に口を抑えた。
振り返れば東屋の入り口からジーンが覗き込んでいた。胸当てと剣のみ。いかにも下っ端の見回りと言った軽装だ。
「わぁ、噂をすればだ」
「噂をすればね」
感心交じりの二人の言葉に「悪口か?」とジーンが尋ね、慌てて二人は首を振る。
「君はどうしてここに? お勤めはサボりかい?」
「お勤め中だ。今日はこの地域が担当だったから。騒ぎがあったって聞いて来た」
「来るのが遅いじゃない。怠慢ね、ザリアス様に言いつけるわ」
「……アルベラだよな?」
「ええ。そのつもりで話しかけたんじゃないの?」
「そうだけど念のため」とジーンは頭をかく。変装した相手をあまりじろじろ見ないよう気を付けているのか、視線を逸らされてしまう。
(王子様の方はもはや聞く必要もないと)
「丁度ここの真反対にいたんだ。遅れて悪かった」
「責めがいがないわね」
「ところで君一人? 街の見回りは最低二人からでしょ?」とラツィラス。
「騒ぎを知ったのが丁度すりを捕まえた所だったんだ。他の二人はそっちにあたってる」
「そっか。なるほどなるほど。ご苦労様」
「どうも」
お勤め中と聞き、アルベラはつまり先ほどの警備兵と同じ要件かと踏む。
「騒ぎの件ならさっき警備兵も聞きに来て説明したけど聞いといたほうがいい? 彼が届けは出しとくって言ってたけど」
「一応頼む。上に報告しないといけないし俺からも役所への届は出さないとだから」
「そう、じゃあ」
「――ベーラ様」
園の職員がアルベラを呼びに来る。「ベーラ様?」とジーンが復唱する。偽名まで使っているのか、という顔だ。
「そろそろ帰る準備を――あ、すみません! 騎士の方が聞き取りに来てられました、か?」
東屋の中を見て、セキレイ園の女性職員が目を丸くする。彼女の足元にまとわりつくようにやって来た数人の子供達と、共にアルベラの様子を見に来たシャロウと、ケブが去ってしまう前に挨拶と何とか連絡先をとゲットしようと駆けてきたチェルシーも目を丸くした。
職員の足に絡みつく子供がジーンを指さし口を開く。
「赤い髪、赤い目、お城の騎士様」
一呼吸置き他の子が叫んだ。
「――猛火の赤騎士だ!」
それを皮切りに子供たちが東屋の中へと駆けこんでいった。
幼い子はジーンの足に絡みつく。
「わぁぁぁーーー! 猛炎の騎士ーーー!!!!」
「ちえげーよ! 紅蓮の赤騎士だろ!!」
「元平民って本当ですか!」
「まじかよ! 本物!?」
「四の団の紋章じゃん! 絶対本物だよ!! 赤髪赤目の騎士は一人だけだって八百屋のおっちゃんから聞いたぞ!」
「すっげー! まじすっげー! なあなあ、炎見せて! 炎!」
「こらこら、あなた達! すみません、すぐにどきますから。申し訳ございません」
「もしかしてさっきの水も騎士様がやったの?」と尋ねる子に、アルベラはしゃがみ込みその子の頬を摘まんだ。
「それはわーたーし。あとあの人」とラツィラスを指さす。
頬を摘ままれた少女はキョトンとし「ベーラ様凄いね! けどこの人だーれ?」と笑う。
燥ぐ少年少女に慌てる大人。
剣を教えてだの騎士団に入れてくれだの、ジーンの登場は魔獣の出現に次いでの大騒ぎとなった。
子供達の熱が冷めやらぬ中、ラツィラスは次の教会へ行くと去り、ジーンも聞き取りを済ませて勤めに戻った。
子供達の質問攻めをエリーやビエーに丸投げし、アルベラもどっと押し寄せてきた疲れを感じながら子供たちと共にセキレイ園へと帰っていった。





