371、惑わしの建国際 44(仇討ちの朝)
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二日目の休息日の夕刻の事。
恵みの教会ではシスターと教会を守る騎士達がとある準備をしていた。
明日の朝、教会で保護している神獣を聖域の側へと送り届けることになっているのだ。
ここに来た時より僅かに回復した様子の白い魔獣――ウサギのような長い耳を四本もつ狼のような獣――を籠の外スカートンが眺めていた。
獣は初めの頃のように人に怯えてはいなかった。
だがやはりこの短期間では彼の人間への認識が変わることは無く、打ち解ける事は叶わなかった。
「今日でお別れね」
スカートンがほほ笑む。
「アルベラにも紹介したかったんだけど、間に合わなかったわね。アルベラは明日から謹慎解除、あなたは明日行っちゃうんだものね。――きっと、アルベラもあなたを見たら綺麗って言ってたと思うわ」
話しかけるスカートンに見向きもせず、獣は丸くなって伏せていた。
だが四つの長い耳の一つが小さく持ち上げられていることにスカートンは気づいていた。
ただの警戒からかもしれないが、こうしてすこしでも耳を傾けてくれていることは嬉しい物だ。
「キリエもね、『元気でね』って。いつか、あなたがいる聖域を見に行くって言ってたわ」
キリエという単語に魔獣の尾がピクリと揺れる。数回しかあっていないのに、流石のなつかれようだなとスカートンは笑みをこぼす。
「移動は大変だと思うけど、頑張って。聖域に着けば、今よりもっと元気になれるはずだから。そしたら……どうぞ聖域をお願いしますね、“巡回者”様」
聖歌を終え、夕食の前の空き時間。
獣との別れを惜しむように、スカートンは小さく上下に揺れる毛並みを眺めていた。
***
まだ日も登らない早朝。
一人の少女が低い木々の影に身を潜めていた。
服は数日前のまま。一見上等な装いではあるがその裾には泥が付き、今はやりの模様には染みが紛れていた。
「チャンスは……きょう……」
からからに乾いた唇が小さく開いたまま音を発した。
――だって、アランがそう言っていたから。
憔悴しきった彼女の瞳は爛々と危なげな光を放ち、目の前の一本の道を頑なに見つめていた。
***
「お嬢様、おはようございます」
「……はよう……」
アルベラは眠たげに返した。
今日から学園生活が再開される。
城――の端に位置する宿泊部屋から一限目の授業まで余裕をもってでるため、今朝の目覚めはいつもより早い。
「あらあら、眠たそうですね」
エリーが飲み水を渡しアルベラが受け取る。
「ええ。夜中にちょっと……コントンが寝ぼけてね」
げっそりとした様子でアルベラは返す。それにガルカのクツクツという笑いが重なった。
「あと少しで半分食われていたな」
「見てたなら助けなさいよ」
怒りが湧くも眠気が勝る。アルベラは「着替える、出てけ!」と風を放ちガルカを窓の外に押し出した。
昨晩、妙な感覚に目が醒めたアルベラが見たのは自分の右肩を覆う大きな黒い塊だった。
それはもごもごと動きたまに夜闇の中赤い色を覗かせていた。
(なに これ……?)
気にせず寝るかと向きを変えようと思ったら体が動かない。
それはこの右肩の塊が原因なのは明白だった。痛みはないが一体……? とぼやけた視界に目を擦る。
『アルベラ オイシイ……』
「―――?!」
目の情報よりも先に耳からの情報に体が硬直した。
アルベラは「ヒッ!?」と息を吐き左手で黒い塊に触れる。冷たい靄の中に手を突っ込んだ感覚と、手のひらに皮膚とも毛並みとも取れる質感があった。それは嬉しそうに「グルル」と唸る。
「コッコッコッ――」
今日から授業だというに夜中にあんなに衝撃的な起き方をしてしまうなど……、とアルベラは重たげな額に両手を当てた。
「ふふふ、まさかそのまま食べられちゃったんですか?」
とエリーがふざけて返す。
あのまま食べられていたのならここにいる自分は何なのか。アルベラは「なにいってんだか……」と呆れて返し、学園の制服に袖を通した。
寝巻の上から黒いワンピースを被り、その中で器用に寝巻だけを脱いで足へと下す。その姿を見ていてエリーは残念そうに息をついた。
「私とお嬢様の仲ですしそんなに恥ずかしがらなくても……」
「恥じてるんじゃなく警戒してるの。――気持ち悪いセクハラもほどほどにしなさい。護衛も一人増えた事だし、でなくても学園内では護衛なんて殆ど不要だし。調子に乗ったら遠慮なく外させてもらうから」
「はーい♡」
「本当返事だけはいい……」
着替えが終わり、それほど多くない荷物の整理や詰め込みもエリーの手により終わり、アルベラは部屋から一番近い出入り口前に停められた馬車へと乗り込んだ。
見送りにはブルガリーと彼の騎士と、そして昨晩食事を共にした父と父方の祖父母も来てくれていた。昨晩、母も来る予定だったそうだが体調が悪いようで彼女は来ていなかった。
昔に受けた毒を引きずっているとかで内臓の一部の機関が弱い母をアルベラも心配したが、父が言うには問題ないそうだ。引き初めの風邪が重くならないようにと、専属の医師が頑なに外出を止めたらしい。「アヴィちゃん、学園頑張ってね」
「また私達の家にも遊びにおいで」
「ええ。ありがとう、お婆様、お爺様」
「アルベラ、また何かあれば私にも遠慮なく連絡しなさい。いいね」
「はい、お父様」
「――アルベラ」
和やかな祖父母と父との挨拶。そこに一人厳しい剣幕で立つブルガリーは場違いにも感じた。だが、この場で一番正しい対応をしているのは彼なのだ。
アルベラは分かっているのだがつい身を引いてしまう。
「いいな。もう愚かな真似はするな」
「はい……勿論ですわ、お爺様」
引きつった笑みでそう返し、「ご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした」と深く頭を下げる。
長期休暇にはブルガリー領に来るように、そこで騎士達と訓練を共にしろと強面の祖父が言っていた気もするがアルベラはその場限りの返事を返し聞き流しに徹した。
――『お嬢様お気をつけて』
と素っ気ないのか生真面目なのか分からない挨拶をガイアンはしていた。
――『タイガーも会いたがっていました。是非北に遊び(訓練)にいらしてください』
とまだどんな人柄かつかみきれなかったマラーキオが、どこか揶揄う様な調子で見送っていた。
大してまだ口の聞けてない騎士達も多い中、彼等からは完璧な敬礼で見送られアルベラは学園への道を車に揺られていた。
(朝から賑やかだった……。なんだかもう疲れた気がする。授業中眠くならないかな……)
***
獣は駆けていた。
荷車に乗せられ清められた教会からでると、そこはまた騒々しく落ち着かない魔力と匂いと音の嵐だった。
その中に自分の良く知る――嫌悪する匂いがあって、獣は思わず牙を剥いて唸っていた。
獣の中に残る幼い記憶は混濁していたが、強烈故に忘れられない幾つかの記憶があった。
――母の血の匂い。
――命が消え去る気配。
――泣き叫ぶ己の声と、覆いかぶさるように見下ろす二本足の奇怪な生き物達。
沢山の匂いが交じり合う中で、獣は“あの女”の匂いを見つけ出していた。
――ガシャン……ガシャン、ガシャン、ガシャン
「なんだ?」
白い魔獣を運ぶ荷車の外。車の後ろに付いていた騎士が物音に気付いた。
獣が起きて暴れている。
中の音からそう察し、彼は獣を沈静させるべきだろうかと考えた。
だが、仲間達と軽いやりとりをし“まだ”その必要は無いだろうという結論に至った。
そのうち疲れてまた眠るだろうと。あまりにも長引けばその時でも良いだろうと。
誰も――そう、誰も想像などできはしないのだ。
この後興奮した騎獣がこの荷車にぶつかり、横倒しになった車の中檻が壊れて獣が逃げ出すなどと――
***
「嬢ちゃん、何の真似だ?」
アルベラの乗る馬車の前、一人の少女が飛び出した。
まだ城の敷地内だというのに。
左右に草木が茂り、警備が比較的少なく隠れやすいこの場所で張っていたのだ。
エリーはアルベラと共に車の中。ガルカは御者、ビエーは馬に乗って馬車の横についていた。
だから飛び出してきた少女の対応はビエーが行う事となった。
「アルベラ……アルベラ・ディオール様に直接謝罪が出来なかったものですから……」
少女が何を言わんとしてるかビエーにも分かった。
彼女はアルベラが謹慎になったその日に連れて来た少女――マリンアーネだった。
マリンアーネへの事情聴取はブルガリーとその騎士が行い、アルベラは結局彼女と会う事は無かったのだ。翌日に解放され家に帰ったはずの彼女は、ビエッダの記憶が正しければあの人同じ格好をしていた。
(結局逆効果じゃねぇか)
あの日合わなかった事で相手が更に粘着しだしたか。
(それとも……)
ビエッダは意見を仰いで馬車の方を振り返る。
マリンアーネが馬車を止める様子を物陰から気配を消して眺めている男がいた。
彼は「あのガキ!」と心の中声を荒げた。
(何で前に出るんだ? 物陰からこっそり隠れてやれって言ったよな。思っていた以上に頭が悪かったか……)
男は心底うんざりした様に顔を歪める。
(くそっ……――まぁいい。どうせあれが捕まったところでこちらとの繋がりがばれることは無い。せいぜいこの後どうなるか見届けてやるよ)
ビエッダに視線を向けられたガルカは御者席側につけられた車の小窓を叩く。
「おい、聞こえてるなオカマおと……」
「捻り潰すわよ」
言い終わる前にエリーが車の扉を開け上半身を出した。
「ここは貴様等でどうにかしろ」
ガルカが御者席を降りる。
車の横を通り過ぎようとした彼に、アルベラが「彼女なんて?」と尋ねた。
エリーが降りた際外を覗き込みマリンアーネの姿を捕らえたのだ。
「貴様に直接謝罪したいそうだ」
嘲た笑みを浮かべるとガルカは馬車の後ろ側へと回ったのか見えなくなってしまった。
「なに? 勝手に散歩?」
いや、それとも彼女の他に誰かいるのか。また刺客かと、アルベラは警戒した。
『オイシイニオイ イカリ イッパイイカリ』
はっはっは、と馬車の床に黒い影が浮かぶ。
「謝罪ねぇ……」
アルベラは小さくため息をついた。
「お願いします、どうか……」
地面にへばり付くように頭を下げるマリンアーネにビエッダは困り果てた。
「つってもな……」
(直接会わせられる訳ないだろう。こんな危なっかしい……)
口でどう言おうとその腹など分からない。
謝るからと言ってあのお嬢様を引きずり出し、いざ対面となったら刃を突き立ててくるかもしれないのだ。
ビエッダは一つ息をつくと「無理だ、帰んな」と素っ気なく返した。
「で、ですが!!」
マリンアーネが勢いよく頭を上げる。
その顔には焦りが浮かんでいた。
「お願いです、どうしても謝りたいんです。お嬢様の顔に泥を塗ってしまった謝罪を、どうか、どうかお願いします……!」
腹に力が入らないのか、声に張りは無かった。だが訴える必死さの中に気迫のようなものもを感じた。
(こりゃ合わせるべきじゃねえな)
ビエッダは答えを出すが、それと真反対の「良いわよ」という返答が後方からあがった。
「な、にを」
何を勝手な、といつの間に降りたのか馬車の横に立つアルベラをビエッダは振り返る。
「おま……お、お嬢様? 勝手に下りないで頂けますかねぇ」
「私が良いって言ったのよ。貴方は黙って護衛をしなさい」
「……」
このクソガキ、と言う言葉を飲み込みビエッダは小さく頭を下げた。
目の前に居る人物に、マリンアーネのやつれた顔が歪む。
目を見開き、口端がつり上がる。
「あ……あぁ……、ありがとうございます! お嬢様、本当に……本当に……――あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!! お父様の仇めえええええええ!!!!!!」
狂った叫び声をあげ、マリンアーネは懐から魔術具を取り出した。





