334、惑わしの建国際 8(嫌がらせその3)
「なに……してるんですか」
突如後方から降ってきた静かな声。人目を盗んで馬小屋に忍び込んでいた二人は背筋を凍らせた。
張り上げられたわけでもない、ごく普通のその声量はやけにこの場にはっきりと響き渡っていた。先程まで聞こえていた筈の馬の身動ぐ音も、些細な嘶きも……今は全く聞こえていない。その事に馬小屋にいた二人が気付く余裕などある筈もない。彼らは今、沸き上がる恐怖で手一杯だった。周りの空気に押さえ付けられてるかのような圧迫感や息苦しさ。そして背後から感じる鋭い視線。
彼らは乾いた喉で固唾をのみ、強張った体をひねった。背後を振り返る。二人の内の一人が「ひっ」と小さく息を溢し、堪えられなくなったように―――それとも慌てて急に動けば喉を噛み千切られるとでも思ったのか―――ゆっくりと、静かにその場に尻をついた。
彼らが振り返った先に見たのは真っ赤に灯った二つの瞳。
赤く激しく燃ゆる炎の色と似ているそれから、見据えられた彼らは熱よりも体の芯を凍えさせるような怒りを感じた。
「なに……してるんですか?」
尋ね、赤い瞳はちらりと足元を見た。
顔の横に人が居ると言うのに、地面に伸びた馬の頭はそれに気付く様子もなく深く眠っていた。
馬一頭分で区切られた個室、ジーンの馬を囲んでいた二人は尻を地面に着けたまま後ずさる。彼らの手に、彼ら自身がまき散らした真っ赤なそれがべとりとつく。
片方は手に着いたそれに気を取られ自分の手元に目をやった。もう片方は自分を見下ろす赤い瞳から目をそらすことができずに震える声を絞り出し答えた。
「な、なな……なにも。……ちょっと、友達の馬に悪戯してただけだ」
「……バムガは俺の馬です」
「……へ、へぇ……そ、そうだったか。友達の馬にそっくりだったから、ま、間違えたんだ。悪いな」
吐かれた言葉は棒読みで、出まかせである事があからさまだった。
ジーンの表情は夜闇に覆われ、恐ろしいほどに静かに強く灯った瞳だけが二人の視界の中存在感を放っていた。
「友達の……馬……? ……ご友人のだろうと誰のだろうと…………あんた達は普段から世話になってる生き物に、なんでこんな事……」
ジーンが一歩踏み出そうと足を持ち上げた。炎を乗せた風が彼等の周りをゆっくりと取り囲む。
「な―――」
「ジ……ジェイ……」
少しでも動けば容赦なく喉を噛みちぎられてしまうかのような恐怖。腰を抜かして動けない二人には、ジーンの持ち上げた足が地面に着くまでの時間がやけにスローモーションに感じた。
―――怖い。
目の前の彼が、第五王子に気に入られたことで運よく騎士になれただけの彼が、本来ならこの学園に入ることも許されない低俗な生まれの彼が。
―――怖い。怖い、怖い、怖い、怖い、―――怖い
(こ、殺される……)
赤い目の彼が地面に足を下ろし一歩距離を詰めた瞬間、恐怖心に負けた彼らは固く瞼を閉じた。
それと同時。
―――バシャン!
目の前の空間に盛大に水がぶちまけられた音が聞こえた。いくつかの飛沫が自分の体に当たるのを感じ、彼らはおそるおそる瞼を持ち上げる。
「……」
ジーンは頭から水をかぶりその場に静止していた。
(状況……よくわかんないけど……。あってた? 狙う方これであってた……?)
馬小屋の入り口に駆け付けたアルベラは息を整える。目的の人物に水を落とすことが成功しひとまず安心といったところだった。
馬小屋の外からでも見えていた瞳の灯りは消えており、馬小屋の中の馬たちも緊張から解き放たれ息を殺すのをやめていた。馬たちは思い出したようにおびえた声を上げたり足踏みをしたりとし、不自然なほどに静まっていた室内に音が戻った。
「ジー……ジェイシ卿、こちらは?」
入ってすぐにあるスイッチで馬小屋内の明かりを灯し、アルベラは速足でジーンのもとへ行く。バムガの区画につくと、そこにいたのが上級生だと気づき、彼女は公爵令嬢の姿勢で尋ねた。
「……」
足元のバムガの顔を見下ろしジーンは黙っていた。水をかぶって重くなった髪が彼の目元を覆っていていつも以上に表情が読み取れない。だが、先ほど外からでも感じた肌が泡立つような怒りはそこにない。
(頭の中を整理中ってところかな……)
仕方がないので自分の解釈でこの場を片付けさせてもらおう。とアルベラは腰を抜かしたままの二人に目を向ける。
その横には以前にも何度か自分も乗せてもらったことのあるジーンの相棒―――バムガが横たわっていた。
大きく立派な馬の体は藁の敷かれた床に不用心に横たわっており、その上には赤い粘度のある液体がかけられていた。人工感満載の絵の具のようなその赤は、暗い場所では一見血にも見えたかもしれない。それは馬の体から地面に垂れる際に太い糸を引いていた。この世界にも玩具のスライムがあるが、バムガにかけれらた赤い液体は一見すればその玩具だ。
(赤色のベタベタ……嫌な記憶がよみがえるな……。あっちの方がどす黒かったけど……)
と、蜘蛛女との嫌な思い出が脳裏に甦りかけるがそれはともかくだ。
(これが何で、何をしてたのか、本人達に聞くのが早いか)
「ごきげんよう、先輩方」
アルベラは部屋着の裾を持ち上げほほ笑む。
「直接お話を伺いたいところですが、私は少しこの場を離れます。すぐ戻ってきますのでここから動かないように。ジェイシ卿もそのままで、彼らを見張ってでもいてください」
言わなくとも彼らは皆その場から動くことはなさそうだった。
二人は腰を抜かしており、一人は頭の中が愛馬のことでいっぱいなはず。
その間にと、アルベラは近場から学園の警備をしている騎士を連れてきて二人の上級生の事情聴取は騎士たちに任せたのだった。
アルベラから一番初めに声をかけられ、人手が欲しいと言われた騎士は応援をよんで馬小屋を訪れた。彼は共に来た二人の騎士にへたり込んでいる二人の男子生徒を任せると、黙々と馬の体から赤い液体をはがす作業をしているジーンへ声をかけた。
同じ団の後輩であり今は保護対象であるこの学園の生徒の一人である彼は、なぜか頭から足の先までずぶぬれとなっていた。自分で乾かすこともできるだろうにそれをしていない。
「ジーン君」
「……ジュードさん。……あぁ、最近また学園の警備の当番が回ってくるって言ってましたね」
「あぁ、先週からね。―――ところで、君の体は乾かしてもいいかな?」
問われて思い出したようで、ジーンはふと自分の体を見下ろし「はい、」と頷いた。
ジュードは印を描いて魔術を展開する。髪と服が乾くと、ジーンは頭を下げてまた作業の手を動かし始めた。
ジュードとジーンは騎士見習いの頃から先輩後輩の仲だ。団の訓練でも不満や怒りをあまり表に出さない彼だったが、今はどこかうかない様子なのは馬の様子もあってジュードにも感じ取ることができた。
「悪戯で馬にこんなことをするとは……許せないな」
とジュードはジーンの横にしゃがみ、ジーンと同じように赤い液体を両手でかき集めてバケツの中に捨てる。時間が経つほどに粘度が増していっているらしく、初めはスライム程度だった液体は今はつきたての餅くらいの固さになっていた。
体にそんなものをかけられているというのに、バムガは起きる気配がない。
「すみません、ジュードさんにまで。……こいつ、早く起こしてやりたくて」
「これも仕事だ。きみが謝る事じゃない。でなくてもバムガのこの図体だしな……。心配なのは当然だ。このまま自力で目が覚めないようなら、体は人が起こしておいてやらないと苦しいだろう」
「ありがとうございます……―――。……俺、ここに荷物を忘れていったんです。果物をもらった鞄を、こいつに食べられないようにって首が届かないところに置いて」
この状況と関係あるのかわからない話に、ジュードは意図が読めないながらも「あぁ」と相槌を打って耳を傾ける。
「バムガの奴、その果物が結構気になってるようでした。普段は知らない人間から与えられたおやつなんかは警戒して食べないのに……俺が荷物を置いて言ったせいで、」
ジュードはあたりを見て理解した。馬が食べ残したのであろう床に転がった果物の分厚い皮。逆に全くの手つかずの野菜や果物の入った袋が壁に立てかけるように端に置かれていた。そしてそこには手つかずの野菜に紛れるように空のガラス瓶も置かれていた。
「その果物を使ってこいつに毒を食わせたってわけか」
「はい」
「君は自分を責めているんだろうが、悪いのは悪戯を企んだ奴らだよ」
「……はい」
「さっきの水も彼らが?」
「水?」
「君がかぶってた水だよ。魔法で抵抗でもされたかい?」
「あぁ、あれはア……ディオール嬢が」
「え? ディオール嬢?」
「―――はい」という返事は女性の声だった。
この場を一時離れ、戻ってきたアルベラが名前を呼ばれたのを聞き返事をしたのだ。
気を抜いていたジュードは驚きつつも立ち上がり「こ、これはディオール様」と頭を下げる。よくわからないままに「どうも」と返し、アルベラは今しがた自分が呼んできた人物へ顔を向けた。
連れてきたのはエリーとニーニャだ。そして丁度エリーと飲んでいたのだという他の貴族の使用人仲間たち。
「この汚れなんだけど、どう?」
「あら、確かこれ……」とエリーが呟き、その後ろをついて来ていた使用人仲間の一人が「まぁ……狩猟用の『とりもち』ですね」と赤い液体の正体を口にする。
くっついて来た二人の使用人の、背が高い方はこれが何かを知っているようだ。
「餅?」
アルベラは彼女を見た。この学園に来てからエリーとたまによく飲む仲だと聞いているその使用人はディヴィアという名だ。
既にエリーとニーニャを呼び出しに行った際にアルベラと彼女らは挨拶を済ませていた。なので自己紹介の必要はなく、ディヴィアは軽く寝間着のスカートのすそを摘まんで頭を下げ問いに答える。
「はい。魔獣を狩るのにも使われる強力なとりもちです。このまま放っておけば、このお馬さんを地面から引きはがすのは至難の業ですね。この餅は魔獣の駆除で使われるのが主で、皮を綺麗に残したいような獲物には決して使われることのない道具です。なぜかといえば一度固まってしまうと身から皮を引きはがさないと―――」
「いいわ、わかった。なら綺麗に取り除く方法は? 汚れ落としの専門家として貴方達を呼んだんだけど」
(ていうかエリーとニーニャだけでいいのに何でこの人たちついてきたの。手伝ってくれるならありがたくはあるけど)
初めに声をかけた騎士がさらに応援を読んだとかでさらに四~五人の騎士が馬小屋に着いたところだった。彼らの中にもこれをとれる人がいるなら安心だが、もしかしたらこういった作業は仕事柄使用人たちの方が得なのではと思いアルベラは彼女らの宿舎へ足を運んだのだった。
「あぁ~……そういうのは私じゃないな。ルルルビの方が得意だろ」
とディヴィアは隣の小柄な女性を見下ろした。
エリーはアルベラに「ディヴィアは使用人というより護衛で、現役の傭兵なんです」と耳打ちする。
「はぁ……じゃあ肉体労働員その二ね」
「ふふ、その一は私ですね」
ディヴィアと共に来たルルルビと呼ばれた女性は、細かくは聞かず、餅を近くで観察することもなく「とりあえず大雑把にですが取り除かせていただきます」と頭を下げた。
掃除用なのか何なのか、彼女は印ではなく陣を描き始め……というより既にもう描いている途中だったらしく、一言のために一瞬止めた手をまた動かし始めた。
彼女らのやり取りを見ていたジーンとジュードがその場をどこうとするが、ルルルビが「お二人は動かず」と言って陣を描ききる。
彼女が陣に魔力を流し込んで魔術を発動させると、風と水と熱気が渦となって彼らの周りを吹き抜けた。
馬と二人の周りを数週し、風の渦は救い上げかき集めたとりもちをぼたぼたと個室の隅に落として消滅する。
「毛に絡みついたものは手作業でとるしかないでしょう。残りは馬を起こしてからもう一度……」
「あの、こいつの体の下のもお願いできますか?」とジーンがバムガの背中側に回る。
「さっき、立たせられそうか試しに持ち上げようとしたんです。けど、体の下にもこの赤いのがあって、上のより固まってるみたいで持ち上げられなかったんです」
「それなら……人手で持ち上げてもらっていいですか? 魔力や魔術で持ち上げられてしまうと、私の魔術とぶつかってしまうでしょうし。部分部分で持ち上げて、少しずつ餅を切る形ではがしていきましょう」
ルルルビがそういうと、ジュードが仲間たちに「ほら、仕事だ! 皆手貸せ!」と声を上げた。
様子を見ていた騎士たちがバムガに駆け寄る。
「ほら、貴方達も出番よ」
アルベラがエリーとディヴィアを見上げる。
「ほほほほほ……、こんなに野郎がいらっしゃるなら私たちの出番はありませんわよ」とディヴィア。
「そうねぇ、私も別に嫌じゃないけど……騎士様たちのお仕事を取ってしまうのもどうかと思いまして。あの人数なら私たちは必要ないかもしれませんね」とエリー。
(エリーは言葉の通り力仕事が嫌ってわけじゃないないだろうけど、このディヴィアって人はどうなの。てかこの人の主人誰なのかしら)
ルルルビの魔術と騎士たちの努力により馬が床から引きはがされた。
もう持ち上げても安心だとなったところで、騎士に呼ばれた学園所属の獣医が馬の様子を確認する。馬の体温や呼吸、心音、外傷をぐるりと確認すると、獣医は共に来たザッヘルマに「大丈夫ですよ」と頷いた。
学園の馬小屋や魔獣に何かあった際、魔獣学のその週の当番の教員に声をかけるよう定められている。
今週の学園の生き物関連の責任者はザッヘルマであり、だから彼が今ここに呼び出されたというわけだ。
「どうぞ、そのまま立たせて。行けるかい、ジェイシ君」
「はい」
ザッヘルマに答え、ジーンは両手をバムガに向けた。と共に地面を舐めながら炎がバムガの体を取り囲む。
焼かれることもなく、乱暴に振り回されることもなく。安定した力加減で姿勢を正し馬を地面におろす炎に「相変わらず大したもんだな」とジュードが感嘆をこぼした。
力任せに現象を起こすだけの攻撃とは違い、人を持ち上げて立たせたり座らせたりという作業を魔法で行うのは難しい。攻撃は最悪現象を勢いよく放って終わりだが、こういった作業では起こした現象をさらに追加した魔力で抑え込み、コントロールする必要があるからだ。
「団長から散々叩き込まれました」
「ザリアス長の個人レッスンとは羨ましいよ」
「……本当にご希望ですか?」
「……いや、冗談だよ……遠慮しておく」
同じ団で鍛えられた者同士、ジュードもザリアスのやり方なら心得ていた。
典型的な崖から突き落として育てるタイプだ。そんな彼に理詰め側のシリアダル副団長がついているからこそ四の団の訓練は成り立っているともいえた。
「いやぁ、本当に大したもんだ。殿下の護衛ってのは伊達じゃないね。いいもん見れた、姐さんについてきたかいあったなぁ。なぁルルルビ」
「まぁ……、はい、そうですね」
アルベラはディヴィアとルルルビのやり取りを聞きながら「この人野次馬気分でついてきただけか」と呆れた。
寝たまま四つ脚で立たされた馬を囲み、騎士や獣医、ザッヘルマ、ジーンたちが何か話し込んでいる。
その様を眺めていたアルベラは、つんつんと袖が引かれる感覚に気づきそちらに顔を向けた。
「お、おじょうさまぁ~……」
袖を引っ張っていたのは瞳を涙で濡らしたニーニャだった。
彼女は呼ばれたというののに何もできなかった自分に、お嬢様がご不満なのではと不安を抱えているようだった。
アルベラは「別にいいのよ」と言ってほしいのだろう彼女の気持ちを察し、その期待に応えるべくほほ笑んだ。
「ニーニャの役立たず」
「……も、申し訳ございませぇ~ん」
表情と発言があっていないお嬢様にニーニャは一拍遅れて情けない謝罪の声を上げた。





