260、エイヴィの里 4(嫉妬のアラーニエ 2/2)
「できた……前よりも簡単に……」
緊張が解けきれず呆然としてしまうアルベラ。ピリは自力でアルベラから体をはがし、「アルベラ!」と言い抱き着いた。
折角剥がした蜘蛛の糸でまた体がくっついてしまい、二人は「あ」と溢す。
糸の粘着力は大分弱まっており、二人が体を剥がすのに苦労はしなかった。
「ありがとう! 良かった! 助かった!」とピリはアルベラの手を取り改めて告げる。
「あ、うん。……あ! ピリ、翼は?」
ピリは立ち上がり軽く背を見せた。
「さっきのでちょっと取れた。もうちょっと剥がせたら飛べると思う」
「そう。やっぱり水じゃ落ちが悪いのね」
普通の蜘蛛の巣も雨に溶けることは無いのを思い出す。「流石に水溶性じゃないか……」とこぼし、アルベラはうろ覚えの服を乾かす用の魔術印を描いた。
先ずは自分に。そしてそれが上手く言ったのでピリに。
***
ダークエルフの双子の弟ボイは、自分の仕事を終えて蜘蛛の魔獣の元に向かっていた。
(里に張った壁の方は当分持つな。ドワーフ共のアトリエから持ってきた充魔石をふんだんに使わせてもらった。あいつ等がこぞって攻撃しようとも簡単には壊せないだろう。―――さっき運び鳥が一羽弾かれてたな。あいつ、そう簡単には殺されてなかったか……)
彼は口端を持ち上げる。
(嫉妬のアラーニエ……『好物』……。あえて標的を命じる必要もなかったかな……。あいつは若い女の血と臓物に目がない……)
***
(乾きが少し弱かったか。まあ今はこれで十分)
自分達の落ちた場所を確認し、アルベラはそこでようやく辺りに木々がない事に気が付いた。ピリの里がある森が分かりやすく凸凹とした地面の続く奥に見えた。
今いる場所は岩が多く、木々も少なくあったとしても低いものばかりだ
(あっちの方が高度が高いのに、こっちの方が一般的な山頂っぽいのね。―――と、そんな事は兎も角)
アルベラはピリの翼の糸を見る。
「あ、そうだ。ピリ、一応身を隠しましょう」と、アルベラは近くに突き出た岩の影に潜み、それを辿って自分が作った水たまりから離れた場所へと移動していく。
(ピリの翼の糸、何処から飛んできた? 何となくだけど森からだった気がする。エリーとコントンの目を盗んで撃ってきたの? それとも二人が撒かれたとか……。―――逃げる? エリーやコントンや、他の人達頼みで? 生きるためならそれも正しい選択だろうけど……。ダークエルフが狙ってるのは多分竜血石。けど初対面で私を狙って来た時、私はまだ石を持ってなかった……。つまり欲しいのは竜血石。私の始末は石の有り無し関係なく決定事項、って事……?)
アルベラは森の方を伺い鞄に銀のライターを見つけ、それをぎゅっと握りしめた。
(ダークエルフに命狙われる理由は分からないけど、ダークエルフの女はアンナの姉さん達が相手中。蜘蛛女があいつの差し金なら、私を優先して追って来てる可能性も……)
「……」
アラーニエから感じた熱い視線を思いだし、アルベラの背中に冷たい汗が伝う。
(エリーとコントンがどうなってるか分からない。けど……打てる手は打っておこう……)
「ピリ、何があってもここで静かにしててね」
アルベラにそう言われ、ピリは嘴に両手を当てこくこくと頷いた。
アルベラは岩の影を移動し、今いる場所より森に近い岩陰へと移る。残りの魔力に意識を向け、まだ魔法も魔術も半分とまでは行かなそうだが使える事を確認した。そしてなだらかな傾斜の先を見据え、麻痺の香水を適当に振りまき、眠り薬の瓶の蓋を開け霧を生み出す。
(倒せなくて良い。少しでも足止めが出来れば。―――あの辺で良いかしら。日当たりがいいと霧が作り辛いんだけど、ここは時間帯のお陰で陰になってて良かった。蜘蛛か……、『蜘蛛には珈琲』……と、いきたいとこだけど今は無いし仕方ない。―――ん? そういえば蜘蛛の嗅覚の精度ってどれくらいなんだろう? フェロモンを嗅ぐとかそんなのは聞いた事あるけど、嗅覚が鋭いイメージはないよな。どうしよう……香水の匂いで霧を避けられたら魔力の消費損……)
「―――!」
土を踏む物音が聞こえ、アルベラの身に力が入った。
そして唐突にエリーとコントン、又は他の連れの姿を思い浮かべ、「この霧に蜘蛛女以外がかかっちゃったらどうしよう」と不安になる。
そっと岩の影から顔を出し、音のした方を伺う。目にした蜘蛛女の姿にアルベラの心臓が跳ね上がった。深く息を吸い、息を吐き……、彼女は平常心を取り戻す。
(よし)
アラーニエは霧の中を歩き、アルベラ達の居る方へと歩いて来ていた。その歩みは少しずつだが緩く、鈍重になっているように感じられた。
(一応効いてるみたいね)
アルベラは握っていた銀のライターに目をやる。ライターには花のリースの彫刻が施されていた。そのリースの中央には一輪の花が大きめに刻まれている。その装飾に爪を引っかけ花を三~四〇度ほど回転させた。それ以上彫刻が動かないと察し、アルベラは蜘蛛女へと視線を戻す。
蜘蛛女が歩きながら首を傾げるような動作をする。彼女の脚はあれから更に一本失われていた。じゅっ、じゅっ、と血の滴る音を立てながらゆっくりと彼女はアルベラの居る岩の手前までやってくる。
―――ざり、ざり……じゅっ……
一つの岩の横に並んだアラーニエの足が止まる。全方位に向けられていた八つの目が、一斉に岩陰に隠れていた少女の姿を捕らえた―――瞬間だった。
―――ゴオオオオオォォォォォォォォ!!!!!!!
アラーニエの視界が黒い炎に覆われる。
岩陰に隠れていたピリは、嘴を押さえたままその様子を覗いていた。アルベラが手にしたライター。それがアラーニエがアルベラの横に現れた瞬間に、真っ黒な炎を放ちアラーニエの全身を覆ったのだ。
「キィィィィィィィィィィ!!!」
アラーニエは人間の両腕と蜘蛛の体の前足をばたつかせ自分の体を這う炎を叩いた。
しかし黒い炎はしつこく燃え盛り、メラメラと赤や紫の色を覗かせながら彼女の体を焦がしていく。
アルベラは手にしたらライターのボタンを押し、カチカチと音を鳴らす。それ以上炎が出ないと知り、彼女はアラーニエから距離を取りライターを仕舞った。
しつこく絡み付き、魔獣の体を燃やし尽くしてしまえそうな炎を前にアルベラは「あ、あれ……? 足止め程度じゃ……」と呟く。
岩陰から出てきたピリがアルベラの元に駆け寄った。彼女は燃え盛る蜘蛛女を見つめ、そしてアルベラをじっと見つめる。
視線に気づき、アルベラはピリを見下ろした。
「アルベラ……何でそれ始めから使わなかったの?」
首を傾げながら問われ、アルベラは「ごもっともです……」と苦し気に返す。
「ええと……、私もコレがこんなに威力あるとは知らなくて……。護身用って聞いてたし……」
銀のライターはリュージから貰った誕生日プレゼントだった。
『俺の魔法を少し込めた。護身用に使え。火を放ってやりゃあその間に逃げる位は出来るだろ。普通に着火すればただのライターだ。魔法を使う時は中央の花を回せ。魔法は一回分だ。俺の気分が向けば空になっても補充してやる』
ライターと共に貰った紙切れにそう書かれていたのだ。
どれほどの火力か試しに炎を放ってみたかったが、これで空にしてすぐにリュージが補充してくれるとも限らない。そう思い、アルベラは中の火力を確認できずにいた。
(この火力で護身用って……どんな相手を想定したんだ……)
「このまま焼け死んでくれるかしら」
そう呟いたアルベラの視界。
―――ゴォォォォォォ……! という轟音と共に地面から土色のクリスタルが突き出る。
「エリー!?」とアルベラは声を上げた。
エリーの魔法で放たれた岩の柱は、アラーニエの左右を的確に捉えその腹を挟み込んだ。
火に包まれたアラーニエから、メキメキともぴしぴしとも、甲羅にヒビが入るような音が上がる。
―――ワオォォォォォォォン!
エリーの岩がアラーニエの胴を挟み込むと、畳みかけるように幾つもの影が槍となって彼女下から蜘蛛の体を貫く。
―――ギイィィィィィィィィィィィィィ!!!!!! ……プチッ
耳を劈く絶叫。と、気の抜けるような破裂音。
アラーニエの体が力なく項垂れ地に落ちた。蜘蛛の体はエリーの岩に押しつぶされ、破裂してその中身を火に炙られ嗅いだことのない匂いを辺りに漂わせた。
アルベラとピリは呆然と彼女の体が燃える様を眺める。小さく爆ぜる炎の音が、彼女等の耳にやけに大きく聞こえた。
「お嬢様、すみません遅くなって!」
エリーの魔法で出現した岩の頂きを蹴り、大きな影がアルベラとピリの上をも飛び越え地面へと着地する。
アルベラは安堵の息を吐く。
「良かった……二人共無事で……」
真っ黒な犬も今は殆ど糸のせいで赤の割合の方が強い。顔も体もぐるぐる巻きにされていたようで、その前身にあの糸が残っていた。
エリーはコントンの背から降りようと奮闘している。
「糸まみれですが私たちはちゃんと生きてますよ。ご心配をおかけしました」
『イト キエナイ ジャマ』
はっはっは、と糸の合間から呼吸音を漏らしエリーが降りるのを待って伏せをするコントン。その背後にはよく見ると一本の木が根っこから抜かれてくっついていた。ピリが物珍し気にコントンの後ろに回り、その木を見つけて「わぁ……」と零す。彼女はコントンの存在も知らなかったので初めて見る真っ黒な犬の魔獣に目を丸くしていた。
「お嬢様もピリちゃんもお怪我はありませんか?」
「ええ。私達は何と、も」
とアルベラはコントンの鼻や口周りについた糸を退けられないかと覗き込んでいた。触ったらくっつくと知っていながら、彼女は糸まみれなコントンの鼻に片手をつき、もう片手を胸に当て―――驚きに目を見開く。
「魔獣が死ねばこの糸も消えてくれると思ったんですが……違ったようですね。何て忌々しい……―――お嬢様?」
ようやく地面に下りる事が出来たエリーは、コントンの鼻先で首を垂れるアルベラの姿に疑問符を浮かべた。
アルベラは顔を上げ、訴えるような視線をエリーに向ける。口から赤い液体が零れ出た。それは何かを言っているように小さく動いたが、その言葉がエリーの耳に届くことは無かった。
糸屑に覆われた下、コントンの垂れ下がった耳がピクリと動く。
いつの間にか火の爆ぜる音が彼等のすぐそばにあった。
『―――バウ!!!』
コントンが身を動かさないままに吠え、アルベラの背後に大量の黒い切っ先が行きかう。
「……っ、ぐっ……」
アルベラが呻き、その上半身が解放されコントンの鼻の上に倒れ込んだ。
アルベラの背後、影に貫かれた赤黒い女の上半身が現れる。黒い炎が這う彼女の体、その右腕が艶めかしく鮮血に染まっていた。
アラーニエは蜘蛛の頭部から「キィ……キィ……」とか細い声を上げていた。それはどこか楽し気で笑い声の様にも聞こえた。炎を残していた彼女の頭部がぐにゃりと崩れる。そこから沢山の赤黒い小さな蜘蛛が生まれ、それらはアラーニエの体を伝って地に下りながら灰となって消滅した。
そうやってアラーニエの全身が消滅すると同時、コントンの体からずるりと木が落ちた。エリーの体からも、ピリの体からも鬱陶しくて仕方のなかった粘着質の糸が消えていく。
アルベラの体が押さえを失いコントンの鼻先から頽れる。
***
「……じょう、さま……?」
咄嗟に駆け付けたエリーがアルベラを受け止める。
ピリも驚き、「アルベラ!?」と彼女の元に駆け付けた。
エリーが受け止めたアルベラの胸にじわじわと赤い染みが広がっていた。
アルベラの背に回したエリーの片手には表側以上の血が流れ出ていた。
鮮やかな緑の瞳から徐々に光が失われていく。
エリーはアルベラを抱いたまま、彼女を見下ろしたまま動くことが出来なかった。
目の前にある光景が信じられない。少しずつ湧き出てくる絶望に頭が、全身が侵食されていく。
―――何も対処法が見つからない。
それほどの致命傷だった。何の手も施せない自分がむやみに動かせば、その分早くこの彼女の寿命を奪ってしまう。
エリーは何もできず、少女の体から命が抜けていく様を眺める事しかできなかった。
ピリの両手は行き場に困ったように、友人の体に触れる事も出来ず宙に持ち上げられたまま震えていた。
「ピィ……、どうしよう、アルベラ……、血、止めなきゃ……」
でもどうやって、どうしたら、とピリはエリーとコントンを見上げる。
「ピィ……?」
コントンの口から「受け取れ」とでもいうように、革袋が一つ落とされる。
「エリー! これ!」
アラーニエの消滅前。自身の影が女の半身を貫く前、アルベラが鼻先で言った言葉をコントンは拾い上げていた。
―――『コントン、石を ちょうだい』
だから彼は言われた通りの物を吐き出し、アルベラに渡す。上に落としては辛そうなので、彼は目の合ったアルベラの友人の小鳥へとそれを渡した。
「エリー! これ何? コレ、使える?」
ピリは三重になっていた袋の口を全て開くと、袋を逆さまにしてその中身をエリーの横に転がした。
「石?」とピリは呟き、その身を震わせる。
触りたくない。だが手に入れたい。これが欲しい。
そんな矛盾した感情にピリはぞわりと全身の羽毛を逆立てる。
「竜血石……」
エリーはそれをほぼ反射で素手で掴みアルベラの胸にあてた。それは「あてた」というよりも落としたという感覚の方が近かった。
頭の中がかき混ぜられ、気が狂いそうになる感覚に手の力が緩んだのだ。その下に偶然アルベラの傷口があったに過ぎない。
石は人の血を肉を感じどくどくと脈打った。
二人と一頭が見つめる先、石が意思をもった生き物のようにアルベラの傷口へと潜り込んでいく。
血が止まり、傷口が塞がる。石の潜り込んだ場所、皮膚の下で赤い光が鼓動するように煌々と点滅していた。光ははだんだんと、溶けて体の中に広がっていくように弱まっていき―――やがて消えた。
ごぼ、とアルベラの口から血が溢れる。
それは喉の奥から口にかけて溜まっていた血だった。
エリーは急いで彼女の体を地面に横向きに寝かす。口内から血が流れだし、空気が彼女の肺へ送り込まれていく。
彼女はごほごほと咳き込むと、激痛を感じで両手で自分の胸を押さえ背を丸めた。
痛みに身を強張らせ、上手く呼吸が出来ない様子の彼女にエリーは不安げに「お嬢様……!?」と声を上げた。ピリも「アルベラァ……」と弱弱しく名を呼ぶ。
二人と一匹が見守る先、アルベラの呼吸が落ち着き始めると体の強張りも解けていった。
アルベラはごろりと仰向けになる。緑の瞳に生気が戻り、覗き込む二人が映り込んでいた。空が目に入り、彼女は自分が胸を貫かれた辺りのそれを思い出す。
(思ったより時間は経ってないみたい……)
「失礼しますね」とエリーは仰向けになったアルベラの頭を自分の膝上に乗せた。
アルベラはエリーを見上げる。自分の体調を気遣う彼女は、不安と安心が入り混じったような笑みを浮かべていた。
「ぁ……し、つか……たのね……」
あの石、ちゃんと使えたのね。冗談めかしてそう言いたかったがまともに声にならず、アルベラは顔をしかめた。その表情も上手く動かせず、しかめたと言っても変化はごく小さなものとなった。
あの石が本当に蘇生に役立つのかは半信半疑だった。
だが、胸を貫かれた瞬間思い浮かんだのは、賢者様の力が込められたあの石だった。緑の玉の件で、彼の悪意が自分には無害なのを理解していた。だから―――。
血に濡れたアルベラの口元を拭い、エリーは思い出したようにまた「失礼します」と言いアルベラの腰の鞄に手を伸ばした。
中を探ればエリーが思った通りだ。
八郎手製の回復薬が十分な数揃えられていた。
「本当、しっかりしてるんですから……」
気が抜けてエリーの声は震えていた。
瓶を空け、エリーはゆっくりとそれをアルベラの口に流し込む。
回復薬を一瓶飲み干すと、アルベラは掠れた声で言葉をとぎらせながら「あたり前じゃない」と言った。
彼女は青白い顔に勝気な笑みを浮かべていた。
「簡単に、死んで……やらない、だから……」
「……」
その殊勝な笑みに、エリーは息を吐き安堵に表情を綻ばす。
「それは……今後も安心ね……」





