257、エイヴィの里 2(エイヴィと彼女の匂い 2/2)
「ねえエリー」
夕食前の宿の部屋。ピリから里の半分ほどを案内してもらい、これから下の階の食堂へ向かおうという時。
「私の体臭、気になる人は気になるみたいなんだけどどうしたらいいと思う?」とアルベラは尋ねる。
里に着いてからというもの、一部のエイヴィから向けられる不審なものを見るような視線に彼女は気づいていた。このまま放って、良からぬ問題の種になるのは御免だと、何か対策があるなら取っておきたいと思ったのだ。
「気づかない人は気づかないみたいだけど、気づく人たちはやっぱり気になるみたいだし……。例えばもっと強烈な匂いを被って打ち消すみたいな方法とかあったりするのかしら?」
「お嬢様、強烈な匂いとはどの匂いをお示しかしら?」
エリーは満面の笑みで首をかしげて見せる。アルベラはそっと視線を逸らした。
「―――冗談よ……」
「お嬢様、一体今どんな冗談を仰ったのかしら?」
エリーの“強烈な体臭”を借りれば自分の“不安を掻き立てる匂い”とやらは消せるだろうか。と言外に言ったアルベラは、「別に臭いとは言ってないわよ? 傷つけたならごめんなさいね」と誤魔化しながら謝罪した。
エリーは「いえいえ」と微笑み、「さっ」とアルベラの目の前に距離を詰める。アルベラは目の前に瞬間移動してきた長身の美女に、心臓を飛び跳ねさせ彼女を見上げた。長い睫毛のかかる美しいアーモンド型の目元には、睫毛とは別の影がかかり、青い瞳はギラリと怪しい光を宿していた。
「あ、いや……あ、そうだ。体臭の事は置いといて……―――んぐっ!」
アルベラは嫌な予感に身を翻そうとしたが、そんな彼女の片腕は容易くエリーに掴まれ、抗いようのない馬鹿力により後方へ引き寄せられた。息苦しさを感じた時にはその身は既にエリーの両腕の中だ。
「んもぉぉぉぉぉぉ!!! 『あなたの匂いに包まれたい』だなんてお嬢様ったら、強烈な落とし文句ですね! 私以外には絶対言っちゃだめですよ!!」
「言ってない! 言ってない言ってない言ってない! 言ってないし痛いし苦し……くっさ! くっさあ!! ちょっと脇押し付けてこないでよ馬鹿! っていうかコラ頬ずりするな! 臭い苦しい痛い! 使用人が主人になんて非礼働いてるのよ離せ馬鹿!!」
バタバタと暴れるアルベラをエリーは「ぎゅっ♡」と抱きしめて堪能するように目を閉じる。
(あぁ……久しぶりね。この子、また少し大きくなって……)
「おおい! 何一人で感慨深そうにしてんのよ! さっさと離せ変態!!」
「事後か?」
衣服と呼吸を乱し床に座り込み項垂れるアルベラ。椅子に腰かけ足を組み、アルベラ同様服を乱し、恍惚な表情で天井を見上げるエリー。
窓に降り立ったガルカが二人を見て口にしたのがその一言だった。
「違う!」とアルベラが声を上げる。
「で、あんたは何? ここは私達の部屋でそこはその部屋の窓よ。宿の入り口が分からないなら案内するから一旦外に出なさい」
アルベラがむすりとそう言いい、エリーは眉をひそめしっしと手を払う。
「そうよ、分かった? クソ魔族。ここは私達の部屋なの」
「私達」を強調するエリーにもアルベラは目を細めた。
(ああ……もういっそうビオさんと同室にしてもらおうかな……)
アンナとエリーが同室に。そうなれば今晩のエリーは、フルメイクで気を張ったまま夜を過ごす事となる。これは先ほどの腹いせに丁度いいのではとアルベラは思想する。
「にしても貴様、アスタッテの匂いでも気を引くというのにさらにそのオカマ男の匂いまで纏って……遂に頭も鼻も狂ったか?」
ガルカの軽口に、アルベラとエリーの双方の感情が逆なでされた。「いらっ」とした視線を受けるも、ガルカは気にせず続ける。
「その体臭がエイヴィの目を引いて、一緒に行動する俺としても気になったものだからな。アスタッテの匂いをどうにかしてやろうと手土産を持ってきてやったんだが……そんな悪趣味な匂いが好みの奴にはこれは必要ないか……。悪いな。お楽しみの所邪魔した。続きをするならもう少し防音の魔術を強めておくことを奨める。じゃあな」
「―――待った」
「―――待ちなさい」
「む……!」
飛び発ちかけたガルカの左足をアルベラが、右足をエリーが、がっつりと掴んでいた。
「何もってきたか見せないさい。物によっては今聞いた余計なセリフは水に流してあげなくもないわ。―――期待はずれな物をだして御覧なさい。アンタを今の私よりもさらにこの悪趣味な匂いで満たしてあげる」
「オカマ男って何の事かしら? 悪趣味な匂いって何の事かしら? 言い訳の一つ二つ聞いてあげるからいらっしゃいな。―――内容によってはあんたを獣の糞尿に沈めて今よりもっと酷い匂いにしてアゲル」
ぎらぎらと目を輝かせ、怒りを露わに笑みを浮かべる二人。
そんな二人にぐいぐいと足を引かれ、ガルカは心の端僅かながらも恐怖を感じた。
半ば部屋に引きずりこまれるように招かれたガルカが取り出したのは赤い液体の入った小瓶と黒い毛だ。
「血と……髪……」
エリーがそう言い不愉快気に眉を寄せる。
「ああ。俺のな」
「……。で、これをどうしろと? まさか食べろとか飲めとかは言わないわよね?」
この部屋には椅子が一脚しかない。だが、それとは関係なく窓からガルカを引っ張り込んだ流れでそのまま、三人は窓手前の床に座り込みガルカの持ってきた品を囲み見下ろしていた。
「ほう……。食べるか? 飲むか?」
「誰もそんな事望んでないわよ。……じゃあコレどうするの? 香水にでも混ぜる?」
「お嬢様の体にそんな物を吹きかけるなんて……。なら私の唾液も混ぜてみていいかしら?」
「その冗談は本当に気色悪いからやめなさい」
「貴様ら真面目に人の話を聞く気あるか?」
アルベラが大真面目な様子で頷き、エリーも仕方なしと言う風に息を吐き頷く。
ガルカはさっさと本題を言わねば時間がいくらあっても足りないと本題に入った。
「貴様の霧は薬や毒の濃度を濃くできるだろう。だからこの血を霧にしてその中を潜ればいい。普通に血を吹きかけるより少量で済むし、匂いを誤魔化すくらいの効果はあるはずだ。―――貴様が魔族と行動している事は知れているしな。貴様から俺の匂いがしてもあまりおかしくは思えないだろう」
アルベラは瓶を手に取り視線の高さで軽く振る。
「なるほど……。はい、質問」
「なんだ?」
「ガルカの血である必要は? 個性的な匂いの人ならここにもう一人いる訳だし」
「お嬢様……」とエリーが言い淀む。
「強烈な匂いが欲しいわけではない。アスタッテの匂いだから魔族が適切なんだ。魔族はアスタッテを信仰している。アスタッテの墓に捧げものをした後なんかは、その魔族は暫くアスタッテの匂いを纏っていたりするからな。その匂いと魔族の匂いが混ざっている状態なら、他の種族の奴らも嗅ぎ覚えがあるだろうという事だ。あくまで『アスタッテの匂いだけを匂わせているよりはマシ』な程度だろうがな。匂いに敏感でない奴は、魔族の匂いしか感じないだろうが、連れに魔族がいると知ってれば何とも思わんだろうよ」
「へぇ。なるほどねぇ……」
「で、髪は?」とエリーが尋ねる。
「そっちは試しだ。こいつ、最近液体からでなくともその成分を霧に乗せらるようになっただろ。髪でも行けるなら、そもそもこうして俺が何かを渡さずとも、勝手に霧を起こして人の匂いを借りる事も出来るという事だ」
「……もしそれが出来たら便利そうね。ヌーダ相手じゃあんま意味ないでしょうけど、獣の鼻を惑わせれば自衛になるし。―――よし、じゃあ物は試し」
「譲ちゃーん。飯の準備出来たってよ。ほれ、ピリ坊も迎えに来たよ」
「ピリ女。―――アルベラ、ご飯皆で作ったよ。いっぱい食べよう。ピリ沢山お饅頭まるめた」
そんなやり取りが部屋の外から聞こえ、アルベラは「はーい」と扉を開く。
「ちょっと待ってね。―――あ、ピリ。確認してもらいたい事があるんだけど、私の匂い何か変わりある?」
アルベラの問いにピリはフクロウのように首を傾げた。嘴をアルベラの体に寄せくんくんと匂いを嗅ぎ、彼女は「あ、」とアルベラを見上げた。
「ガルカの匂い強くなった。良くない匂い、分かり辛くなった」
アルベラは安心の笑みを浮かべる。
「良かった。それなら明日は今日ほど人目を気にせず里を回れるかしら」
(エリーはほぼヌーダだし、確認してみて貰っても『何となく良い匂でなくなった気がする』とか曖昧な答えしかもらえなかったんだよな。コントンの嗅覚じゃ的確にアスタッテの匂い拾い上げちゃうし、ガルカは『無いよりマシか』とは呟いてたものの、どれだけマシかよく分からなかったし……)
「え? 何嬢ちゃん……。ガルカの兄ちゃんの匂いが強いって、部屋であんた等何してたんだい?」
口に手を当て、アンナがわざとらしく笑みを深める。
アルベラが彼女を睨み上げると、後ろからずいっと圧し掛かる様にガルカが現れた。
「さあ……。特に期待に沿えるような事はしていないが」
と言葉は事実でありながら、ガルカがは態とらしくアルベラの肩に手を乗せた。そして、その服の首回りもまた態とらしくはだけさせられているのがアルベラの視界に入った。
「あんたね……」とアルベラが言い欠け、ガルカの後ろからエリーの腕がぬるりと伸びてガルカの黒頭とアンナの黒頭を掴み上げる。
「―――私がいてそんな事があり得るわけないでしょう?」
「ぐ、ぐぐっ……」
「ちょ、姉さん……何で私まで……」
その夜は宿にて、ピリの両親や他の住民たちとを交えた賑やかな歓迎会が開催された。
アスタッテの匂いに顔をしかめる者はアルベラが見る限りだが全くおらず、その晩の心配と言えばアンナの飲酒具合のみだった。
アルベラ達一行は食事もエイヴィ達との交流も存分に楽しみんだ。その晩は宿の夫婦からも朝まで好きにしてくれて良いと言われ、それぞれのタイミングで部屋に戻ったり、そのまま食堂に居続け寝落ちするまで酒を仰いだりとして過ごした。
***
翌日。
まだ里に来たばかりという気持ちは拭いきれないが、今日の夕刻までにこの里を発つ予定だ。具体的な時間は決めていないが、多分おやつの時間辺りになるだろうとアルベラは踏んでいる。
今日で学園の前期休暇は十六日目。旅行に出てからは九日目。
地図を見つけティーチと話し合った当初の計画では片道六日の予定だったのだが、その後ガウルトに寄る事となり道が変わったり一泊の予定が入ったりで行きに二日の日数が足され八日かかる事となった。つまり、ここまではちゃんと変更後のその予定通りの日数に収まっている。
エイヴィ里に一泊し、帰りに片道約五~六日。六日かかっても前期の休暇があと八日は残っていた。
(もう少しゆっくり里を回りたいし、もう一泊してもよくない? ガウルトに行かなければその分この辺りの観光にあてられたのに……)
今日も泊まって明日の早朝に発つでもいいのでは、とアルベラの心が揺れた。
しかし、休み最後の一週間はちゃんと屋敷に帰ってきている事。屋敷で過ごす事。というのは長旅を許すにあたり彼女の両親が彼女へと言い渡した条件の一つだ。帰りに何かあって脚が遅くなるかもしれない事を視野に入れるなら、予定通り今日のうちにこの里を出る事が正解なのだ。
約束を守らなければ今後の長期休暇の自由度に響くと、己が悪魔の囁きにアルベラが負ける事は無かった。
という事で、お昼過ぎまでに里を回り切りたいアルベラは、今日は午前中から里をピリに案内してもらう予定だ。
昨日の残り部分を回るのであれば半日もかからないとの事で、その後は昼食なりおやつなりを取りながらゆっくり過ごそうと、昨日の内にピリと話して決めていた。
ピリ曰く、里の外の方が楽しめる場所が多いらしく、出来る事ならそこも案内したかったらしい。時間がないので、そこは仕方がないので今回は諦める事となった。
宿に迎えに来てくれたピリを部屋に招き、アルベラは開口一番「どう?」と尋ねる。
ピリは首を横に振った。
「昨日より弱い。悪魔の匂いの方が目立つ」
「そう。―――じゃあこれでどう?」
アルベラの髪がふわりと魔力に灯り、すぐに落ち着いた。ピリはクンクンと匂いを嗅ぎ「うん」と首を縦に振る。
「昨日と同じ位になった」
「そう、」
(ガルカに『髪じゃ匂いが弱い』とは言われたけどやっぱ弱いのか。アスタッテ臭消しには血で確定ね。私の魔法がもっと上達したら髪とか本人からさらっと匂いを借りれるようになるのかな―――)
『水と風はよくある属性魔法だけど、その霧は嬢ちゃんだからこそこの特質的な技だからね……。考え無しに気安く人に披露して良いもんじゃない。しかも真っ向からぶつけて効果のあるような破壊力が高い系の力じゃなく、不意打ちやトラップ向きの力だ。―――くくくっ、嬢ちゃんらしく“姑息な”ね。―――この旅行に同行するって騎士がどんな奴らかは知らないけど、簡単に基本的な力以外は手の内を明かし過ぎるんじゃないよ。アンタは騎士や兵士じゃない。あいつらみたいに団体戦を必要とされてる場面も滅多に無いだろ。基本守られる側。なら優先して必要なのは“いざという時自分を狙う人間から身を守る方法”だ。となりゃあ、“敵を欺くなら先ず味方から”ってね』
(―――と、随分前に姉さんから言われたけど。そうすると結局、行きの旅路では表だって霧の練習出来なかったんだよな。出来れば魔獣とかで試したかったんだけど……。帰ったら思う存分鍛える時間を作ろう。―――この道中こっそり出来る練習無いかしら? ―――………………うん。纏う匂いの濃度調節に意識を向けてやってみましょう。ガルカの血を霧に混ぜたとき、近くにいたエリーは体がダルくなったって言ってたけど、ガルカは特に何ともないって言ってた。多分霧の成分は本人には無害なんだ。なら匂いの濃度はガルカの鼻で確認して貰える。うんうん。匂いを確認する程度の霧なら少なくて済むし手軽ね。なにもしないより良いか)
「今の魔法? 魔術? ガルカの匂いつよくなって、ちょっとくらってした。アルベラ匂い操れるの?」
ピリが無邪気な好奇心をアルベラへ向ける。アルベラは扉がちゃんと閉まっているのを確認し口の前に人差し指を立てた。
「少しだけね。魔術か魔法かは秘密」
「ピ? アルベラけちけち」
無表情にたんたんとした声音でそういうピリに、アルベラは手をわきわきとさせ軽くくすぐりのジェスチャーをして見せた。ピリは怯えを露に身を竦ませ目を潤ませる。アルベラは「ぷっ」と吹き出し、笑いながら「やらないわよ」と彼女を宥めるのだった。





