254、目的の地 9(光る川の辺)
(よし)
アルベラは、魔力をインクにして描くことで陣や印の効果や強度を上げられる魔術用の製図ペン、通称「製術ペン」を置くと、三十分ほどをかけて模写した陣を見下ろした。
A4サイズ程の皮紙には、『今日はもう遅いので、訓練ではなくこちらを』とテントを張っている間にガイアンから渡され、その使い方を教えてもらった陣が写されていた。
ガイアンが普通の紙に書いた見本と見比べ終えると、アルベラは試しに自分の描いた陣に魔力を通して見た。魔術を発動させない程度の微弱な魔力を描いた線に走らせ、問題ない事を確認し魔力を納める。魔力が塞き止められるような詰まりや熱がないかを確かめたのだ。
(外で少し試してみるか)
アルベラはテントの端に置いていた荷物の中から神獣の恵み石を一つ取り出し、昨日ガイアンに教えてもらった「魔法の効果を転送させる陣」の上に置いた。因みにこの陣、正式名称は「ケッティロの転送陣」と言うらしい。だが「転送の陣」と呼ばれるのが殆どらしく、アルベラもそのように呼んでいた。
アルベラは転送の陣と対になる、魔法の転送先となる印の見本と、自分が先ほど書き上げた陣を持つ。
(―――と、ついでにこれも)
と、彼女は思い出したように荷物をまた漁り、旅の合間の野営で振る舞われた際飲まずに拝借していた、コップ一杯分程度の小型のアルコール瓶を取り出しポケットに差し込んだ。
「ちょっと外行ってくる」
「あらあら、お一人で酒盛りですか?」
ポケットからはみ出る瓶を見てエリーはくすりと笑う。
「ええ。―――あ、護衛の方は大丈夫だから。コントンがいるし、テントのすぐ前に居るから」
就寝用の薄化粧を施していたエリーに声を掛け、アルベラはローブを纏うと「ほら、あそこら辺」とテントの入り口をめくって見える辺りを指さした。
「分かりました。お気をつけて」
「ええ。すぐ戻る」
一行の就寝用テントから少し離れた場所、丁度よく上部に人一人が横になれる範囲の平たい面がある岩の上。横になっていたガルカは、一人で川辺に行き腰かけたアルベラの姿を見つけ「不用心な奴」と呟いた。
彼は横たわったまま辺りを見る。
アルベラや冒険者達の野営地の周囲には旅人や観光客の姿があり、アルベラ達同様彼等もテントを張り寝る場所を確保している。皆それが当然と、互いに近寄り過ぎずある程度の距離を空けていた。
テントの外で火を囲む者達もおり、その姿は夜目の効くガルカにはよく見えた。獣の耳や尾を持っていたり、翼をもっていたり。―――そしてその口元には時折牙が覗き、血なまぐさい匂いを漂わせる者もいる。明らかにヌーダではない人種の者達が多いのはお国柄というやつだ。あのお嬢様が生まれた国ではあまりない光景だった。
数キロ離れた場所では酔った獣人たちが牙を剥き、頑丈そうな尾を地面に叩きつけたりし笑いあっていた。かたや厚い毛皮も牙も持たないヌーダの子供が一見護衛もなく川辺に一人。
(獣人とかかわりの多い国のヌーダは、獣人に対してもっと警戒心が強いのだが……。平和ボケとは恐ろしいものだな)
とガルカは呆れる。
それに……、と彼はここに来るまでに他の一団とすれ違った時の事を思い出す。
彼女の独特な体臭に、他人種の者達が怪訝な顔をしてその不穏な匂いの出所を探していたのだ。果たして当の本人は、その事に気付いていただろうか―――。
(多分気づいてないだろうな……。今はこうして互いに距離を取っているから良いものを)
他にも聖獣殺しという禁忌を犯した者の匂いに周りが顔をしかめている図もあったが、それに付いては当の冒険者たちは自覚しているようだった。
神への信仰心の厚い者からしたら聖獣の死の匂いがするものは侮蔑や嫌悪の対象となるわけだが、だからといってそうそう感情のままに手を出してくる輩は少ない。たいていは嫌な顔をして睨みつけたり、嫌味を言って離れていく。今回は運がいい事に喧嘩っ早い者はいなかったようだが、悪質な輩はは寝てる間に「粛清」と言って寝床に火を放つ事もある。
その対策のため、今夜はナールとスナクスがばらけて互いに別々の方を向き辺りを見張っていた。
アルベラのいる場所と彼等の視野の範囲を見て図り、ガルカは無意識に「あれなら問題ないか」と思い、苦々しく表情を歪める。
「なにが……」と彼は呟き、あのお嬢様の背を睨みつけた。
「いっそあの獣共に襲われるか、川に落ちて溺れてしまえばいい」
そしてアレが散々に苦しみ抜いた時、自分が助けの手を差し伸べたらアレは一体どんな顔をするだろうか。と考え、ガルカは馬鹿らしいと頭を掻く。
(コントンに冒険者達の見張にあのオカマ男……)
自分が意識を裂いてやる必要は無いと、彼は寝返りを打ち眩しい川へと背を向けた。
川辺に座ったアルベラは少し離れた場所で見張りをしているスナクスを見つけ、お疲れ様の意を込めて片手を軽く振った。相手もこちらの存在に気付いていたようで、はらりと手を振って返してくれる。
「コントン、いる?」
『バウ』と小さく聞こえた返答に、アルベラは微笑み安心した様に目の前の川に目をやった。
その幻想的な光景に満足げに息を吐くと、彼女は持ってきた印と陣を取り出す。その試し撃ちをさっさと済ますと、確認もそこそこにアルベラは持ってきた瓶をポケットから取り出した。
川の明かりで瓶を照らし、そのラベルに書かれたアルコール度数が、香りづけ程度の弱いものである事を確認した。彼女は満足げに「流石ビオさん」と、数日前の夕食時にこの瓶を勧めてくれた人物の名を呟く。
彼女が一人酒をする事は普段はない。アルコール類を飲むのはパーティーで人に勧められた時くらいなのだが、幻想的な風景を前に今日は何となく一人で飲んでみたいと思ったのだ。
青く輝く川を肴に、アルベラは甘みの少ない爽やかな果実酒を楽しむ。
(この間ガイアンにさんに教えてもらった陣はとりあえず一枚描けたし、今日の奴もとりあえず一枚。皮紙はあと三枚か。早ければ明日の夕方にはピリの里に着けるって姉さん言ってたし、書く暇があるとしたら後は帰りかな。―――とりあえず、恵み石でのお遊び……、もとい練習用には一枚ずつあれば十分か)
先ほどしたため上げたばかりの陣を眺め「私も遂に、陣を自分で描けるようになったんだよなぁ」とアルベラは口元をほころばす。
今までにも陣は描いたことはあるが、こうして改めて自分で描いた陣を眺め使えるようになってる事を思うとやはり嬉しいのだ。
ちなみにこの陣を描いた皮紙は昨日村の雑貨屋で購入した物だ。魔術用の皮紙には動物性のものと魔獣性のものがあり、運よく魔獣性のものが数枚置いてあったのでそれを購入してきた。
(魔法が全く使えなかった頃が嘘みたい)
と皮紙を丸めてポケットに入れ、アルベラは瓶を口につける。
泥酔するのは好きではないが、今日はこの未成年用の度数が物足りなく感じた。ちゃんと体が出来上がるまでは我慢だと自分に言い聞かせ、アルベラはその香と眺めを味わう。
***
小さな瓶が空になるまで、アルベラはのんびりと何を考えるでもなく川を眺めていた。
この景色も十分堪能できた、と彼女は空になった瓶をポケットに突っ込み、立ち上がる準備にぐっと背中を伸ばす。
その際に眺めのいい星空が目に入り、「あら、こっちもなかなかね」と彼女は体から力を抜き空を見上げた。
(星空、最後に見たのいつだっけ……………………あ……)
―――『どうした?』
アルベラの記憶、自分の誕生日に屋敷の庭から眺めた星空と、普段よりも優しい「彼」の気遣った声が蘇る。
ぶわり、と彼女の髪が一瞬、風に煽られたようにフードの下で膨らみ魔力に灯る。
頭が熱くなるのを感じ、アルベラは山座りをした膝を抱えその膝と腕の間に顔を埋めた。
顔のほてりが冷めるまでの短い時間をそうして、落ち着くと僅かに顔を上げ、目元だけ覗かせて膝越しに川を眺める。彼女は「まったく……」と零して息を吐いた。
「そりゃあ………………」
(―――そりゃあ、ヒーローですし……顔もいいですし……性格もいいですし……。だってヒーローなんだもの、当たり前じゃない……。―――たまに生意気だったり怖い時もあるけど……)
ラツィラスと手を組んではジーンを揶揄ったり、酷く怒られたりとした思い出に、アルベラの表情が柔らかくくずれた。警戒していた頃にもそんなやり取りはあったが、あれはあれで自分は楽しんでいたよな、と彼女はその時の心の奥底の素直な感覚を思い返す。
アルベラは自分の緩んだ表情に気づき頬に手を当てる。その表情は困ったように歪み、そのままむすりとしたものへと変わった。
(ああ……もう……)
自分の思考に呆れ、彼女は片手で頬をつねった。
会った時から意識はしていたとはいえ、誰もそういう意味での意識は向けていなかった。要注意人物の一人として、相手を見張る意味で、様子をうかがう意味での「意識」だったはずなのだ。
(初めは何となくヒーローらしく真っすぐで誠実な子だなー……って、思ってただけだったのに……)
それがいつからだろう。相手に信用や信頼を抱くと同時に、憧れじみた感情が混ざるようになっていた。
「憧れ」と言っても、それは異性として恋愛どうのと言った物ではない。人として、生き方としての「憧れ」だ。
やりたい事があって自分という物を持っていて、その行動や発言には何かしらの軸がある。まさに前世の自分の死に際には見る影もなくなっていた、自分の中に感じ取れなくなて、人の中にそれを感じては羨ましくて仕方なかった「芯」とはこういうのものだったと。そんな眩い羨望でしかないはずだったのだ。
(―――もう……。それもこれも、きっとあなたのせいだからね)
十歳の誕生日とストーレムの町での薬騒動を機に、定期的に顔を合わせるようになった赤髪と金髪の少年。その金髪の方、ラツィラスをアルベラは八つ当たりのように思い浮かべる。
(あなたがあまりにも胡散臭い態度をとるから……、いや、そりゃあ寵愛の事とか知らなくて余計に警戒してたのもあったけど。ていうかメインのキャラだし私の役的にもあの子は警戒して当然だし……。警戒して当然だってのに妙に『胡散臭い』のがいけないんだ。そのせいで対比的にジーンの信用度があがってたっていうか、勝手にあの王子様との間で寵愛への防壁みたいに扱ってたって言うか、クッション材みたいな役割を果たしてたみたいな所があったし、王子様と違って地位とか気にしなくていい分つい気を抜いてたっていうか……―――)
「―――……はぁ……」
言い訳を並べる自分の思考にアルベラはため息をついた。
戻ろうとしていたことも忘れ、光る川の事も忘れて彼女は自分の足元を見ていた。
(そりゃあ、恋愛をないがしろにしようとは思わない。思わない……けど、今がつがつ行きたいかって考えると……)
彼女はまた息を吐き、頭の中で「そうじゃないよなぁ……」と情けない声で呟いていた。
「自分の本心から目を背けて無気力に諦める」は無しなのだ。当たって砕けろ精神で「やりたい」「手に入れたい」と思った物・事には全て向き合っていこうと彼女は考えている。思いつく人生の醍醐味は全て楽しんでやろうと、今まで何度となく決意してきたのだ。
(上手く行かなくてもいい。やれるだけのことをやる……か)
だが、―――だからといって彼女の中で立てられた「優先順位」が揺るぐ事は無かった。
先ずは何より「生」なのだ。
つまりは「与えられた役の遂行」。死んでしまっては積み重ねてきた努力も、今に至るまでに固めてきた覚悟も、これからの人生への意気込みも何もかもが水の泡だ。
(自分の感情がセーブできなくなったら、それはもう仕方ないとは思う。怒りなり悲しみなり恨みなり……恋情なり……、『役』が手につかなくなるくらい自分の感情が何かに憑りつかれたら……、もうそれに素直に従うしかないと思う。だって……そうなったらもう、仕方ないじゃない……)
情けない、とでも言いたげに彼女の肩が落ちた。
(理性が感情に負けたら、その時はどうしようもない。そうなったら自分の心を満たしつつ、誤魔化し誤魔化しでも役の達成を目指すしかない……。だけど)
アルベラの表情がすっと消え、冷静な瞳が静かに川へと向けられた。彼女はぽつりと呟く。
「まだそこまでじゃない」
彼女は自分の悪役業が終わるまでの事を想像した。
その間にもし「彼」が誰かと恋仲になったら。情熱的な恋に落ちたら。それを目の当りにしたら―――。
胸に感じた小さな痛みを確認し、「この程度なのだ」と彼女の目が細められる。
(失恋なら前世でだって経験した……。四十年近くの人生、そんなの二度や三度はあじわって………………ん……? 四度だっけ…………? え、五……? ……六……?)
小学生の頃まで記憶を遡らせ些細な物も思い出し、「いやいや、そうじゃなくて、」と彼女は逸れた思考をもとに戻す。
(慣れたとまでは言わない。……………………けど、―――死よりも恐れる事じゃない)
アルベラは立ち上がり、パンパンと服を叩く。
(きっと、今の私の性格的に祝いの言葉くらい笑顔で言える)
逞しくなったものだと皮肉交じりに思いながら、彼女は最後にもう一目と川を見た。
魚の群れはこの地を通過し終えようとしているのか、ここに来た時よりも川の光は衰えていた。だがそれでも、やはり目の前に広がる景色は美しかった。
青く輝く川。魚が互いの光に反射し合い、身をよじると個々がきらりときらりと煌めいていた。そして川に沿って配置されたテントや焚火の明かりに、満点の星空と銀色の満月。
川の先ので煌々と輝く群れを見て、アルベラは小さく口角を持ち上げる。
(何が廃棄予定だ。生き抜いて、この世界を更に……存分に楽しみ抜いてやるんだから)
みてろよ、と神へともあの賢者様へとも言い放つように月を一睨みし、アルベラはテントへと戻っていった。