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アスタッテの尻拭い ~割と乗り気な悪役転生~  作者: 物太郎
第3章 エイヴィの翼 (前編)
166/411

166、お爺様の試験 6(まどろみ)



***



 薄暗い室内に外から聖職者達の讃美歌が漏れ聞こえる。

 部屋の外では子供たちが燥ぐ声と、世話役のシスターが窘める声。

 もう何年も立ち入るものがいない埃の積もったその部屋で、一人の男はしゃがみ込み、床に手を当てていた。

『なあなあ、ここの宿舎、見回りとかしてないよな?』

『なに? 見回りならたまにシスターがしてるって言ってたけど』

『なんだ。そうなんだ』

『誰かいたの?』

『うん。さっき、人の影があった気がしたんだ。ほら、あの部屋』

 外から聞こえる子供の声。

 彼は気にせず意識を足元に向ける。触れているのは地下へと続く戸だ。彼は静かに目を瞑り、耳を澄ませた。

『きっとお化けだよ! 先月お姉ちゃんたちが見たって騒いでた!』

『違うよ! 化け物が出るんだ! 知ってるか? あの宿舎の中で、ずっとぐるぐるぐるぐる這い回ってるんだって。聖女様ぁ、聖女様ぁって言いながら』

 子供たちのいる場所と壁一枚しか隔てるものがないその部屋は、空気がピンと張りつめ「賑やかさ」とは程遠いものだった。

『あなたたち、そっちは危ないから入っちゃダメって言ってるでしょ』

 外から大人の女性の声がした。

『シスター!』

『俺たちは入ってないよ!』

『そうだよ! 立ち入り禁止の魔術だって張ってあるし、俺らに入れるわけないじゃんか!』

『シスター! シスター! お化けだよ! あの部屋にお化けいるって! 聖女様に言って退治してもらおうよ!』

『ちっげーよ! 化け物だってば!』

『ここにはお化けも化け物もいませんよ』

『……そ、そうよ。ここは建物が古いのと、前にトラップが得意な子がいて、その子が張ったまま忘れちゃった魔術がまだ残ってるから危ないんだって……私聖女様から聞いたもん』

『チャーリーの言う通りです。一応確認はしますから、あなたたちはあちらの庭で遊んでらっしゃい』

 子供たちの返事がばらばらと聞こえ、去っていく足音が続く。

 部屋の中は相変わらず、彼以外の動きも音もなかった。

 埃が舞うこともなく、停止したような空間の中で彼の背中だけが、小さくゆっくりと呼吸に上下していた。

 壁に立てかけられた曇った鏡が、彼の姿を映し出す。

 不健康にひょろりとした肢体。暗い鼠色のぼさぼさな頭に、生気のない目、鼻から上の焼けただれた皮膚。

 ―――スゥ……

 自分の呼吸の音の向こう。

 この地面の遥か下に、彼らの囁くような、うめくような声が聞こえた。

 ―――コッチコッチ ハヤクー

 ―――ワタシ セイジョサマトケッコンスルノ

 ―――オフロヤダー メンドウクサイヨー

 ―――ミンナー オヤツノジカンダヨ

 それらは何かを言って、無邪気に笑ったり泣いたりしているが、どの言葉もお互いの誰とも噛み合ってはいなかった。一つ一つがその一言きりで完結し、そういった意味のない言葉がひたすら繰り返される。

 これは寝言なのだ。彼らの記憶に寝る、かつて彼らが日常の中で口にしたことのある言葉。この三十年近く、ずっと発せられ続けている独り言。

 彼は「……いるな」と無表情に呟いた。その瞳の奥は真っ黒で、その黒は外の讃美歌に反応して嫌がるようにずるりと蠢く。

(足音か)

 人の気配に頭を上げる。彼の服の中、首につるされた鍵が胸の前で音もなく揺れる。



 子供たちの言葉に、そのシスターは古い小さな宿舎に足を踏み入れていた。

 教会の大人関係者の立ち入りは容易い。

 魔術で立ち入りを禁止しているうえ、月一で見回りも行っており、今まで誰かが勝手に住み着いていたという事もなかった。

 彼女は薄暗く感じる宿舎の廊下、子供たちが示していた部屋の前に立つ。

(……『静養の悲劇』)

 扉のノブに手をかける彼女の頭に、ふとそんな言葉が浮かび上がった。

 彼女の中に小さな恐怖心が芽吹く。

 もしこの中に、本当に誰かがいたとしたら。もしも誰かが住み着いていたら、もしも例の化け物がいたとしたら。

 たまに視界に入る黒い染みが、彼女の心の弱い部分を刺激した。

(いえ。だけど、聖女様は何もいないとおっしゃっていた……)

 彼女は思いき切ったように扉を開く。

 ―――ギィ

 きしんだ音が空っぽの宿舎内に響き渡った。

「……!!」

 彼女は動物が毛を逆立てるように、反射的に魔力を発揮する。

 両手の爪に光がともり、髪が下から風を受けたかのように大きく靡いた。

「……」

 何もない。

 一瞬、何か黒い塊か霧のようなものを見た気もしたが、部屋は空っぽだった。

 積もったほこりに乱れはなく、誰かがいた形跡は全くない。

 彼女は息をつき、肩から力を抜く。魔力を仕舞い、彼女の体に灯った光が静かに消える。



「おいダタ! いるな!?」

 人気のなくなった宿舎の中、例の部屋の扉が大きな音を上げて乱暴に開かれる。

「うるさいぞ。また人が来たら面倒だろ……」

 部屋の中央、ゆらりと空気が揺れたかと思うと、そこに一人の男が姿を現した。

 彼はしゃがみ込んだまま、訪れた真っ白なウサギの青年を見上げる。

「あいつら遂にやりやがった! 二十一番だ! ふざけやがって!!」

「二十一?」

 ダタはダルそうな目でじっとウサギの彼を見上げ、少しして「なんだったかな」と呟いた。

「俺も忘れた! マンセンの奴が気付いて、今それが何だったか調べてるよ。けどどうせ甦らせたり再生させたり、紛い物作り上げたりだろ。あいつらの目的なんてバレバレだし想像つくって。ったく、諦めの悪い奴らだよな! 兄弟愛が何だっつうの。数百年生きたら十分だろ。安らかに眠らせてやれって話だよな!」

「ふーん……。それでどうする? 取り返すか? それともあいつらが二十一番をどう使うか見届けるか?」

「お前さー、手に入れた途端冷めるよなー」

「自分に使えないんじゃガラクタだからな」

「あーそーかい。まあ、俺はあいつら嫌いだし、自分に使えようが使えまいが問答無用で取り返して制裁食らわせたいかな。多分マンセンも同じだ。ダークエルフってコダマいたぶって食うじゃん? そもそもの相性的に嫌いだっつってたよ」

「そうか。なら俺もそれでいい。盗人に遠慮はいらないしな」

「よーし! じゃあさっさと蔵に行こーぜー! ……おっと、その前にあの学校か? それとも城にしとくか?」

「あの学園ならここに来る前に見てきた。今日はいないみたいだったぞ」

「ちぇー。玉がどうなったかはまた当分後回しか」

「城の方も、見たところでどうしようもないだろう」

「まあなー。今はマンセンの気も荒れてるし、あいつが落ち着いてくんないと解析も捗らないし。……んじゃ、さっさとあの二匹絞めてやるしかないか! いやぁ、嫌いな奴堂々と殴れる言い訳あると清々しいよなぁ。腕がなるぜ!」

 ケラケラと笑いながら、ラビッタの青年は部屋を後にする。

 ダタも部屋から出ると、埃の積もり方まで全て、自分が来る前の状態に戻す。

 扉を閉め、宿舎を出て、彼らは誰にも気づかれることなく清めの教会を後にする。



 王都の一角の居酒屋に人だかりができていた。

 店主に言われ、警備兵を呼んできた店員がその席へと駆け付ける。

「なんだ? 食い逃げか?」

「人殺しだってよ」

「おっかしいよなぁ。俺みてたんだぜ? 楽しく話してたように見えたのによお」

 通りがかった人たちは興味から人垣の奥をのぞき込む。そんな彼らが目にするのは、人だかりの奥で料理に顔を突っ伏して寝ているような男の姿だ。その足元にはおびただしい量の血だまりができているが、人の合間から覗き見る彼らからはそこまで見えはしない。

「ええ……ええ、はい。そうです、……その、顔や姿は全く見ていなくて……。そこの彼は酔っぱらってはいましたが、普通に常識の範囲内だったと思います。……ええ、普通に和やかに話しているだけで。争う声も聞こえなかったんですよ?」

 兵士に事情を聴かれ、店主が答えていた。

「え? 最後になに話してたか? ……私は店の奥にいたんで、そんな細かい内容までは……」

 隣の席にいたという客が言葉を挟んだ。

「あ、あの。……彼、お酒とか色々、奢ってあげてたんです。最後の方で私が聞いたのは、『野菜すきだろ』って。サラダを進めてたみたいで。それから小声のやり取りがあって声がきこえなくなって、……見たら、こんなことに……。本当に一瞬で、全然争うような感じは無かったと思うんです……」

 兵士は何の手掛かりもなく頭をかく。

「え? 相手の声? ……それが、聞こえてたはずなんですが……男か女かも全く覚えてなくて……ええ、ええ……」



「ラーノウィー。飯食ってたんじゃないのか?」

 都の境に向かう道中、ダタは細い道を先に行くラビッタの彼へ尋ねる。

「ん? ああ。気の良い奴がいてさ。同席して飯食って酒飲んだぞ」

「気の良い奴なのに殺したのか?」

 「お? 匂うか?」とラーノウィーが自分の服を引っ張りクンクンと鼻を動かす。「少しな」とダタは答えた。

「いやあ。良い奴だったんだけどさ、そいつシーフでよー。……職業病だなありゃ。酒飲みながら俺の事探ってて『ラビッタ族か? 野菜好きだろ?』だと。俺に話しかけたのも、他人種って気づいて、奴隷がどっかから命からがら逃げてきたのかと思って気になったかららしい」

「良い奴じゃないか。しかも優秀だ」

「腕がいいのは認める。けど好奇心は場所と相手を選ばないとな。あいつはそういう意味では未熟だったって事だろ。良い奴だったのに残念だ。あとよく考えりゃ、『ラビッタだからって野菜好き』ってのもマイナスポイントだったよなー。こちとら肉も大好きだってのに」

「気を利かせたつもりだったんだろ。可哀そうに」

「可哀想か、笑えるな。思ってもないくせにー」

 細い路地にカラカラと笑い声が響く。



 ***



 四~五十センチ程の真っ白な毛の塊がふわふわと木の枝の上を舞っていた。まるで真っ白な毬藻でしかないソレは、よく見ると積もる雪に紛れるように木の幹や枝にくっついている。

 目も耳も口も、それのどこにも見当たらず、生物なのかどうかも疑わしい。

 この毛の塊こそがコユキンボである。



 一つの木にくっついていたコユキンボ達が、同じタイミングで何かを察知してぶるりとその身を震わせた。

 真っ白な毛の合間から、四本の枯れ枝のような長い手足がとびだす。かと思えば、彼等はまさに蜘蛛のような動きで、蜘蛛の子を散らすようにその木から一斉に離れていった。

 その数秒後、数匹のコユキンボが密集していた場所に、幾つかの炎の玉が当たる。

 速さはあったが威力は無く、その炎は木に当たるとその肌を僅かに焦げさせたのみで消滅した。

 破壊行動は慎む事。

 昨日からずっと副団長が口を酸っぱくして言っている注意事項だ。

「ちぇー、また外したかぁ……」

 今年学園を卒業し、共に見習いも卒業し、正式な騎士となったばかりの彼は肩を落とした。また狙いやすいコユキンボ達を探して辺りを見回す。



 ***


 

 ―――良いか、ジーン。制御が出来るようになるまで、むやみに魔法は使うな。安心しろ。制御できるようになるまで、俺がしっかり、みっちり、がっつり訓練してやる。



 真っ暗でつめたい穴倉。

 伯父の言葉を思い出しながら、魔法を使うべきか使わないべきかを考えていた。

(けど、出られないと寒くて死ぬよな。……こういうのって、空気もなくなって死んじゃうっていうし)

 外から入り込んだ風を感じ、頬に手を当てる。

(……隙間あるし、空気は大丈夫か)

 土の壁面に背を預け、膝を抱え込むように座ると自然とため息が漏れた。辺りは真っ暗なのに、なんとなく白く染まった自分の息が見えた気がした。

(もう少し待って状況が変わらなかったら魔法を使おう。けどどうせ、誰も自分がここにいるなんて、気付きもしないだろうな……。あいつらが戻ってきてこれをどかすとは思えないし……)

 そう考えていた矢先、出口を塞いでいた大きな雪玉が僅かに動き光が差した。

 隙間から外を覗くと、同様に誰かが外からこちらを覗き込んでいた。

 真っ赤な瞳に驚いて、つい腰を上げてしまい、低い天井に頭をぶつけ小さく呻く。

 外の誰かも「わぁ」と驚いて尻餅をつき、くすくすと笑いだした。

 日の光のもと、隙間から見えた彼の金髪が眩しく輝いていた。

 自分と同じくらいの年の少年。

 彼は穴の出入り口を塞いでいた雪玉を何とかどかし、くるりと瞳を楽し気に輝かせてしゃがみ込んだ。


『かくれんぼですか?』



(……!)

 ジーンは「はっ」と目を開ける。

「っ……いって……」

 つい、うとうとしていた。

 そう気づいて慌てて頭を上げてしまい、低い天井に脳天をぶつけてしまった。

 彼は両手で頭を抱え、動き少なに痛みに悶える。

 山の中見つけた横穴に、防寒の魔術を施して休憩をとっていたのだ。ほんの少し休むつもりで腰をおろしたのだが、昼食後のせいか気持ちの良い眠気に襲われ、気づけば数分目を閉じていた。

(雪……それと穴のせいか……)

 彼はぶつけた場所を撫でながら穴からでて体を伸ばす。頬を冷たい風が撫でた。

 穴蔵の中に描いた魔術印を足で掻き消し、「そういやあいつ、あの頃ってまだ敬語だったな」とぼやく。

 目に入った木に数匹のコユキンボを見つけ火球を放ち、いとも簡単にそれらを消滅させる。コユキンボが止まっている場所でなく、逃げる方向を予想しそこへ玉を放っているのだ。

(二二八……。あと七十二か)

 今、ジーンとラツィラスとウォーフは、コユキンボを三百匹狩り、誰が一番先にスタート地点に戻ってこれるか、という競争をしている最中だ。

 走りながら魔法を放ち、三十~四十分に一度休憩を挟むを繰り返し、ジーンは山の中腹を回っていた。

(あと五十になった辺りで戻り始めるか)

 彼は懐かしい夢を見ていたことなどすっかり忘れ、自分が興じる遊びに思考を優先させる。



 ***



(コユキンボ……素早すぎ、もろすぎ……)

 午前中に一匹のコユキンボを捕まえ「あと二匹か」とアルベラは息をつく。

 午前中はひたすら自分に使える手を試して終わった。

 色々試した後、ようやく見つけたのが「潜伏の魔術」で身を潜め、ひたすらコユキンボから近づいてくるのを待つ、という方法だった。

 潜伏した状態で近づいた場合、足音か空気の動きか、何を感知してか逃げられてしまうのだ。そうなっては、シンプルに動かず待つのが、今自分に思い付く最善の手だった。

(素の脚力はあてにならなかったし、誰かがしていたみたいに『脚に風をまとってスピードアップ』は、一応試したけど駄目だったし……。あの風の使い方、私とは相性が良くないんだよな。習得できる気がしない。……香水は効かず、薬は効いた。けど、しびれ薬や眠り薬の霧をまとわせたコユキンボは、数分後に息絶えて消滅。こうしてじっとしてるしか手がないなんて……倒すだけの方が断然楽だったのに。お爺様のいけず。あいつらも、今頃高みの見物かましてるんだろうな……)

 アルベラは木の根元に座り込み、じっとコユキンボの接近を待つ。

 エリーとガルカは、午前中、始まって三十分も経たずにブルガリー伯爵の課題をクリアしてしまっていた。

 彼らは「アルベラを助けなければ好きにしていい」という伯爵の言葉の下、伯爵と共に望遠の魔術で自分を見ることにしていた。

 ガルカなんかは、翼もあることだし気ままに空から他の騎士や兵士たちの事も眺め、バカにして笑っているのではとアルベラは想像していた。

(見えてるー? お爺様。じっとしてる孫の姿なんて見てて楽しい? どう? じれったい思いしてるかしら? この暇でじれったくて仕方ない気持ち、思う存分共有するがいい)

 一応、こうしてじっとしている間も他の手がないか考えているのだ。だが思いつかないのだから仕方がない。思いついて試すにも、「せっかくこれだけ近くにコユキンボが寄ってきたのに」と思うと、新手を試すことは一先ず後回しになってしまう。



「全く……地味な手を使いおって。暇でたまらん」

 そう言ってブルガリー伯爵はアルベラの持ってきた二匹目に拳をぶつけて消滅させる。

 手の中で雪のように崩れ、消滅するコユキンボに、アルベラは虚しさを覚える。

(次持ってきたら先に私が消し去ってくれる……)

 そんな思いを胸に、アルベラは三匹目を狩るべく自分の持ち場へと向かった。



 持ち場に向かう途中、どこかで雪の崩れる音がした気がした。

(小さい雪崩? 誰かやらかしたかな)

 顔を上げるアルベラに、コントンが注意を引くように足裏を押す。

『オチタヨ』

「え、何が?」

『ヒト』



「あのバカ者。範囲外に出おったな」

 ブルガリー伯爵の前には空中に魔方陣が展開され、その中に映像が映し出されていた。望遠の魔術具により展開されているアルベラの狩場周辺の映像だ。

「お嬢様、どうしたのかしら?」

 伯爵と副団長に温かいコーヒーを渡し、エリーは首をかしげる。ザリアスは山に入っているため、麓の拠点には副団長が待機していた。

「俺が見てきてやろう」

 ガルカが翼を広げ飛びあがる。

 それを見てた伯爵が「魔族か……意外と使えるものだな」と呟いた。

「そうですね。言葉が通じない輩や、言葉が通じて思考が獣じみた輩も多いので、その判別が面倒そうですが」

 副団長は頷く。

 エリーはガルカに対する二人の肯定的な様子に形相を険しくする。

 普段からかけ離れた彼女エリーの恐ろしい雰囲気に気付いた副団長はぎょっと肩を揺らし、慌てて視線を山へ移す。



 アルベラは持ち場につき、そこを突っ切ってさらに少し奥まで進んだ。

 彼女の持ち場は山の麓。もう少し下った場所には河谷があり、それを挟んでこちらより一回り大きな山がある。

(何かが、滑り落ちたような跡……)

 その跡は河谷があると聞いていた場所へと続いていた。

(まさか人じゃないよね)

 コントンのはっはと嬉し気な息遣いが聞こえた。

『ホラネ』

「ホラネ?! え、人なの?!」

 言ったとおりでしょ? と誇らしげなコントンの空気を後回しに、アルベラは慌てて跡をたどる。

 なだらかな斜面は障害物も少なく、下ること自体はそんなに大変ではなかった。

(以外に続くな)

 白い息を吐きながら二十分くらい歩くと、大地の行く先がぽっかりと途切れているのが見えた。その奥にはこちらと川を挟む対岸の切り立った山肌が見える。

(ようやく)

 跡はその谷へと真っすぐに続き、谷の境ともに途切れていた。

 谷へと近づき、アルベラはごくりと唾をのむ。

(これのぞき込むの勇気いるな……)

「コントン、私が落ちらたら助けてね」

『ウン!』

(元気な返事で大変よろしい。……まあ、大丈夫か)

 アルベラは地面にしがみつくように身を低くし、谷底をのぞき込む。

 目にした光景に暫し言葉を失い、彼女は目を据わらせた。

「……何やってるんです、殿下?」

 そこには、崖に生えた木にコートを引っかけてぶら下がる、この国の王子様の姿があった。


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