1、プロローグ
――黄色い線の内側に下がってお待ちください
聞き馴れたアナウンスが流れていた。
ホームの先に点々と配置された、旗を持った駅員達。
「彼女」はいつも通りの朝を迎えていた。
眠気に欠伸をかみ殺していると肩に小さな衝撃を感じた。
かと思えば視界はぐらりと揺らぎ、「まずい」と思った時にはどうしようもなかった。
体を支えるために無意識に踏み出していた片脚。だが踏み出した先には何もなく―――
彼女は少し先にいた駅員の驚いた表情を見た。目の前は特急が迫っており、初めて真正面から見た電車と運転席と、口を開いて驚愕している運転手と―――
「え、」
(嘘……)
―――全身から酷い音がした。
***
ふらりと、一つの魂が流れから外れた。
それは既に神の選定が済んだ者で、流れの中で緩やかに溶けて消えゆくはずの魂だった。
ここは死者の魂が行きつく場。
沢山の魂が決まった道の上をなぞるように群となって進む中、先の一つの他にも、ふらり……、ふらり……、と極たまに群れを抜けて道を外れどこかに向かっていく魂達があった。
「おや……やぁ、いらっしゃい」
数々の「世界」を前にしていた彼は、自身の元を訪れてきた魂に気付くと顔を上げた。今見ていたのはある一つの世界だ。ここでは幾つかの種族が憎しみ合い、無関係の種族を巻き込んでの大きな争いを起こしていた。
その争いを起こすきっかけを作ったのは――他でもないこの「彼」。
彼自身には、別にこの世界への恨みはなかったのだ。世界の平和が崩されたのは、「彼」と「神」との間で起きた争いにその世界が理不尽に巻き込まれた結果だった。
「彼」は手元に置き眺めていた世界を退けると、客人を自分の元へと引き寄せ自身の形を変える。やって来た客人の故郷である世界、土地の、極平均的な人の形を模倣した顔を作り上げ客人へと親し気に笑いかけた。
「聞こえるかい? ――よしよし、問題は無さそうだ――さて、これから君には一つ世界を選んでもらうよ。嫌ならそう言ってね。君にはちゃんと拒否権があるんだから――」
***
午前の爽やかな明かりにアンティーク調の室内が照らされている。
少し冷たさの残る風がレースカーテンを揺らしていた。
「――様……お嬢様……お嬢様、……アルベラお嬢様!」
「……! なに?」
名前を呼ばれた少女はぱちりと目を瞬く。若葉のような緑色の瞳に見慣れた側付きの下女の顔が映り込む。
「お嬢様、カレン・スレイニー先生がいらっしゃいました」
「スレイニー先生が? もうそんな時間なの?」
とアルベラ――アルベラ・ディオールは目を瞬く。
「もう! しっかりしてよルミア。授業に遅れたら私の面目が丸つぶれじゃない! これだから平民は、時計の見方をまだ知らないの?」
明日で十歳になる彼女、アルベラは「ルミア」という下女へ遠慮のない言葉を浴びせる。
ルミアはと言えば、拳を握って微笑んでいた。彼女は「申し訳ございません」と引きつった笑顔で頭を下げ、お嬢様の勉強道具を持って教師の待つ勉強部屋へと向かった。
勿論アルベラは貴族らしくルミアの前を先導して歩く。
お嬢様が部屋に入るとルミアは彼女の勉強道具を机に置き部屋を出た。扉を閉めればその向こうから教師とお嬢様の挨拶が聞こえる。ルミアは扉に背を預けると、人目も気にせず大きく息を吐いた。
「お疲れね、ルミア。まだ午前よ?」
と掃除中の使用人仲間が数人が声を掛けて揶揄った。
「なぁに? 入ってきた頃は『貴族のお嬢様の相手なんて楽そう、ラッキー』とか燥いでたのに。あの頃のルミアはもういないのね。最近はずっとカリカリしちゃって、気晴らしに休みでももらったら?」
使用人仲間は部屋の中に聞こえないよう声を潜めて笑った。
「煩いわね! お嬢様があれよ!? 何かあれば平民平民って……人の失敗をずっと根に持って引っ張り出してくるし! 大体あの時、誰もこんな仕事だって教えてくれなかったじゃない。それに休んだら休んだで絶対チクチクと五月蠅く言われるんだから! 『貧乏人が随分余裕なのね』とか、本当どこで覚えてくるのよあんな言葉! 私、休みを取ったら最後、もう一生ここには帰ってこないから! 次の働き口が見つかったら休みとってそのまま消息を絶ってやる!」
「あらまぁ……随分自棄になってるわね……。けど突然抜けるのはやめなさいね。旦那さまや奥様を敵に回して良い事なんてないでしょ。だいたい……、職を変えたいなら仕事なんて幾らでもあるじゃない。選ばなきゃだけど」
ルミアは「う……」と言葉に詰まるも、正直に「ここのお給金になれちゃうと……選ばずになんて……」
同僚は呆れて息を吐いた。
「あなた……額につられて今より酷い仕事に当たらないよう気をつけなさい……」
「え、えぇ……わかってるわよ……」
ルミアが同僚と声を潜めておしゃべりをしている間、室内ではいつも通りのアルベラの授業が始められていた。
「――アルベラ様もご存じかと思いますが」
アルベラの授業ようにと準備された可愛らしくも上品な作りの勉強部屋。
家庭教師のカレン・スレイニーは黒板に文字を書きながら九歳の少女に伝わるよう気を付けながら魔力について説明していた。
彼女は王都の学園を高成績で卒業しており、その学力を買われて公爵に雇われた教師だ。
生まれも歴史ある貴族家であり一般教養も学力も申し分ない彼女は公爵や夫人から深い信頼を得ていた。
それもあり彼らの娘であるアルベラはスレイニーを教師として尊敬し、いつもそれなりに真面目に勉強に励んでいた、のだが……スレイニーから見て、今日のお嬢様はどこか上の空でぼんやりとしていた。
「魔力には大きく三つの種類があります。ごく一般的に使用されている自然魔力……コレは一般的な『魔力』という言葉が示すものですね。会話の中で『魔力』とだけ出てくる言葉は大体が『自然魔力』を示します。アルベラ様、他の二つは……覚えていますか?」
アルベラは一拍おいて「……はい!」と慌てて答えた。
「『聖力』と『瘴気』です」
(アルベラ様、今日はご気分が悪いのかしら……)
スレイニーは少し心配しつつも続けた。
「そうですね。神の吐息、清らかなる力と言われる『聖力』。そしてそれに相対する悪しき力である瘴気……こちらは邪気とも呼ばれます。自然界には魔力が流れ、私達生き物はその魔力を活用し――――――――――――――神気という神の力そのものを指す言葉もあります。ですがこの神気に限っては聖女様方だけが使う事の出来る力です。一般的に知られている聖気……穢れや淀みのない清い魔力も神に属する力ではと言われていますが、聖女様のお話では全く異なる力なのだと――……ですので……ですから……――――――――……様……アルベラ様……アルベラ様」
「……! は、はい!」
「アルベラ様、少し休憩をはさみましょう。大丈夫ですか?」
「そうですか……?」
顔を上げたアルベラの顔色を確認し、色味自体はそんなに悪くなさそうだと思いながらスレイニーは持っていた本を置いた。
「はい。無理はなさらないようお気を付けください。――誰か」
スレイニーはハンドチャイムを鳴らして使用人を呼んだ。その呼びかけに扉の前で待機していたルミアが素早く反応し部屋に現れる。
「はい、何でしょう」
「休憩するわ。お嬢様にお茶とお菓子を準備して差し上げて」
「はい。お待ちください」
授業は短い休憩を挟んで地理や社会の領域へと移っていた。
アルベラは黒板に張られた地図をぼんやりと眺める。
そこには彼女が暮らす町ストーレムと、その周辺の村や町が描かれていた。実際なら右には「バスチャラン領」が、左には「王都クランスティエル」があるのだが、それらは紙に入りきらないため文字だけで描かれ略されている。
今回の授業で必要なのはこの領地内についてなのだ。
「――余談ですが、この国では領地名を言う際には領主様の姓に『領』とつけて『なんとか領』と言いますよね。ですが国によってはこの『なんとか』の部分に地名を入れて言うところもあるんです。たとえばこのディオール領は、その言い方で言えば『パルフェイム領』となりますね。その場合、爵位もディオール公爵ではなく『パルフェイム公爵』と名乗るそうですよ。我が国の王族公爵家と同じですね。もう少し大きくなったら、アルベラ様もお隣の国の方とお話する機会もあるでしょう。それまでこの話は頭の片隅にでも――」
領地に領主の姓が名付けられる。
この言葉にアルベラは頭の隅で妙なもやもやを感じていた。
――わが父が公爵という爵位をいつ授かったか。
――その前まで自分が暮らすディオール領は誰のもので何と呼ばれていたか。
――この領地が抱えていた問題は一体何だったか……。
アルベラはいままでにも何度もこの話をスレイニーから聞いていた。なのでその事実はよく覚えていたし、理解しているつもりだった。
だが今は何となく……ぼんやりした頭が違和感を抱いていた。
(なにかしら……。普通、爵位名も領地名も土地の名前じゃなかったっけ……。領主の姓が領地名になって爵位名になる……? あれ? これって普から当たり前だった……? それにお父様ってもともと準伯だって言ってなかった? なんで王家じゃない人が公爵に……――いやいや、何言ってるのよ私。『公爵』は王族だけじゃなく『凄い人』もなれるものでしょ。スレイニー先生やお母さまからそう教わったじゃない。しっかりしなきゃ。こんなんじゃルミアみたいになっちゃう! それはダメよ!)
授業のそっちのけで頭を抱えうつむくお嬢様。その様子にスレイニーは全く見当違いの想像を膨らませていた。
(アルベラ様、もしかして明日が誕生日で緊張しているのかしら。公爵様がいつもより人を呼ぶとおっしゃっていたし、明日は急遽ラツィラス王子が来ることになったようだし……。――あら? けどレミリアス様……王子がいらっしゃることは今日の夕食の時に話すとおっしゃってなかったかしら)
授業を終えたスレイニーはアルベラを心配し、早めに休むようにと言って部屋を送り出した。
アルベラはなんだかそわそわする気持ちで自室で暇を潰し、夕食の時間に帰ってきた父に抱きしめられ、今日は父母と共に三人で食事をした。
明日の自分の誕生日会の話を父や母から聞き頷いてはいたが、やたらと気が散って思考は他の所へ向かおうとしてしまう。
だが散った気に目的地はなく、何かについて考えたいのにそれが何なのかよくわからない。すっきりしない気持ちのまま彼女は就寝時間を迎えていた。
「それではお嬢様、失礼します」
ルミアが部屋の明かりを消して去っていった。
瞼を下ろせば、アルベラの前には暗闇が広がる。
部屋には一人。おかしなことにどこかから人々のざわめきが聞こえた。
(うるさい……)
真っ暗なはずなのに、瞼の向こうに透けて明かりが見える気がした。
体には風を感じる。何か、体の側面と接している地面から振動が伝わってくる……気がした。
(冷たい、固い……)
「――なに、」
アルベラは目を開く。
錆びた鉄の香り。
荒い砂利。
体を起こせば目の前にはいつの頃か毎朝乗っていた通勤電車が迫っていた――





