第九話 溢れ出す思い
何の虫かは知らないが、ジーーーっと鳴くこの鳴き声に、夏の風流を感じる。夜なのに全然蒸し暑いこの日の満天の星の下に、まるで今のこの涼風を吹かせてくれる歌声のように、耳に心地良い。
「今度、制服以外の服着てみて」
「え…何、急に…」
今、俺と雪乃ちゃんは2人で夜のあぜ道を歩いている。あの日、俺が雪乃ちゃんに、お母さんを捜すことを誘われた時のように…格好も同じだし。
「私も着るから…背高いから結構色々似合うかも」
「…そうかな…」
俺個人としては、出来る事ならスカートの類を着て欲しい。ズボンを脱ぐよりも、はらりとめくる方がパンツを見る際に、何かこう…グッとくる感じがする。
ケーキを食べ終わった後、俺たちは雪乃ちゃんにプレゼントを手渡した。
「おめでとう~!」
「ありがとう、上手だね」
凛ちゃんはクレヨンで描いた雪乃ちゃんの似顔絵を手渡した。大げさには大きなリアクションで喜ばないが、脱力感のある声で笑いかけ、凛ちゃんの頭を撫でた。満更でもない凛ちゃんのドヤ顔が中々どうして可愛らしい。
「そして俺からはこれだ!!」
自慢げに大声を上げ、将人が雪乃ちゃんに手渡したリボンで結ばれた袋には、20個はあるだろうと思われる、大量のお守りが入っていた。
「…何これ?」
「安全祈願のお守りだ…テレビで…おばさんの事知った時から…かき集めた、全部違う神社だぞ!」
「…まあ、ブラよりはマシかな」
「うっ…まだ根に持ってんのか…」
「あり得ないにも程があるでしょ、私が将人にブラ送ったらどう思う?」
「えっ!?そうなる!?…えっと…着ける」
「着けるの!?」
「着ける…で、合わなかったら…凛にあげる」
「は?」
「え?」
「…っふふ、あははははは!」
楽しく話す2人の和やかな雰囲気の会話を聞いて、なんだかこちらも楽しくなってきた…それと同時に…またチクリと、胸の内に変な感覚が現れた。昨日のフードコートで感じたそれと同じ…未だ謎の感覚だ。
「…あ、待って…」
雪乃ちゃんが手に取ったお守りには、何故か安産祈願と書かれたお守りが書かれてあった。
「…そういうつもりなの?」
「違ああああう!!!誤解だ誤解!!!何でこんなのが入って…この神社…あのババア、6回も聞き直してこんなこと…」
「…まあもらっとくけど」
「いいのかよ!!」
「お守りだし、持ってても問題ないでしょ」
「あるだろ…」
やはり幼なじみだ、知って尚、そう思えるような会話のやり取りを、羨ましそうな目で俺は見ていた。
ぶっちゃけ昔馴染みはいるのだが、会話なんて0に等しい程していない、俺にも記憶が無い。興味がなかったし。
「雪乃ちゃん、俺のも…受け取ってほしいな…」
「…うん…おっきいね…」
俺が買ったのは、長さが180センチ程ある、綿の入っている細長い謎のキャラクターの真っ白いぬいぐるみだ。何でも、クマのぬいぐるみと大根のハーフのゆるキャラだそうだ…謎過ぎる…が、俺はこれを見た時、これしかないと確信した。
「…何でこれだったの?」
「…俺たちと違って、気を遣わずに…寂しい時とかに抱きしめられるし…低反発で抱きやすいし、あと…かわいくない?」
「…まあ、コンドームよりはマシかな」
「いや、それは俺のリュックから出てきただけで…」
「おい琉希、てめぇどういうことだ」
おっとぉ待て待て落ち着け将人、雪乃ちゃんもその出来事は今喋る事じゃないと俺は思うんだ。勘違いしやすくな…まさか…これで俺と将人が殺し合うのを高みの見物で楽しもうと?いやいやそれはいくら何でも狂ってる…どういうつもりかは理解不能だけど、とりあえず俺がヤバい。
端から見ればじゃれ合ってるようにしか見えないだろうが、中々の強さでヘッドロックを掛けられている。息がしづらくなってきたぞー、さっきから床バンバン叩いてんのに笑って何も聞こえないように続けてんぞこの人。
「てめぇそのつもりで雪乃に近付いたのかコラ、吐け、本音吐け」
「いやだから、俺じゃなくて親父が」
「はあ!?お前雪乃のパンツ見るために着いてきたっつったじゃねぇか!そういうことじゃねぇか!!!」
今しがた地雷が暴発した気がしたのだが、気のせいだろうか、いや気のせいだ絶対、多分、恐らく、五分五分で…いや気のせいであれ。
「…琉希君、ホントなの?」
ついに来てしまったこの瞬間が…本当はお互いが理解し合い、言っても大丈夫だろうと俺の主観で思えるシチュエーションの中で面と向かって伝えたかったのに…こんな形で晒されるとは…。
「…はい」
今少し雪乃ちゃんが俺から離れた気がした。いや、物理的距離が遠のいた訳じゃないが、今まで築いてきた信頼関係が遠のいたような気がしてならなかった。もう帰るしか無い。
「…そっか…あ、そろそろ帰らないと」
「雪乃ちゃん…その…ごめ」
「謝らなくていいから、一緒に帰ろ」
「え…あ…うん…」
…いい、のか?…ゴミを見る目では無いが、今確実に雪乃ちゃんには俺が、ただの気持ち悪いストーカー野郎にしか映っていないはずだが…許されていい…のか?…。
「あ、将人…コンドームは作り話だから」
「…マジで?」
「ノリで言ってみた」
「…そ、そうか…うん、そうだよな…悪ぃ琉希」
「いや…ゲホッゲホッ…大丈夫」
全然大丈夫じゃない、失神ゲームでもやってたのか?喉と頚動脈を同時に潰されそうな勢いだったが…。
「…気を付けろよ、田んぼにはまるなよ」
「うん、ありがとう…またね」
あらかじめスポーツ用品店でもらえる大きな袋を畳んでポケットに入れていた雪乃ちゃんは、もらったプレゼントをそれに入れて、俺と一緒に帰路についていた。
「琉希君だと、ぶかぶかのTシャツとかすごい似合いそうだし」
「…そうかな…」
俺は雪乃ちゃんと若干距離を取るために、道の右端に雪乃ちゃん、左端に俺が並んで歩いていた。
「…パンツ見たいってさ…いつ思ったの?」
「…気持ち悪いって思ったよね…」
「いやいや別に、そもそも私にここまで着いてきてくれてる時点で何か裏はあるんだろうな~とは思ってた…けど…ふふっ…案外くだらなかった」
「…ごめん」
「で?いつ?」
「…転校初日から」
「最初から目つけられてたんじゃん、怖っ」
「ごめん…」
いつもの声のトーンだ、演技みたくリアクションをはっきりさせてる訳じゃ無く、いつも通りの、雪乃ちゃんの喋り方だった。
それに何故か俺はホッとした。
「…そんなにまでして見たいものなの?」
「…もし、他の人なら…ここまで執念深くはならなかったと思う…雪乃ちゃんだから…」
「私だから?」
「…何というか…初めてだった…世間知らずなガキが言うことじゃないと思うけど、人生を懸けてもいいと思えるくらいに…本当にそう思えるくらい…」
「…まあ、普通に気持ち悪いよね」
俺も自分で何言ってんだとは思う。でも、下心という本心で、性欲という好奇心で興味を持ったものを、理性の中で見つけ出そうという、人が入りたくて入る迷宮で…俺はその神秘を見たいと心から思った…だけど…。
「けど…この感情の行き先は、俺の思いの核心は…そこじゃないと…思い始めたんだ…」
「…どういうこと?」
「…分からない…けど、迷いが出てきてるという事は…パンツを見た時の感動は薄れてしまうかもしれない…もし…見れたとして…違うと、僅かでも思ってしまったら…俺のこのモヤモヤがどこに向かってるのか見失って…それが怖い…」
「…誰にも分かってもらえなくても…大切なものってあるもんね…」
「…最初は確かに、これを機にお近づきになって、お母さんが見つかって、あわよくばパンツを見せてもらって…そう思ってた…けど、今は違う…」
「…琉希君…」
「雪乃ちゃんの心が、報われますようにって…雪乃ちゃんが…救われてほしいって…そのために俺が出来る事があるなら、どんな些細な事でも、たとえ微力でも…手を差し伸べたいって思ってる…」
俺は泣いていた。心の底から…自分でも理解しきれていなかった…心の内にある本音だったのか…自分の欲望よりも、雪乃ちゃんへの思いが上回っている事を証明した俺の言葉は…誰よりも、俺に響いていた。
自覚無き心に、俺に気が付かせてくれた…恐怖心、悲しみ、善意…どうにかなってしまいそうな、募りに募った感情で胸が張り裂けそうな、どうしようもないこの気持ちが…ようやく理解出来た。
───俺は、雪乃ちゃんの事が…好きなんだ…たまらなく大好きなんだ。
「…ありがとう、やっと言ってくれたね」
「…え?…」
「ずっと警戒されてたみたいだったから…全然心開いてくれなかったし…やっと対等」
子供はよく泣く、怒っても、悲しくても、痛くても…要するに、コントロールが利かず、抑えきれない感情を、涙を流す事で感情の爆発を表す。ただそれは、子供に限った事じゃない。大人だってそう、まして思春期なんていくらでも。
理性とは抑制だ、人は我慢するからこそ、数多の同種での集団生活を可能としている。ただ、当然無限には我慢出来ない訳で、時々吐き出さないと、その我慢に蓋をする事が精一杯となり、色んな感覚が鈍り、視界が狭まる。
その我慢は、主に無意識だからたちが悪い。そしてたった今俺は、その蓋を少し隙間程度、ではなく、こじ開け、溜め込んだものを全て吐き出した。
吐き出すにはそれなりの力が必要になる、スキルとかそういうのではなく、体力みたいなもの。一気に力を使えば、感情は高ぶる。涙が出る程に。
俺は立ち止まり、久しぶりに泣いた。あまり感情を表に出さないし、常に鳥肌が立つ程にスリルに満ちた世界に身を投じた訳じゃない、他人の悲しみを受け止められる程共感力も無い、要するに退屈な道ばかり歩いてきて、雪乃ちゃんが現れなければ、自ら進んで積乱雲には飛び込まなかった。
対等…共に心を厚着に着こなした俺たちが、共にこの夏休みを経て、裸になったということなのだろうか…そうだ…俺は今まで、雪乃ちゃんを高嶺の花としか見ていなかった…雪乃ちゃんは…俺との対等を望んでいた…月とすっぽんではなく、鶴と亀みたいな、並ぶ関係を…。
「もう泣かないでよ、よしよし」
温かい…こんなに蒸し暑いのに、俺の背中をさする雪乃ちゃんの左手に、不思議と温もりを感じた。
用水路のせせらぎ、虫の鳴き声、それらは俺に何を問いかけているのだろう…夏の切なさか、暑いの我慢しろ、か、心に気付いたことを、祝福してくれているのか…そうなら申し訳ない…自分の泣き声で…よく聞こえない…。
「…今の角曲がんないと遠回りだよ?」
「うん…ちょっと寄り道いいかな」
観光地でも無いこの辺りの土地勘とかまるで無い俺が、この地で行きたい場所や目的地なんかはあるわけ無いのだが…おばあちゃんから昨日の夜聞いた、ある場所に雪乃ちゃんを連れて行きたいと思った。
将人の家からのルートで、曲がればおばあちゃんの家まで一本道の角を曲がらず、少し先のアスファルトの道に出て、またすぐに草っ原に出てから、小さな小川に出た。
「…ああ…」
「すごいな…初めて生で見た」
お世辞でも多いとは言えない数だけど、そこには、満月に近い月夜に、ポツリポツリと光を照らすホタルが飛び交っていた。
「もう8月近いのに…この辺はまだいるっておばあちゃんから聞いてさ…誕生日の…サプライズ」
「…私、もっとよくいる場所知ってるし」
「え」
「そもそも虫が好きではない」
「…ごめん…」
「…まあ、努力はしたみたいなので合格」
「あ…ありがとう…」
立って5分程見た後、雪乃ちゃんはその場から立ち去っていった。見慣れているのか、虫が嫌いだからなのか、夜が深いからか、俺はもう少しあの神秘的な画を見ていたいと思っていたが、夜道に女の子1人はさすがにマズいと思い、名残惜しいけど帰路についた。
「琉希君」
「何?」
「…呼んでみただけ」
「…そ、そう…」
この気持ちをいつか伝えよう…けど、今じゃない…もっと、気持ちの整理をつけ、心が決まった時に、自分の言葉で伝えよう。
ああ、そうか…あの胸のモヤモヤは…嫉妬…なのか…。




