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第五話 おばあちゃんの手

 「…君…き君…琉希君、起きて」


 「…んあ…え…」


 今、俺の目の前には…パジャマ姿の雪乃ちゃんが、伺うように俺の顔を見ている。

 まだ少し乾ききっていない髪が妙に色っぽく見え、シャンプーの良い匂いが俺の鼻を通ってきた。俺はいつの間にか寝ていたみたいだ。


 無理も無い、2人乗りとはいえ後ろから雪乃ちゃんに抱きついたり、一緒に海を見たり、おばあさんの家に行くもあまり歓迎されなかったり、すごい量のご飯を食べさせられ、個人的に落ち着く暇がなかった今日…さっきまでの時間が、家を出てから初めての1人の時間だった…安心しきったのか、満腹だったからか、つい爆睡してしまっていた。


 最後に時間を確認した時は8時前だったけど…今は…11時半!!?微睡みすぎだろ俺!!早く風呂に…。


 「早くお風呂入らないと、おばあちゃん待ってるから」


 「…そ、そうだね…」


 俺は急いで部屋を出た。おそらく赤らめていたであろう顔を雪乃ちゃんに見せたくなくて、ふすまを勢いよく開け、勢いよく閉めたせいで、家中に響くくらいの、ガンッ!!という音が鳴った。


 勢いよく飛び出したは良いものの、風呂の場所が分からず、何故か一旦部屋の奥の台所まで向かい、そこで見つけた廊下に通じてそうなふすまを開けると、脱衣所と思わしきドアがあったので、ドアノブをひねり、中から溢れ出た湿気やほのかに香るシャンプーの匂いで、風呂場だと分かった。


 俺はドアの近くの壁を手探りで灯りのスイッチを右手で探し、スイッチを発見し灯りを点けると、意外と現代的な浴室で驚きつつ、服を脱ぎ、シャワーを浴び、黒い容器の男物のシャンプーを使用し頭を洗い始めたとき、ようやく気が付いた。


 「あ…着替え…」


 荷物はあの部屋に置いてきてしまった…黒いリュックサックには、俺のパジャマや下着が入っているが…あれが無いと俺は風呂から出られない…詰みだ。

 一旦落ち着こう…うん…。


 「…ぬるいな…」


 頭を洗い流し、体中を隅々まで洗い、すっかりぬるくなった浴槽に肩まで浸かり、フ~ッと一息つき、再びヤバいと改めて気付き、動揺し始めた。


 「どうする…どうするどうする…やっぱり…取りに行くしか無いか…」


 スマホも置いてきてしまっている…はぁ…多分今日だけで刺激のなさ過ぎた俺の人生分の刺激を感じた気がする…寿命何日縮んだだろうか…。




 30分が経った。俺はついに、着替えを取りに行く事を決意した。

 万が一に備え、ギリギリ大事な所が隠れる程度の黄色いタオルを腰に巻き、脱衣所に誰の影も無い事を確認し、浴室のドアを開けた。


 「あ」


 と同時に、脱衣所のドアを、俺の黒いリュックサックを持った雪乃ちゃんが入ってきた。目が合った。その後一瞬で雪乃ちゃんは俺の全身を見て、叫ぶかと思ったが、リュックサックを落としてすぐに脱衣所を出て、ドアを閉めた。


 「…あ!…あ…ごめんなさい…その…着替えを取りに…」


 「分かってる…隠してるし…」


 雪乃ちゃんはドアの向こうにまだいるみたいだ…俺はとりあえず浴室から出て、体を拭き、パジャマに着替え、脱衣所のドアを開けた。


 「…歯…磨くついでに…と思ってたけど…なんかごめん…」


 「いや…俺も…ごめん…」


 「…じゃあ、寝よっか」


 「…そう…だね…」


 俺はリュックサックから歯ブラシと歯磨き粉を取り出し、俺と雪乃ちゃんは脱衣所で歯を磨き、部屋に戻った。


 扇風機が回っているが、やはり暑い…網戸は閉めているが、蚊がどこからか入ってくるだろう。蚊取り線香の匂いがそろそろ焦げ臭く感じてきた。

 雪乃ちゃんは灯りの点いている電気のヒモを2度ひっぱり、オレンジ色の豆電球だけ灯し、寝床についた。


 「おやすみなさい」


 「…全く消さないんだ」


 「…暗いの…嫌いだから…」


 「…そう…いつも、晩ごはんあんな感じなの?」


 「行くって連絡したから…多分ああなった…いつもは普通だから」


 「そ…そっか…」


 午後11時50分前、こうして俺の長い長い1日は幕を閉じ、さっきまで3時間近く寝ていたが、意外とあっさりと眠りについた。








 ───数時間前、私は食事が終わった後、おばあちゃんの部屋に入り、おばあちゃんを待っていた。今、私と彼の布団を敷いている。


 その間に、私はものすごく高そうな足付将棋盤に、駒を並べている。私はおばあちゃんと指す将棋が大好きだ…他の誰ともやったこと無いけど…。


 中学2年生の時、おじいちゃんが死に、この家を自由に出入り出来るようになった。おばさん達が私を嫌うのは、おじいちゃんが私を嫌っていたからだ。


 前からこの近くに住んでいて、たまにおばあちゃんが来てくれた時に、一緒に将棋を指してから、私はおばあちゃんが大好きで…お母さん以外の、初めて心を開いた人でもあった。


 「待った?」


 「ううん、早くやろ」


 「じゃあ、おばあちゃんちょっと本気でやっちゃうわよ~、お先にどうぞ」


 おばあちゃんは去年から調子が悪くて、ずっと何かの薬を飲んでいる。心配だ。けど私は、それよりもお母さんの方が、今は心配だ。

 目の前に座り、歩兵の駒を動かす姿は元気だが…隠してるのだろうか…無理はしないでほしいな…。


 「…雪乃は本当に、角換わりが好きだね~」


 角換わりとは、角行の駒を互いに取り合う、れっきとした戦法の1つだ。けど、私は戦法のためにやった訳では無い。私がおばあちゃんの角を取ると、おばあちゃんは銀で角を取った。取られる事が分かっているので、成る必要は無い。


 「…だって、次どうなるか分かるから…」


 「どういうこと?」


 「私が角を取ったら、おばあちゃんも角を取る…流れが分かりきってるから…安心出来る」


 人生はそう上手くいかない、欲しいものは基本買ってもらえないし、思い通りの未来は描かれない。だから嫌い…。

 私がずっと角換わりを使うから、おばあちゃんも分かってて角を交換出来るように駒を動かす。本当に優しい。


 「琉希さん、彼氏とかじゃないでしょう?」


 「っ…なんだ…気付いてたんだ…」


 すっかり見透かされていた。まあ彼の演技力が微妙だったのもあるが…食事中も、一定の距離感はあったし…だから、いつもグイグイ来るおばあちゃんが、馴れ初めとかの質問をしなかったのか…。


 「人様に迷惑かけてるんじゃないでしょうね~?」


 「大丈夫、琉希君の了承は得てる」


 「…そうかい、優しいお友達だね」


 「うん…」


 私の無料でメッセージのやり取りが出来るアプリの中で登録してる人は、お母さんと、バイト先の店長だけだった。おばあちゃんは老人向けのガラケーで、電話とかはたまにしてる。

 だから、勢いでつい登録してしまったが、ものすごく嬉しかった。同学年の、しかも異性の連絡先なんて…私の人生では考えられなかった。


 その日は表情は平常心を保った風に見せながら、内心はものすごくスキップしていた。誰も見てないのに、周りを気にしたりして見る素振りなんかもした。

 彼は不思議だ…どうしてそんなに、私の事を気にしてくれるのだろうか…普通なら、何日もかかるとか、面倒くさがるだろうに…。


 「…おばあちゃん…私、さ…お母さんを捜し出したいの…」


 「やめときなさい」


 「どうして!!」


 「…確かにここに来たよ…けど、どこに行ったかは知らない…警察に任せていればいいよ、全国のニュースにも取り上げてもらったんだし」


 …ダメだ…これ以上私が何か言えば…おばあちゃんは私に…無力だとか、どうにもならないとか…現実的な事を言う…そんな気がして、私はそれ以上何も言えなかった。


 それからしばらく、私とおばあちゃんは黙って将棋を指していた。




 「王手」


 結果は私の完敗、おばあちゃん、本当に本気でやってきた、途中から焦ったけど、気付いた時には時既に遅し、おばあちゃんがボロを出す事を望んで粘ったけど、ダメだった。


 「あらら、熱中しちゃったわね…もう10時」


 気付かず2時間近く指していたみたいだ…楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう…同じ2時間でも、授業2回分と、映画と、おばあちゃんとの将棋では恐ろしく長さが違って感じる。


 「お風呂入ってきなさい雪乃、片付けとくから」


 「…お母さんは…ここに何しに来たの?」


 「…そうね…もしここに雪乃が来たら、伝言よろしくって言われたけど…言わない」


 「え…」


 お母さんがいなくなる前夜は、お母さんは私に、明日おばあちゃんの家に行って来ると言い、それから音信不通。

 おばあちゃんが捜索願を出してくれたけど、私はいてもたってもいられなくなり、こうしてこの家に来た。なのに…手掛かりかもしれないのに…おばあちゃん…。


 「どうして…」


 「言っても手掛かりにはならないからさ」


 「…そんなの分かんないじゃん…私とお母さんにしか分かんないメッセージかもしれないのに…」


 「〝私がいなくなったら、雪乃をよろしくお願いします〟…のどこに、そんなメッセージがあるの?」


 ああ…やってしまった…私は熱くなって…言い続けたから…結局、知りたくも無い現実を突きつけられた…お母さんは…いなくなる事が分かってて…言ったように捉えられる…けど…今の私には、それを考えられる余裕がなかった。ショックで、どうにかなりそうだった。


 「…お母さん…やだ…」


 「…ごめんね雪乃…辛いことは…言いたくなかったんだけど…これは雪乃のためなの」


 「どこが!!!…どこが私のためなの!!!?」


 「甘えるな!!!!」


 私が、感情のままにら涙目で大声を上げると、おばあちゃんは真剣な表情で、私にそう言い放った。それを聞いて、私はそれ以上言葉が出ず、涙が流れ出した。


 「いいかい、日本は広いんだ、もしかしたら日本じゃないかもしれない、そうなればもっともっと広い…雪乃はまだまだ子供、手探りで出来る事なんてたかが知れてる、だから、まずは雪乃が落ち着きなさい…」


 「うっ…っ…けどぉ…でも…」


 「そして、知ることを恐れちゃダメ…知りたくない事なんてたーくさんある、雪乃はもう何度も嫌な目にあったろうけど…それでも人は歩かにゃならん、戻れないから、進まにゃならん」


 おばあちゃんは私の目の前に歩み寄り、私の左手を両手で強く握った。あったかい手だ。


 「辛いこと、苦しいこと、何度もある!それを糧にして、人は強くなっていくんだよ…前を向きなさい、暴走しちゃいかん…心配なのは、おばあちゃんも一緒だよ…けど、どこにいるか全く分からない以上、待つ事しか出来ないんだよ」


 「…おばあちゃん…」


 「…男は男だから、強くないといかんけど…女は、女である前に強くないといかん…女が強くないと、男はもっと情けなくなっちゃうからさ…琉希さんに迷惑がかからないように…強くなりなさい…どうしようもなくなったら、おばあちゃんが話聞いてあげるから、泣いてもいいんだよ…」



 途中からおばあちゃんの声色は優しくなり、私に笑顔でそう言ってくれた。おばあちゃんは強いから、強くて優しいから、だから私もこれまで色々頼ってきた。


 彼の前では弱気な所は見せられなかった。内心は不安で満ちてても、彼は優しいから、きっと私が不安がると、余計心配しそうだっから、強がった。


 本当はフランクフルトもあんまりお腹に入れたくないくらい食欲はなかったし、笑ってる余裕も無かった。けど、彼は…私に着いてきてくれた…それが嬉しくて…尚更強がった。どんどん孤独になっていく感じで…怖かった。


 「…琉希君にも…相談とか…しても…いいのかな…」


 「いいんじゃないかい?おばあちゃんも一目見て、優しいんだなって分かったし、せっかくだから頼ってみなさい、女の子に頼られたら、男はやる気出るから」



 その後私はお風呂に入り、部屋に戻ると、なんとも無防備に彼は寝ていた。疲れてたのかな…私が連れてきたから…本当に優しいな…。


 「ありがとう」


 このまま寝かせてあげようかと思ったけど、夏だし、服装がそのままだから多分お風呂に入ってないだろうな…やっぱり起こそう。


 「琉希君…琉希君…琉希君、起きて」


 「…んあ…え…」

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