第十一話 光
「…今何時?…」
「朝9時過ぎ…もうすぐ救急車が来るから…」
中々の田舎ではあるが、大型商業施設の道路を跨いで向こう側には市民病院がある。今までおばあちゃんの薬はそこから出てたし…。
今まで説明しなかったのは単純に理由がなかったからだ。大型商業施設の隣にガソリンスタンドがあって、そこで雪乃ちゃんのバイクのガソリンを注いでいた事も、特に言う必要がなかったから説明はしなかった。
この後すぐに救急車がやってきて、倒れて意識の無いおばあちゃんは病院に運ばれた。おばさんが付き添い、すぐに俺と雪乃ちゃんもバイクで後を追った。
手術中のランプは点いたまま…雪乃ちゃんはおばさんとは離れた位置のベンチに座り、俺は自動販売機でペットボトルの冷たいお茶を2本買い、朝起きた時、また涙を流していた雪乃ちゃんに手渡し、右隣に座った。
無言で受け取った雪乃ちゃんは、飲む素振りを一切見せず、両手で持ったまま俺と目を合わせず、俯いていた。
「…寝てないの?」
「…うん…話し込んで…暗い感じになったから、将棋しようって事になって…すごく楽しくて…おばあちゃんも熱が入って…気付けば朝に…」
「またか…おばあちゃん、将棋になると止まんないからね…」
「ものすごい集中力だった…ホントに好きなんだってよく分かった」
「…そっか…」
それからしばらく静寂が俺たちを覆い、俺は話を切り出せず、ちびちびとお茶を飲んでいた。
病院特有のこの匂いは、病気が治りそうな気がする。無機質な白い廊下も…何だかじっとしていられない…その内貧乏ゆすりでも始めそうな程、落ち着きがなかった。
「…私ね…お母さんの夢見たの…」
「…うん」
「…温かくて…優しくて…けど、あれはお母さんじゃなかった」
「どういうこと?」
「…お母さんは、私のかわいい子、とか言わないし…あれは私の欲望だと思う…私の記憶と理想が入り混じった、《お母さんによく似た何か》だったんだと思う…」
「…そう…なんだ…」
「…お母さんの事…もっと会いたくなって…おばあちゃんは倒れて…私の大切なものがどんどん消えてなくなるみたいで…」
そう言うと、雪乃ちゃんは俺の左腕に寄り掛かり、俺の左手にそっと触れた。俺自身もあまりの事で雪乃ちゃんの言葉を聞き逃しそうなくらい混乱しているが、雪乃ちゃんのその行動で、頭が真っ白になった。
「…ゆ…雪乃ちゃん…」
「…ちょっと…こうしてていい…かな…」
これ以上俺からのアクションは必要ない、今雪乃ちゃんが求めているのは、心の安寧だ…雪乃ちゃん自身が落ち着いて、疲れなければそれでいい…。
「…うん」
俺が一言返事すると、雪乃ちゃんは必死に涙をこらえている風に見えた。俺が左手の平を上に向けると、雪乃ちゃんは右手で俺の左手を、恋人つなぎの様に握りしめ、強く強く握った。
俺の高鳴る胸の鼓動なんてどうだっていい、雪乃ちゃんの行動に驚き、ドキドキしているのは間違いない…けど…そんなことより…力は決して強くなくても、あまりにも天に見放されたこの現実に抗う強い気持ちが、ひしひしと伝わってくる…おばあちゃん…どうか無事で…。
「お母さん!!!」
手術中のランプが消え、扉が開き、先生やナースの方々と共に、眠っているおばあちゃんが運ばれてきた。おばさんは心配そうに手術室を何度も何度も見ていて、跳び上がるようにおばあちゃんの元に向かっていった。その声は、辺り全体に響き渡る程に大きく、俺がまったく知らなかったおばさんの一面だ。
「おばあちゃん!!」
俺と雪乃ちゃんもすぐに駆け寄った。先生はマスクと帽子を取り、説明を始めた。
「一命は取り留めました、しかし油断は出来ません…今後は入院し、治療をしながら経過を見る事にします」
「…よろしくお願いします…先生…母をどうか…助けてください…」
「…最善は尽くします」
おばあちゃんは運ばれ、おばさんはその後を追っていった。もう運ばれてから2時間近くが経っている…雪乃ちゃんは床にペタンと座り込み、おばあちゃんが運ばれていった廊下をじっと見ていた。
「雪乃!!!」
かなり遅れて将人がやってきた、連絡は病院に来る前に入れておいたんだが…。
「悪ぃ…音ゲーやってて通知切ってて…ごめん…すぐ来れなくて…」
あ、大して深刻な理由じゃなかった。
「んな事より、ばーさんは!?大丈夫なのか!?…琉希!!」
変に入っていた力が急激に抜けて、疲れがドッとやって来たせいか、雪乃ちゃんは少し息を切らして、とても喋れる様子ではなかった。将人はそれを察し、俺に状況を求めた。
「…一命は取り留めた…けど…入院になるそうだ…」
「…そうか…あのばーさん、村で知らない人いないくらいこの辺じゃ顔が広いから、騒がしくなるかも…」
「…雪乃ちゃん、立てる?…」
「…何とか…っと…」
雪乃ちゃんは生まれたての子鹿のように足を震わせながらも、俺と将人が手を取り何とか立ち上がった。
明らかに様子がおかしい…雪乃ちゃん、お母さんの夢を見たらしいけど、それに重なっておばあちゃんが倒れた…毎日暇さえあればテレビやスマホでニュースを見ているが、依然として状況は変わらない…。
今朝も10時間近く寝てたし、もっと休んだ方が良い…何だか…俺も、沈んだ気持ちになってきた…。
8月1日、おばあちゃんが倒れてから5日が経った。雪乃ちゃんのお母さんも依然として行方知れずのままだ。
この5日間、俺と雪乃ちゃんはほとんど会話をしていない…おばあちゃんは一般病棟に移されて、目を覚ましてはいないが、お見舞いには行けるようになった。俺は将人と凛ちゃんと一度行ったが、雪乃ちゃんはまだ一度も、行っていない。
今日も暑い、今年の最高気温はだんだんと更新されていっている。家全体の空気は暗く、おばさんは病院と家を行ったり来たり、村の人達も心配そうにしている…もうあの場所でホタルは見れなくなっていた。
「…雪乃ちゃん…昼ご飯…そうめんだけど…食べて」
雪乃ちゃんは俺との部屋から出ず、引きこもり、食事なんかは俺が部屋まで運んでいる。そして今日も同じく持っていった時、雪乃ちゃんは右手にカッターナイフを持ち、左手首に刃を当てていた。
「雪乃ちゃん…」
俺は食事を畳に置いて急いで雪乃ちゃんからカッターナイフを取り上げた。本気で叱ろうと、声を上げるために息を大きく吸ったが、雪乃ちゃんの生気の無い顔を見て、その助走はため息となり、不発に終わった。
「…これ、刃こぼれしてるから…このままだと、切るのに時間かかるよ」
「…そう…」
「…それに…多量出血は…苦しいから、おすすめはしないかな…」
「…そう…」
「…雪乃ちゃん、何でこんなことを?」
「…そう…」
完全に上の空だ…もう笑って誤魔化せる心の余裕の許容量は確実に超えている。多分もっと前から…。
会話をしていないというのは、細かく言えば成り立っていないのだ。信じられるもの、大好きでたまらないもの、心を支えてくれるものが、根こそぎ持って行かれたような感覚だろうか…今雪乃ちゃんは、どんな思いがぐるぐる廻っているのだろうか…。
「…琉希…君…」
「…何?」
久しぶりに話しかけてくれた…落ち着け、ここで僅かでも返答をミスれば、より雪乃ちゃんを傷付けかねない…。
「…何で私…死のうって気まぐれに…なっちゃったのかな…」
日本語がおかしいこの言葉は、雪乃ちゃんの今が深刻な事を物語っている。
「…凍死は、いつの間にか死ぬから…一番苦しまない自然死かも…あと、鼻の奥にある脳幹は撃ち抜けば即死する、心臓や脳を撃ち抜かれても数秒生きてるから、即死は脳幹だけかな…手首切っても死ぬ確率が高い訳じゃないから…確実に死ぬなら、頸動脈を切らないと…ボールペンでも破れるよ」
「…詳しいね…」
「…中3の時に…死にたいと思った事があるんだ…生きてるのが嫌になった訳じゃなくて…死がどんなものなのかって興味、危ない興味だった…」
「…そう…」
「そこでやや、まあデマ情報かもしれないけど…詳しくなって…そこで初めて、死は怖いって認識出来た…今はよかったって思ってる…それでよかった…おかげで、雪乃ちゃんと出会えたし」
「…そう…」
「…絶対に死んじゃダメとは言わない…死は選べる、自由の1つだし…けど…もし…出来心なら…思い出してほしいんだ…お母さん、おばあちゃん、将人、俺でもいい…誰でもいいから…自分が大好きだと思える人の顔を思い出して…それでも一切揺らがないなら…止めない」
「…何で…」
「…何の何でかな…」
「…全然…そんなつもりじゃなかったのに…すごく真剣に話してくれるのは何で?」
「雪乃ちゃんには…後悔してほしくないから…」
「…あと…カッター当てた時に…お母さんでもおばあちゃんでもなくて…琉希君の顔が…真っ先に浮かんだのは…何で?…」
「…え…」
「…私…何回泣いても…誰も助けてくれない…乞わないと…来てくれない…なのに…琉希君は…手を差し伸べてくれるの?…」
「…余計なお世話をしたい…おせっかいを焼きたい…嫌ならやめるけど…じっとしていられない…雪乃ちゃんは、俺にとって、特別だから」
「っ…」
そう言うと、雪乃ちゃんは突然立ち上がり、両手で自分の両頬をバチンと一発叩いた。
「…お見舞い行く、から…一緒に来て…」
「…うん」
驚いた俺は一瞬、口をポカンと開け、少し笑顔を取り戻した雪乃ちゃんの顔を眺めていた。後ろに髪を結び、顔を洗って、そうめんを食べ、雪乃ちゃんと俺はバイクに乗り、病院に向かっていった。
真面目に死ぬつもりはなかった。ただ、楽になりたいとは強烈に思った。
まさか、死に方についてあんなに語られるとは思わなかったし、私は…寂しいから、誰かの気を引くためにやったんだと思っていたから…少し違うと思い、見損ない、話は聞かなかった。
彼は死ぬなとは言わなかった。つまり死んでほしいって事じゃなくて、死ぬのは怖いよ?ちゃんと考えてみな?と、遠回しに言われただけだ…ただそれだけなのに…嬉しかった。
よく考えたら、あんな状況下で気を引ける人は琉希君しかいない、誰でもいいんじゃなくて、琉希君の優しさに甘えただけの事なんだ。それでも琉希君は優しかった。
後悔してほしくない…特別…嬉しかった…そういう言葉を言ってほしいがためにわざとああいう表情が出来たら、得の多い人生を送れるんだろうか…。
「…何でかな」
「どうしたの?」
病院について、中に入ったけど…怖くて、エレベーターの前で足が止まってしまった。おばあちゃんの病名は知らない、心臓らしいけど、知りたくも無い。おばあちゃんがいなくなることを、受け入れたくない。
タバコのように簡単に何かに依存出来たら楽だし、生きてる心地が程良いと思うけど、私が依存したのは愛、依存するまでに時間がかかり、その分何よりも大事にしたくて…失った時のショックは計り知れない。
すぐに失った時の事を考えるから、ずっと怯えている。お母さんがいなくなるまで、私はこんなにも細い綱渡りをしてるとは気が付かなかった。
「大丈夫、心配ないから」
「…うん」
こんなにも愛を与えられてもらってるのに、私はまだ欲している…私が不安にならないためか、私の右手をそっと左手で握ってくれている…これ以上優しくしてほしくない…いっぱいもらって…まだもらって…今、手を繋がれて、胸が弾けるみたいに、嬉しい。
「…おばあちゃん…」
不思議と怖くはなかった。エレベーターで5階に上がり、507の病室の左奥のベッドを見ると、人工呼吸器は着けてるけど、弱々しく目を開け、こちらに微笑むおばあちゃんの姿があった。
「…雪…乃…」
澱んだ空気が澄み切るみたいに、曇った空が晴れ渡るみたいに…ボールペンで何百回もぐるぐると殴り書きをしたようなどす黒い心が、綺麗に洗い流されたような…そんな感覚が私に迸った。
「おばあちゃん…おばあちゃん…」
涙は出なかった。それでも、嬉しいことは違いなかった。大丈夫…私はまだ…ずっと…生きてられる…おばあちゃんの手を握り、私は生まれて初めて、未来に希望を持った。




