第十話 私のお母さん
私が誕生日の夜に、おばあちゃんの家を出た後、おばあちゃんは部屋におじさんを呼び、話し合いをしていた。
「…お義母さん…用件とは何でしょうか…」
「…季理人さん…あんたは…雪乃の事をどう思ってるんだ?」
「え…」
おじさんは無口な人だ。まあ、私の前では喋らないだけで、そうじゃないとすごい喋るかもしれないけど…とにかく、会話をした記憶は無い。
「…美由紀の前では言えないでしょう?快と結愛もいるし」
「…そうですね…」
おばあちゃんは普段、娘家族と仲良く暮らしている。私には信じられないが、あのおばさんも笑うそうだ…。
「…僕は正直、どうでもいいんです」
「…どうでも?」
「はい…お義父さんがお義姉さんを嫌っていたのだって、お義姉さんが雪乃ちゃんを産んだことだって…どうでもいい…美由紀はお義父さんに影響されてしまっているみたいですが…僕は心底どうでもいい」
「…じゃあ、雪乃が好きか嫌いかだと、どう答える?」
「嫌いです」
「どうでもいいんじゃないのか?」
「はい…けど、僕がどうでもよくても、お義母さんが迎え入れて、美由紀が嫌悪して…変にギスギスする空気を作る、居心地の悪い空気を作る子ですから」
「そんなにギスギスしてるかい?」
「意地を張るから面倒くさくなるんですよ、お義母さんがあの子を家に入れなければ、美由紀があの子を認めてくれたら…どちらかが折れたら済む話なのに」
おばあちゃんは湯飲みに入ったぬるくなったほうじ茶をすすり、畳の上にバンッと強く置いた。
「来てくれた孫を追い出せと?」
「いや、別にそういう訳じゃ」
「そういう訳じゃないか、来てくれた孫を迎え入れる事が意地だって言いたいのか?」
「僕にはそう見えます、本心と建前が交錯して、自分でも理解しきれて無いんじゃないんですか?」
「…それが…嫌いな理由か…」
「はい」
「ふざけんじゃないよ、家族を拒むような家族なんてあっちゃいかんだろうが!」
おばあちゃんは怒りを込めてそう言い放ったけど、おじさんは顔色ひとつ変えず、話を続けた。
「僕にとって幸野家は飾りに過ぎません、もちろん美由紀とは恋愛結婚で、愛しています、快や結愛だって同じくらい…それと同時に欲しかった…こんなちっぽけな村である程度土地も持ってて何百年か続く家なんですから、好きな米作りだって、その名声の元でやれば気持ちいいでしょう」
「調子に乗るんじゃない、それで雪乃はどうでもいいと言うのか?あんたは婿として幸野の家に入ったんだ、雪乃も家族だ、だから」
「好きになれと?無理でしょ…そもそも、家族なんだから嫌いとかダメ、なんて考え方が古くさい…いや、昔からもこういうのはあった…要するに頭が固い、偽善って事ですね」
「家族が好きな事が偽善と言いたいのか!?」
「そもそも僕は他人でしたし、平穏に幸野の名前に縋って生きたいだけなのに、わざわざ気にしたりしませんよ」
「バカ息子が!!ああ言えばこう言って!」
「自分の考えを押し付けないでください、別に共感とかもしてないですし」
「…まったく…姪なのに…」
「あと普段からお義母さんと美由紀が仲悪いの、あれも見てられないのでやめてください…そして、女同士のいざこざに僕を巻き込まないでください…男は女程強く無いんですから」
おじさんは最後に溜まってた不満を吐き散らし、おばあちゃんの部屋を出た。家庭内のいざこざには極力関わりたくないのが、男というものなのだろうか…。
おばあちゃんはその後ため息をひとつ吐き、立ち上がろうとした直後に、胸を右手で強く押さえて、苦しそうな顔をした。数秒後には痛みは引いたみたいだけど…おばあちゃん…。
「…雪乃…」
「ただいまー」
「ただいま戻りました…」
午後9時頃、俺と雪乃ちゃんは帰宅し、とりあえず部屋に入ってゆったりとした。その後お風呂に入り、寝ようと布団を敷いた時に、おばあちゃんが俺を部屋に呼んだ。
「…お話とは?」
「…琉希さん…あんたになら…話してもいいと思ったんだよ…」
「はい…」
「…何で私以外の幸野の連中が、雪乃を毛嫌いするかね」
「…いいんですか?…」
「少し…暗い話かもしれないけど…聞いてくれないかな?」
「…分かりました」
雪乃ちゃんの話…暗いのは何となく予想していたけど…雪乃ちゃんの事をもっと知れるなら、特に物怖じとかそういう類は感じなかった。むしろ聞きたくてウズウズしている。
「雪乃の母、私の娘の沙友理は…父親の巌から、ヒドい暴力を受けてて…雪乃は、そんな沙友理の娘だからってだけで、煙たがられてるんだよ」
「…何故暴力を?」
「エゴさ…何百年も続く家だから、家の格やらプライドにこだわる人で、長子は男が良いって言ってたけど…私が男の子として産んでたら…変わってたのにさ…」
「いえ…おばあちゃんが女の子を産んでくれたから…俺は雪乃ちゃんと出会えました…なので…自身を恨まないでください…俺のためにも」
「…そうか…」
同情を誘ったのだろうか…それとも、事態の重さを俺に受け入れてもらえるように、自然と俺が、おじいさんが雪乃ちゃんの敵、という意識を植え付くように仕向けているのか…。
おそらく計算はしていない、ただ、他人から聞けばそう聞こえても無理は無い…俺はあったことを知りたいだけだし、下手に勘ぐるのは止そう…。
「…女の子を産んだせいで…あの人は沙友理に冷たくてね…最初はその程度だったけど…2年後に美由紀が生まれてから、美由紀ばっかり甘やかすようになって…」
「…勝手ですね」
「その通り…誕生日プレゼントとか、お年玉とか、明らかに差があったし、私が何度注意しても、「そんなに変わりは無いだろ」の一点張り…けど、沙友理が物心ついた頃から、暴力を振るうようになっていったの」
「…主にどんな事でですか?」
「…沙友理は変な子だった、絵を描いたり、好きな事は日が暮れるまでやるのに、好きじゃない、まあ主に田んぼの手伝いになると、途端に嫌がり、折れずに意地でもやらなかった…」
それは俺もだいたいそうだけど…昔はそれが変だったのだろうか…。
「他にも、何度注意しても人の話は聞かないし、虫をたくさん捕まえて居間に全部放したり、突然奇声を上げたり、自分の服をハサミで切ったり、とにかく世話を焼いたよ」
「…それが、暴力の理由ですか?」
「…言っても直らないなら、痛みを与えればいいって、ことあるごとに叩いた、あの子はずっと泣いてたけど、いつの間にか泣かなくなって…大人しい子に育っていった」
「仕方ない…ですよ…」
「…大学生になってからひとり暮らしを始めて、奨学金で通ってて…その時に付き合っていた人との子供を授かってね…それが雪乃なの」
「…若いんですね」
「…その若さと、ちょっと抜けてる性格のせいかね…男に逃げられたんだよ…所帯持ちだったそうだ」
「不倫ですか…」
「独身だって騙されてたみたいで…ショックでしばらく立ち直れなくて…大学もやめて、家に戻ってきた時には、中絶も出来なくなってたんだ」
予想を大幅に上回る重い話に、俺はただただ唖然としていた。まるで生まれた瞬間から、不幸になることが決められていたかのような雪乃ちゃんのお母さんの人生に、深い悲しみを覚えた。
同時に、顔も知らないおじいさんに憤りも覚えた。いつもはこういう話には共感なんてこれっぽっちもしないのに…。
「そうなると、うるさいのがあの人でさ…不倫の子なんて家の品格に傷をつける、とか…思った通りの言い草なんだよ…そんなあの人を見て、美由紀もあんな感じになっちゃってね…身重な沙友理に罵詈雑言を浴びせて、余計雪乃に負担をかけて…私しか、支えてやれなかった」
「…どうして、どうしておばあちゃんは…お母さんや雪乃ちゃんを、見捨てなかったんですか?」
「…雪乃、かわいいでしょ?」
「え…はい…」
「それでいい」
「…それでいい…」
「家の格なんてどうでもいい、世間の目なんてどうでもいい、この世に生まれてきたかわいい子や孫を誰よりも愛する、愛してる…家族の幸せよりも大事なプライドなんて、どこにあるもんか」
「…そんな事…俺は胸を張って言えません…」
「もちろん、無条件に愛せる訳じゃない、家族はどう転んでも他人なんだ、一緒に過ごして、お互いの事を知って、同じ釜のご飯を食べて、分かり合って、一緒に成長していくのが、家族なんだと私は信じている」
「…」
言葉が出なかった。人に面と向かって、偽善と、きれい事と言われてもおかしくない、俺ならそう思われるのが嫌で、思ってても言えない言葉を、俺に言ってくれた…。信用されている証拠だ。
目や顔で色々分かるなんて、フィクションだけの話かと思っていたが、本当に分かるんだな…その思いが紛う事なきものだと理解出来た。
───夢を見た、お母さんの夢。
今年から住んでいるアパートの8畳の居間で、横になって昼寝をしていた私が目を覚ますと、お母さんは私を見て、「おはよう」と一言口にした。
夕日が窓から差し込むオレンジ色の部屋で、私は目を擦り、よだれを拭い、あぐらをかいて座り、ボーッとした頭が少し覚めてから、少し時間がかかってからその光景に驚いた。
驚いたが、表情にはあまり出さず、私は口を小さくポカンと開け、無意識に「お母さん」と口ずさんだ。
「雪乃…学校楽しい?」
「…今夏休みだけど」
「え?…あ、ホントだ、夏休みって8月からとかじゃないの?」
「お母さん…自分の記憶を手繰って」
「ん~…ああ、確かに…そうだね」
「あっははは…いつものお母さんだ」
「お母さんは変わんないよ?」
「…ねえ、どこに行ったの?…」
「?…ここにいるじゃない」
「…じゃあ…どこにも行かないで…」
「…私どこかに行くの?」
「…お母さん!」
私は立ち上がり、思わずお母さんを抱きしめた。自分でも気付かないくらい、お母さんが恋しくてたまらなかったみたい…。
すぐにお母さんも私を抱きしめてくれた。温かくて、落ち着く匂いで、大好きなお母さんが…今私の手の中にいる…ずっと放したくない…お母さん…。
「…お母さんは…おじいちゃんのこと嫌い?」
「どうしたの急に?」
またしても泣いてしまった…今までの人生で流さなさすぎたからかな…ちょっとした事でも泣いてしまう…こんなに短期間で色々起きて、目まぐるしく心が揺れていったら、感情のバロメーターが狂うのも無理も無い、かな…。
「そうだね~…嫌いではないかな」
「…え…」
「もちろん苦手、目の前にいたら、何しても怒られそうで、実際怒るから…お母さん、友達出来なかった…クラスの子達が私を見る目と、お父さんと重ねちゃって…怖かった」
「…サボったりしなかったの?」
「しないしない、ちゃんと勉強して、一刻も早くあの家から出ようと思ってたから…あと、サボればお父さんまた叩くし」
全然、楽しい思い出とかじゃないのに…お母さんは、懐かしみ、笑って私に話してくれた…やっぱりお母さんは変わってる。
「でも、嫌いじゃないよ…ホントに親らしい事は何もされなかったけど…嫌いにはなれない」
「どうして…」
「…やっぱり、一緒に暮らした親だもの…どうしても嫌いにはなりきれなかった」
お母さんは優しい…優しいから強い…強いから許せるんだと思う…どれだけ自分に得が無くても…優しいから、私は大好きで…優しいから…幸せにはなりきれないのかな…。
「…私は…嫌い…私は何もしてないのに、お母さんの子供だからって…一時はお母さんを恨んだ…そんな自分も…嫌い」
「…まったく、そういうトコはあの人そっくりだね」
「…そうなの?」
「いつもは他人Bみたいで、話してみると不思議ちゃんで、本心はバッサリしてる…だから、すぐに私から逃げられたのかもね…これを機に、不倫なんてしないで奥さんや子供に優しいお父さんになれてるかな」
「…何でよ…何で…そうなるの…お母さんは!!もっと怒っていいんだよ!!そんなんだから…お母さんが…強いから…皆…皆…お母さんを不幸にするんだよ…もっと怒ってよ…もっと…弱く…なってよ…」
「…よしよし」
今、私の顔は多分くしゃくしゃだ、ずっと泣いてる…お母さんが強くて…優しくて…だから…許せない…お母さんを不幸にする奴らが…おじいちゃんとか、おばさんとか、私の父親とか…。
「皆…いなくなっちゃえばいいのに…そしたら…お母さんも…」
「それは嫌だな~、やめてよ~?」
「…しないし、出来ないし…」
「…雪乃」
お母さんは抱きしめている私を離し、私の両肩に触れ、私の涙を拭いて、微笑んでこう言った。
「私は、雪乃がいるだけで十分幸せだよ、そんなに望んでたら、神様怒っちゃうよ…傲慢だ~って…でも…雪乃は、私なんかより、もっともっと幸せになってほしい…」
「…お母さん…」
「雪乃…私のかわいい子…大事な大事な子…」
気が付くと、お母さんはそこにいなかった。
さっきまでは確かにいた…私の流した涙は物語っている…行かないで…お母さん…私は、お母さんがいない世界なんて嫌だ…まだ…まだ一緒にいたい…行かないで…。
幸せが、遠のいていく感覚が生々しく走って、私はまた、泣いた。
「…ちゃん…乃ちゃん…雪乃ちゃん!!!起きて!!!」
「…琉希…君?…」
「…おばあちゃんが…倒れた…」
───パキッ…私の中のどこかで…そんな音が聞こえた。




