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僕と七尾は学校から少し離れた場所にある人気の少ない公園のベンチに腰を下ろした。
「で、話しって?」
切り出したのは僕だった。隣に座った七尾は、真っ直ぐに、ここではない遠くを見ながら話し始める。
「昨日の私が言った事、改めて考えてみたんだ。結構無理言ってたなぁーて。ちょっと反省。私だって人の目は気になるし、家族や友達、大切な人達の事を考えたら……残される人の事を考えたら、好き勝手ばっかもできないよね」
それは、いつもの馬鹿みたいに前向きな七尾らしくない、弱々しい言葉だった。
想像していたものとは異なる方向性の会話に、返す言葉が見つからない。
風が横切る。
近くの電線に止まっていた鳥達が羽ばたいた。
そして再び訪れた僅かな静寂を破るように、七尾が立ち上がり僕の正面に向き直って、
「八色君は私よりちゃんと、いろんな事を考えてた。それなのに私、馬鹿とか言っちゃった。だからそれは、ごめんなさい」
そう言って七尾は頭を深く下げた。
「お、おい」
僕は七尾の軽口程度で怒ったりはしない。それに七尾が1回謝るのなら、僕は100回謝らなければならない程、露骨に冷たい態度で接して来た。これでは釣り合いが取れない。そんな僕の動揺を他所に七尾は言葉を続ける。
「でもね、間違った事を言ったとも思ってないの。私は……自分の人生が無価値だったなんて後悔はしたくない。七尾奈々は生きてたってちゃんと言える何かを残したい」
「七尾はそれでいいと思うよ。その方がなんだか似合ってる」
本心だった。そんな七尾だからこそ、彼女を突き放す事もできないまま、僕はここにいるのだろう。
「そう思えたのは、八色君のお陰だけどね」
「僕の?」
思い当たる節は当然ない。僕は誰かに何かを与えられるほど心が裕福な人間ではないのだ。
「うん。私って何なんだろうって、ずっと考えてた。先生は怖いパパに気を使って私に優しくしてくれる。友達は奈々はいい子なんだからもっとあれした方がいいよ、こうした方がいいよ、そんな事しないよねって価値観を押し付けてくる。勿論悪気はないし、みんな悪い人達じゃないのはわかってるけど……でも、そんな周りの期待に答えようとしちゃう自分が、なんだか窮屈に感じる事もあってさ」
そう言って七尾は再び僕の隣に腰を落とす。今までに見た事のない、力の抜けた笑顔を浮かべていた。
「私自身の価値って何があるのかなって考えた時、何も残ってないような気がして、少しだけ怖くなるの。誰だって一度くらい考えた事があるんじゃないかな。今まではそれが言葉にならない、もっと漠然とした不安だったんだけどね。昨日、鉄橋から飛び降りようとしていた男の人を見た時、なんでかな、私はあの人に少し共感しちゃったの」
黄色いカードの男の事は僕の記憶にも強く焼き付いている。あの人は自分の価値が認められない社会の中で、自身の存在意義を完全に見失っていた。けれど彼は特別な被害者などではない。長生きな人も、そうでない人も、全ての人が同じ悩みを潜在的に抱えていて、きっとどこかで葛藤しているのだ。それは僕の中にも勿論あって、今も尚同じように悲鳴をあげている。
「だから八色君があの人を止めた時の、僕の人生を僕から奪わないでくださいってあの一言は……ちょっと心に刺さった。私は私の人生をちゃんと生きてなかったんだなって」
あれはそんな格好の良いものではなかった。
僕は自分の中に同じ弱さがある事を認めたくなかっただけだ。
「僕は誰かを助けようとか、そんな気持ちで言葉を選んだわけじゃないよ。もっと利己的で自分勝手な理由しかないんだ」
「わかってるよ。でも私じゃあんな風に上手く自分の気持ちを言えない。昨日会った二人、覚えてる?」
「喫茶店の帰りの?」
おそらく、七尾の友人の女子達の事を言っているのだろう。思えばあの時の自分は本当に情けなかった。出来る事なら忘れたいけれど、今は冗談を言う空気でもない。僕は七尾の続く言葉に耳を傾ける。
「うん。昨日の事、すごい驚いてた。私って滅多に自分の意見を強く主張したりしないから」
「めちゃくちゃ意外だな」
「でしょ?そう見えるように頑張ってたんだよ?」
嬉しそうに胸を張る七尾を見て、僕の心も何故だか和らいだ。
「それにほら、人には好き勝手やれって言っておいて、言った本人が逃げ腰だったらダサいじゃん?だから私、考えて来たの!」
そう言って鞄から薄桃色のノートを取り出す。表紙には丸くて可愛らしい字でこう書かれていた。
「青春を謳歌するための25項目?」
「八色君にはこの25項目の完遂に付き合ってもらいます。えっへん」
えっへん!じゃねーよ。
「何勝手に決めてるのさ」
「えー、1人でやりたい事やっても面白くないじゃん!それにね、私は八色君のその乾いた感じのスタンスに納得いってないの!私がこうして前向きになる切っ掛けをくれた人が人生つまんないって顔してるのって、なんだか悔しい」
大きなお世話である。
「切っ掛けなんてあげてない。七尾が勝手に見つけたんだ。君の理想像を僕に押し付けるなよ」
「うん、そうだね。ごめんなさい。だからこれは私の自分勝手なお願いだよ。今日断られたら諦める。二度と付きまとわない。だから私のお願い、聞くだけ聞いて欲しい」
「聞くだけ聞くよ」
素っ気ない僕の返答に、彼女はまるで勝利を確信した女神の如く、今日一番の笑顔を浮かべてこう言った。
「私と、青春を謳歌してみませんか?」
そんな臭い台詞を、真っ直ぐに僕を見つめながら言うのだから七尾はすごい。聞いている僕の方が恥ずかしいというか、なんだこれ、顔が熱くなってきた。
「そこに書いてある25項目に全て付き合うって事だよね?」
「そうだね」
「七尾は僕より時間があるじゃないか。そんなに慌てて何かをしなくてもいいんじゃないの?」
「ノンノン、今だからだよ!高校生活は3年しかないんだよ?青春終わっちゃうじゃん!私、留年するつもりないからね!」
「他にも友達はたくさんいるんだろ?それは僕じゃないと、駄目なのか?」
「こんな事他の誰にも話せないよ。たぶんわかってもらえない。でも八色君は違う。他の誰より自分の人生の終わらせ方に向き合っているって、昨日の朝の事で思ったの」
そして七尾は僕を指差して宣言した。
「だから私は、八色凪を指名します!」
すごいな。
僕は素直に感心していた。
この子はすごい。
来世にも期待していなかった僕が、今生で何かを残すためにこの茶番に付き合うのも悪くないと思っている。いや、ここまで僕の事を買ってくれているのだから、ここまで彼女に言わせたのだから、その気持ちに答えたいと思い始めたのだ。
「僕は今まで、色々な事を諦めていた」
無価値でいる事は心地よかった。
けれど同時に酷く虚しくもあった。
いつしか望む事を辞めた。
すると心持ちが幾分か軽くなった。
僕は捻くれ者だから仕方がない。
歪んでいるのは性分だ。
そんな言葉を免罪符のように掲げて生きてきた。
そしてこう宣う。
自身に価値が生まれる事が怖いと。
馬鹿だ。大馬鹿者だ。
無価値な生き方を晒してきた奴が何の心配をしているというのか。
そんな事は誇れる自分になってから考えるべき事なのに。
なんて無様な奴なんだ、八色凪。
でも、もしかしたら、僕も変われるのかもしれない。
「私が少し変われたみたいに、八色君もきっと変われる。だって七の次は八なんだよ?」
彼女、七尾奈々の隣なら、いつか。
「……断る?」
七尾が小首を傾げて微笑んだ。
答えは決まっている。
「断らない。僕も向き合ってみるよ」
──今よりも、ちょっと明るい未来を目指して。