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「なあ、浜口」
「ん?」
午前の授業を終えた俺は浜口と教室で弁当を食べていた。
「知ってたらでいいんだけどさ」
「んー」
結局、昨日は心になんとも言えない引っ掛かりを残したまま一晩を過ごした。その形容し難い感情は、今も尚僕の中で消化されずに残り続け、まるで喉に魚の小骨が刺さっているみたいで、なんとも気分が落ち着かない。とは言え自分ではどうする事もできないので、思い切って目の前の友人(最後の砦)に頼ってみる事にした。
「七尾奈々って、どんな子なんだ?」
「ブホォッ」
紙パックの豆乳を飲んでいた浜口が、僕の言葉をどう受け止めたのか、涙目で咽せ返る。
「いや、すまん。でもまさか八色の口からそんな質問が飛び出すとは、ケホッ」
「そんなとは何だ」
「そんなだよ!いつも斜に構えているお前が、悩ましい表情で女の話しを始めた。俺を殺す気か!」
「殺す気はなかったが、たった今気分が変わりそうになった」
まあ確かに、聞き方に問題があった事は否定出来ない。たった一人の友人からこういうレスポンスが返ってくる辺り、日頃の自分の言動を見つめ直す必要が……いや、ないな。この発想からしてすでに昨日の七尾に毒されている。
「昨日、あの後何かあったのか?」
浜口が眉間に皺を寄せて尋ねてきた。
「何も。何もなかったよ」
何も無かった訳ではないが、人に聞かせる程の事でもない。浜口は何かを察したのか、大きく溜め息を吐き出してから、僕の拙い質問に答えてくれた。
「ふーん。まあ俺は意地悪じゃないから細かいツッコミはしないけどよ。知ってる事だって少ないぜ?お前の方が仲良いんじゃないか?」
「いや、僕も昨日初めて話したんだ。ほとんど他人だよ」
何故だろうか。他人と口にした時、胸がチクリと痛んだ。
「そっか。主観だが、七尾奈々は人当たりが良くて見てくれも良いから、いつも誰かと一緒につるんでいるイメージだな。あと教師からの評判もいいと思う」
「それはわかる気がする」
「あの子の父親さんが教育委員会のお偉いさんらしくてさ。教師も他の生徒より気を使ってる節はあると思う。これは結構有名な話しで、俺じゃなくても知ってる奴はたくさんいる」
「へぇ」
「俺も七尾の親父さんを見た事があるけど、厳格そうなちょっと強面のナイスミドルだったぜ」
「七尾とは逆路線か。正直想像つかないな」
「俺だって最初に聞いた時はびっくりしたさ。毎年うちの病院に健康診断で来ててな。俺の親父とも面識があるみたいで、親父と話してる姿を何回か見かけた事があるのさ。で、後から親父経由で娘が同じ高校の同級生だって知ったわけ。何回か挨拶した事もあるぜ?」
浜口と七尾の父は顔見知りだった。これはものすごい確率のように思えるが、実はそうでもない。浜口総合病院はここらでは一番大きな病院だ。この街に住んでいて不健康なら、まずお世話にならない人はいないだろう。というか、この区域の特定保険カードの診断を取りまとめているのも浜口総合病院なのだから、住人全てが世話になっていると言っても間違いではない。それもあって、浜口がその病院の子息と知っている人は、自然と彼に対する好感度が高くなるのだ。故にいつも僕とダベっているように見えても、浜口自身は交友関係が広かったりする。
「七尾の父親とは面識があるのに、七尾とは面識がないのか?」
「いや、親父が面識あるだけだって。子供同士が仲良くしなきゃいけない法律なんてないだろ?」
「そんな窮屈な世界なら何の未練もなく逝けるよ」
「俺が知ってるのはここまで。こんなで満足できたか?」
「ああ、ありがとう」
結局、七尾本人の事はほとんどわからなかった。
ー♪ー
放課後になった。浜口は部活のミーティングがあるため、あっという間に教室から立ち去り、僕は日直当番だったので、黒板周りの清掃をしていた。ちなみに日直のペアは風邪でお休みである。一人だからこそ、だらだらとやっていては時間を無駄に浪費する。丁寧かつ迅速に。それが僕のモットーだ。
部活に入っていない僕は、当番としてすべき事を終わらせたら即座に帰宅する。これがいつもの流れである。帰り支度を手早く済ませ教室を出ると、そこには昨日散々な別れ方をしたボブカットの女子が仁王立ちで待ち構えていた。流石に驚いた。面食らった僕に彼女、七尾奈々はこう告げる。
「七尾はいい奴だな」
何故か低い声を無理矢理作って言葉を続ける。
「だからこそ、僕は君と一緒にいたくない」
どうやら昨日僕が七尾に言った事をそのまま持ち出してきたみたいだ。正直、少し恥ずかしい。
「という事で。七尾奈々は本日より不良になりました。もういい奴じゃありません」
いつもの口調に戻した彼女は、そう言ってにっこりと微笑んだ。因にどの辺りに不良要素が詰まっているのかは皆目見当がつかない。
「もういい奴じゃないので、八色君も安心して一緒に遊べます」
「昨日とどう違うんだ」
「ふっふっふ。スカートの丈が少し短くなったぜ」
何してんだこいつ。
「怖いパパに怒られるんじゃないの?」
「あらら?少しは私に興味持ってくれたんだぁ」
失言だった。これでは僕が七尾について何かと気にしている事を白状したようなものだ。昨日の今日だと尚恥ずかしい。案の定というか、ねちっこい含み笑いを貼付けた七尾が、僕の顔を屈んで覗き込んで来たので、僕は浜口の言葉を借りてその場を誤魔化す事にした。
「別に僕じゃなくても知ってる奴はたくさんいるだろ」
「照れんなし!でも、そういう事にしてあげちゃう」
早速彼女にペースを握られている僕だった。
「何か話しがあったんじゃないの?」
「まあね。廊下で話すのもあれだし場所変えない?嫌なら私はここでもいいけど」
「2択にする事で断るって返答を選択肢から外す作戦と見た」
「断るの?」
「……断らない」
赤紙と人気者の組み合わせは、ここでは悪目立ちするだろう。かと言って断って付きまとわれるのもごめんである。七尾ならやりかねない。それに僕は彼女の事を嫌っている訳ではない。それはきっと七尾にもバレている事だろう。
なら選択肢は一つ。逃げるのはもうやめだ。
「場所を変えよう、七尾」
昨日あんなにも酷い別れ方をした彼女がこうして僕の前に立つ意味と、胸の内で燻るこのよくわからない感情に、僕は正面から向き合う事を選んだ。