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「ねぇ、なんで今日僕を誘ったの?」
僕は足を止めて、七尾と向かい合う。
「え?んー。ぁ、ほら名前!七と八。隣同士で、なんとなく運命感じない?」
七尾は右手の人差し指で、くるくると宙に数字を描きながらはにかんだ。成る程運命と来たか。明らかに今考えたヤツだろ、それ。
「真面目に聞いてるんだよ。ぶっちゃけ壷でも買わされるのかと思ってた」
「あはは、なにそれー、真面目くんかよー」
七尾は暫くの間、お腹を抱えて笑っていた。ここまで爆笑されるとは思っていなかった僕は、冷静に考えて学生同士で詐欺紛いの行為なんてデメリットを背負い込む人間がいない事にようやく気がつき、自身の思い込みが急に恥ずかしくなってきた。これでは真面目というより、もはや馬鹿だろうに。
「ごめんごめん、ちょっとツボって。何だっけ?」
「今日の目的だよ。今朝までまともな面識すらなかったじゃん。わざわざ僕を誘う理由なんて普通ないだろ」
七尾は少し困った笑みを浮かべてから、空に語りかけるように顎を上げる。揺れた髪が、白く細い首に絡み付く。僕は続く彼女の言葉を待った。
「誰かと仲良くなるのに理由なんているのかな。なんとなーく、この人とフィーリング合ってるなーとか。この人ともうちょっとお話ししてみたいなーとか。そんなもんじゃないのかな。友達をつくるのに一つ一つ理由を探してたら疲れちゃうよ」
「僕にはそれが必要なんだ。七尾の友達が言ってた事、僕はすごくよくわかるよ」
確かに僕は今すぐ死ぬわけではないけれど。誰かにとっての生涯の盟友や、人生の伴侶とかにはけっしてなれない。誰かが真剣に悩んでいる時、その誰かより早く死んでしまう僕では、力になれない事がたくさんあるし、かける言葉もどこか薄っぺらくなってしまうだろう。当たり前だ。僕自身が僕の人生を諦めて、その舵取りを手放してしまっているのだから。
そんな僕が誰かに優しくされても、返せる物が何も無い。思い出はきっと荷物になる。だからせめて、人より短い僕の人生は、誰にも迷惑をかける事無く、誰にも負担を強いる事無く、人知れず消えてしまえればそれでいいのだ。僕は親にも浜口にも、誰にも語った事のないそんな気持ちを、彼女に伝えようと思った。彼女には伝えなければならないと、そう思った。
「もしも人生が一つの本だったとして。八色凪というタイトルの本は、たったの25ページしかないんだ。その本は何人かの記憶の片隅で埃を被ったまま忘れられていて、けれどたまに物好きな誰かがその本を手に取り開くんだ」
25。それは僕の特定保険カードに刻印された数字である。
「ふーん、で?」
「何も書かれてないのさ。だからその本を読んだ誰かは楽しい気持ちにも悲しい気持ちにもならない」
「何それ?」
「僕の目指す最期」
「……馬鹿みたい」
そう一蹴した七尾の表情には陰が差していた。彼女は僕の少し広いパーソナルスペースに一歩踏み込むと右手を前に出して言った。
「ねぇ、手。握ってみて?」
「は?」
「い・い・か・らっ!」
訳もわからず、謎の気迫に気圧された僕は、おずおずと手を伸ばし、彼女の手をゆっくりと包み込んだ。
「うん、温かい。八色君、生きてるじゃん」
僕の腕は、七尾に三回程上下に振り回された後、解放された。そして七尾は言う。
「みんな勘違いしてるんだよ。バーンズ博士が生態収束論を発表した理由は、経済効果を生み出すためでも、友達を選ぶためでも、ましてや陰気な愚痴を聞くためでもなくて。きっと悔いが残らない人生を送ってほしかったからだと思う」
「悔いが……残らない?」
「うん、そう。人は誰だっていつか死ぬじゃん。けどいつ死ぬかわからなかったら、惰性で生きちゃうような人や、命を大切にしない人がたくさん出てくるでしょ?だから生き方だけじゃなくて、後悔のない死に方を考えて欲しかったんだと思う。死ぬ直前に、あーやりきったなー、後悔がなかったなーって思えたら。それは幸せな人生だったって言えるんじゃないかな」
そんな事は、考えた事すらなかった。
「それなのに八色君ったら、人の目ばっかり気にして、死んだ後の事まで考えちゃってそれに縛られるなんて、もうお馬鹿さん以外の何者でもないって!」
「お、おう」
「どうせ同じ馬鹿なら、もっと自分勝手な馬鹿になりなよ、ね?」
甘くて優しい言葉だった。暗くて苦い僕の人生に溶けて広がるような。けれど、
「今さらそんな事言われたって、やりたい事なんて何も思い浮かばないよ」
否、それだけではない。八色凪が人生に価値を見出すためには、とても大きな勇気が必要となる。やりたい事を見つめ直す。それは何もやってこなかった自分を見つめ直す事でもあり、未来を見つめ直す事でもある。今の僕にはそれが何よりも怖かった。だってそうだろ?そうすると、どうしたって意識しなければならないじゃないか。25ページの先に広がる暗闇を。
そうこうしている内に、僕は自分勝手のやり方なんてとっくに忘れてしまったのだ。
「そんな事ない。八色君なら出来るよ。今朝みたいに」
「今朝?」
「黄色いカードのおじさんを止めて、電車を待っている人達を助けたじゃん」
「あれはそんなんじゃない。過大評価だよ」
「助けたの!普通出来てもあんな面倒くさそうな状況に首突っ込んだりしないって。でも八色君は行動した。あんなに人がいて、八色君だけが行動した。だから、八色君はやりたいと思った事をちゃんと見つけられて、実行できるって人なんだって、私は思うわけっすよ。ね?」
確かにあの時の僕は、鉄橋で好き勝手に騒いでいた男に対して、穏やかな気持ちではいられなかった。七尾はあの行動を好意的に捉え過ぎているけれど、結果だけを見れば僕が勝手を通したと言えなくもない。僕の中にも許せる許せないの境界線が存在していて、その線をもう少しだけ自分に都合良く押し広げる事が出来れば、或は何かが変わるのかもしれない。
僕はそれを、望んでいるのだろうか?
わからない。考えた事すらなかった。僕は何者でもなく、無価値で余白だらけな一冊の本で終わる。それで良かった。辛くなかった。無価値である事こそが、何よりも価値のある在り方だった。それなのに、それなのに、たった1日で。今日出会ったばかりの友達でもない彼女に影響されて、それを捨ててしまうのか?
はずがない。
「七尾はいい奴だな」
僕にとっての七尾奈々は眩しい存在だった。とても輝いて見えた。だから、その光に当てられた僕の人生が「終わるのが惜しくなる」程、有意義なものに変わってしまう事を考えると、とても苦しかった。それだけじゃない。
僕に価値が生まれたら、きっとそれを教えてくれた君に、何かをしてあげたいと思ってしまう。そうしていつか僕自身が彼女の輝きを曇らせてしまう。僕が赤いカードを両親に見せたあの日、母も父も顔をぐちゃぐちゃに歪めて泣いていた。友人達は、苦虫を噛んだような面持ちで閉口した。あの瞬間の底冷えした空気感は今でも忘れる事はできない。
そうだ。これ以上誰かを泣かせる価値なんて、八色凪にあるものか。
「だからこそ、僕は君と一緒にいたくない」
僕は七尾が怖い。
七尾に救われてしまいそうな僕が怖い。
「明日からは、昨日までと同じ、他人に戻ろう」
だから彼女を拒絶した。
七尾は大きく眼を見開いた後、静かに俯いて何かを呟いた。
「うーん、これでも駄目か。作戦変えなきゃかなぁ」
その言葉は、風の音に掻き消されて僕に届く事はなかった。七尾が顔を上げる。随分乱暴な言葉を投げかけられたばかりだというのに、それでも彼女は笑っていた。
「送ってくれてありがとう!寄る所出来たからここまででいいや、じゃ!」
隣を横切る際に、彼女が「またね」と言ったのを、僕は確かに聞いた。
それ以降、河原で遊ぶ子供達の声も風の音も、胸の辺りを押さえながら歩く僕の耳に残る事はなかった。